4. 消えた少年(4)
一部グロテスクな表記がございます。
「佐賀さん⁉」
佐賀さんはその場で倒れていた。
「構うな!行くぞ!」
「でも……っ!」
「サガシヤだろう! あなたも!」
思いきり頬を叩かれたかのような感覚だ。そうだ、今の私がやることは一つしかない。後続の車から出てきた二人組が佐賀さんを抱き起した。無気力な腕が垂れていた。
行ってきます。これでも私もサガシヤだから。必ず役に立ってきます。
「行きます!」
私たちは走り出す。心臓の音が鼓膜で響いている。
見つかったら終わり。見つけられなくても終わり。
「こっちだ」
柱の陰に身を潜めた麻野さんが手招きをした。言われた通り私は素早く横に移動する。
「あそこに血痕がある。見えるか?」
「はい」
「微かに子どもの声もする。相良の言う通りここで間違いないだろう」
麻野さんはポケットから折り畳みナイフを取り出した。
「俺が敵を連れ出すから、その間にあなたは子どもを連れ出してください。車まで行かなくても部下はあちこちに配置していますから」
助ける、絶対。
「はい!」
受け取ったナイフは熱を持っていた。
「俺が行って少ししたらそこの隙間から侵入しろ。あなたは小柄だし、きっと通れる」
麻野さんは落ち着いた様子で胸元から拳銃を取り出した。
「……はいっ」
「任せたぞ」
そう言い残して麻野さんは走り出す。その後ろ姿はすぐに見えなくなって、そして低い怒号が聞こえてきた。
怖い。足がすくむ。だって、こんなのがサガシヤの仕事だなんて思わないじゃないか。
でも、行かなくては。受け取ったナイフをぎゅっと握りしめる。
「行くよ」
私は金属のパイプやコードの間を縫うように進んでいく。さっき中の様子が見えた、閉め切られていないシャッターの前で身をかがめた。狭い。だからといって少しでも持ち上げれば音が鳴る。音が鳴れば誰かが気づいてしまうかもしれない。低く、低く。私は懸命に腕で体を運んだ。
見つけた!
中はただの広い空間だった。埃っぽいコンクリートの床に、太い柱が並んでいる。その中央付近の柱に子どもが三人繋がれている。男の子が一人と女の子が二人。三人とも年齢は同じくらいに見えるが、男の子の怪我が特にひどそうだ。
「助けに来たよっ」
私は三人に駆け寄って、繋いでいた縄をナイフで切っていく。こんなに幼い体が痛めつけられたのだ。顔にも体にも殴られたような傷はたくさんあった。
「聞いて」
女の子の一人がようやく解き放たれる。
「私が入ってきたあのシャッターをくぐったら右に曲がって、少し走ったら大きな道に出るから」
二人目の女の子が自由になる。
「その道を、この建物から逃げるように走って! そうしたら、強い人たちが助けてくれるから!」
最後に男の子の腕の縄を切る。
「走って!」
私の声に合わせて子どもたちは走り始める。怪我が目立つ男の子の背中を支えて走る。正面の入り口で銃声が鳴った。生まれて初めて聞いた音。
「麻野さん……っ」
どうか無事で、どうか。
「ガキが逃げたぞ!」
女の子がようやくシャッターをくぐり始める。私たちに気づいた一人の男はどんどん距離を詰めてくる。どうしよう、どうしたら。
サガシヤの従業員として、依頼達成のために私に何ができる?
怯えた顔をするこの子たちをどう守り抜けばいい?
「お姉さんは強いから心配いらないわ。とにかく逃げて!」
にっこりと笑ってみせる。恐怖で口角が震えている。うまく笑えているだろうか。子どもたちはこくんと頷いて急いでシャッターをくぐっていく。最後に男の子が外に出た。三人の足音が遠のいていく。それと同時に私は覚悟を決めた。近づいてきた足音はもう私のすぐ後ろ。私がシャッターをくぐる時間はないし、この男を足止めして時間を稼がないとすぐに追いつかれてしまう。
「ざけんなクソ女ああああああぁ!」
振り上げられた拳。残念ながら私は強くなどない。体の前に腕を出して防御することしか知らない。
「きゃあっ!」
左腕にぶつかった衝撃に耐えきれなくて私は数メートル吹っ飛ばされた。受け身の取り方なんて知らない。私の体はコンクリートの硬い床に強く打ち付けられた。
「なんだこれ?」
何とか上体を起こすと男は見覚えのあるナイフを持っていた。殴られた衝撃でポケットから落ちたんだ。こんな風に相手に武器が渡るなんて最悪だ。
「お前ムカつくからこれで刺してやるよ」
恐怖に足がすくむ。立たないと。逃げないと。ここで座っているだけでは勝ち目はない。そう思っていても、まるで私の体じゃないみたいに少しも動かすことができない。
「死ねよ!」
男は不気味な笑顔を浮かべてこちらに向かってくる。きらりと輝く刃先がまっすぐ私に近づく。
どうしようもない、私は強く強く目を閉じた。
「そのナイフじゃあんまり奥まで刺さらないよ?」
聞いたことのない人の声がした。その人は私よりも小柄な人だった。どこからか現れたその人は私の前に立ち男のナイフを掴んでいた。恐ろしいことにナイフは手の平から甲に貫通していて、ポタポタと鮮血が落ちていく。
「なんだお前?」
男は力ずくでナイフを抜き取った。そのせいで指先からも血が吹き出す。
「助けに来たよ、お兄ちゃんの頼みでね」
笑った横顔が見える。その人は仁穂ちゃんよりも幼い子供だった。どこかで会ったのかも記憶にない。この子の言うお兄ちゃんは誰なのだろう。
「血がっ……」
細い腕を赤い液体が伝っている。
「心配いらないよ、すぐ治るから」
その言葉通り、尋常ではない速度で傷口が閉じていった。
「気持ち悪いなお前」
男は再び彼女に切りかかる。高い位置からの攻撃。このままでは顔が切られる。
「避けて!」
決着がつくまでは一瞬だった。少女は躊躇うことなく前に出て、深く顔を切られた。そのまま少女は腕を伸ばし、男の首を掴んだ。
太く頑丈なモノが折れる音、その後で男は少女の前に崩れ落ちた。
「フタバちゃんじゃないからこのままのお別れだね」
こちらを振り返った少女の顔はまだ再生中で、鼻の骨が露出していた。
「またね、お姉ちゃん」
少女の姿は一瞬で消えた。残されたのは首の折れた男だけ。あの子の細腕がこの男を殺したのだ。私を守るために。
「ナイフ……」
よく見たら借りたナイフもない。男がどこかに飛ばしたのかもしれない。申し訳ないけれど、今は逃げることに集中しよう。あの子が誰なのか、あの子が言っていたこととか、分からないことはたくさんあるけれど今はもう、頭が回らない。最優先は何だっけ。
「外……」
そうだ、今は外に出るんだ。這いつくばってシャッターをくぐる。狭い路地を壁に寄りかかりながら進んでいく。子どもたちは無事に組織の人たちの所まで辿り着けただろうか。麻野さんは怪我していないだろうか。
「帰りたい……」
警備員がきっと待ってる。あったかいお茶を淹れてくれる。ぐうたらしている佐賀さんがいて、仏頂面の仁穂ちゃんがいる。そんないつも通りの平和な毎日に帰りたい。
「あ……」
体が傾いていく。力が入らない。
「ここまでよく耐えたな」
麻野さんの声だ。私の体は誰かに抱きかかえられた。ごめんなさい、借りたナイフ失くしてしまったんです。そう伝えられないまま、私の意識は遠のいていった。
お読みいただきありがとうございます。