4. 消えた少年(2)
「おはようあすみさん」
給料日から数日、いつも通り出勤すると既に着替えを済ませた佐賀さんがいた。普段ならまだいびきをかいている時間だ。
「何かあったんですか?」
「千宜がもうすぐ来るから」
麻野千宜、警察官にして佐賀さんの兄。笑った顔など想像できないような怖い人。
「何をしに……?」
「急ぎってことはたぶんお仕事かな」
サガシヤの依頼ということなのか、警察の仕事でここに来るということか。どちらにせよまたあの人と対面しなくてはいけないのは気が重い。
そんなことを考えている間に誰かが階段を上る足音が聞こえてきた。かなりの速足でその人は近づいてくる。
「相良」
「やあ」
いらっしゃい、そういった出迎えるような言葉を佐賀さんは言わなかった。
「お疲れ様です、麻野さん」
「ああ、元気か」
「はい」
麻野さんは警備員と少し会話をしてこちらを見た。
「部外者には出て行ってもらいたい」
部外者。急に向けられた矛先に私は一歩下がってしまった。
「その必要はない。彼女はサガシヤに必要な存在だ」
佐賀さんが社長の椅子から立ち上がった。
「誰が決めた」
「千宜はサガシヤの従業員じゃない。だから口出す権利はない」
「誰のおかげでサガシヤが続けられていると思っているんだ」
「同じ言葉を返そうか?」
白熱する兄弟喧嘩。この兄に一歩も引かない佐賀さんが頼もしい。
少しの睨み合いの後で先に目を逸らしたのは麻野さんだった。
「……まあいい、それより時間がない」
どうやら佐賀さんの勝利らしい。麻野さんは持ってきた封筒から何枚もの書類を取り出した。
「政治家の孫が誘拐された。身代金の要求はない、目撃情報も多くない」
佐賀さんの目の前に一枚ずつ紙が広げられていく。
「名前は新井海琉。探せ、と上からの命令がきた」
幼稚園か保育園か、その制服を身にまとった男の子が笑顔で写っている。名前も家族構成も、行方が分からなくなった日の行動が事細かに書かれて入る。
その紙は明らかに捜査資料だった。こういう物は持ち出し厳禁なはず。
「もう死んでいるかもしれない」
佐賀さんは近くにあったボールペンを持って、資料の一部を指した。
「一昨日ってかなり前だね」
その指摘に麻野さんの表情が歪んだ。
「もっと早く持ってきていたらって後悔しないようにね、刑事さん」
「悪い、よろしく頼む……」
怖い顔をしたその人は佐賀さんに深く頭を下げた。
「行こうかあすみさん。今回は警察のコネ使い放題だ」
少しも動じることなく佐賀さんは微笑んだ。
もう死んでいるかもしれない。その言葉は私の中でループしていた。
「遅くなりました、麻野です」
サガシヤを出た私たちは麻野さんの運転する黒い車に乗ってとある住宅街に着いていた。似たような家が並ぶ、普通の住宅街。小さな公園には誰もおらず、閑散としていた。
麻野さんはそのうちの一軒の前で足を止めて、インターフォンを押した。
『……入ってください』
か細い男の人の声だった。麻野さんは分かりました、と言って門を開ける。玄関の前にはおもちゃがあって、砂場で遊ぶためのスコップやプリンの容器が赤いバケツの中に納められていた。その子が集めていたであろうどんぐりがあちこちに散らばっている。
「あすみさん?」
佐賀さんは足を止めた私を呼んだ。
「大丈夫です……」
ここには本当に子どもがいて、そして、いないのだ。助けたい、でも出来なかったら。手遅れだったら。
「あすみさんは何も背負わなくていい」
佐賀さんは優しく私の背中を叩いた。そしてそのまま家の中に入っていく。
「あなたは入らないのですか?」
入らないなら帰ってくれていいけど、麻野さんはそう言いたげな目を向ける。
「最後までやります」
ぎゅっと拳を握って私も中に入る。
「こんにちは、新井さん」
リビングには魂が抜けたように座っている奥さんと、お茶の用意をしている旦那さんの姿があった。佐賀さんはキッチンにいる旦那さんに頭を下げて、テーブルに向き合っている奥さんの隣に立って挨拶をしていた。
「警察に協力している佐賀と言います。よろしくお願いします」
「誰でもいい……」
「お前、そんなこと言うなよ……」
「誰でもいいですから、あの子を助けてください!海琉を返して!」
ボロボロと涙をこぼして奥さんは佐賀さんの腕をつかむ。
「新井さん、そのために彼に協力してください」
「もちろんです」
駆け寄ってきた旦那さんは奥さんの肩を支えた。
「早速始めましょう」
佐賀さんは乱雑に封筒から紙を出した。それは先ほどの捜査資料だった。
「ここに書かれていることに間違いがないか、確認してください」
その日のことを鮮明に思い出させる資料たち。夫婦は顔が真っ青になっていた。
「あと、海琉君の荷物はどこにありますか?」
「か、海琉の部屋は階段を上った突き当りの部屋です」
「わかりました。では、資料のチェックが終わったら呼んでください」
佐賀さんは私に行くよ、と言ってリビングを出て行った。麻野さんを見ると彼も渋い顔をしていた。佐賀さんのやり方が気に食わないような。それでもこの人は何も言わなかった。
「無理よ! こんなのすぐに見れる訳ないわ!」
「お願いします」
麻野さんは頭を下げた。
「私たちにとってどれだけ苦しいことか、分からないの⁉」
「お願いします」
「警察には一度全てを話しているはずだ!」
「お願いします」
その人はずっと頭を下げていた。
「紙を手に取って、出来るだけ詳しく思い出してください。必要なことなんです」
私は麻野さんの隣に立った。
「お願いします!」
同じように深く、頭を下げて。これが必要なことなのか、私にはわからない。だけど、この人は私より佐賀さんを知っている。部下が頭を下げる理由なんてそれで十分だ。
「……本当に見つかりますか?」
「全力で探します」
私にできることなんてないに等しい。頭の回転が速いわけでもない。機械は得意じゃないし、鍵を開けることもできない。警察のような力も人脈もない。今までだってそうだ。私は何もできなかった。それでも清掃員として、補佐としてできることがあるなら全力でサポートをする。そこは絶対に曲げない。
「よろしくお願いします」
夫婦は視線を合わせてから少しだけ頷いてくれた。
「早く行け」
私にそう言ったのは麻野さんだった。相良に呼ばれていただろう、彼はそう続けた。
「お二人をお願いします」
リビングを出て階段を上る。壁には家族の写真や子供が描いたような絵が飾られていた。
「遅いよ」
佐賀さんは腕を組んで立っていた。
「ごめんなさい」
部屋は綺麗に片付けられていた。ベッドの上には大きな怪獣のぬいぐるみが置いてある。
「この部屋の物を片付ける。あすみさんは渡されたものを指示通りに置いて」
「は、はい」
どういう意味か私にはよくわからなかった。彼は初めに怪獣のぬいぐるみを手に取った。
「……違う」
佐賀さんはそれだけ言って怪獣を渡してきた。
「えっ、どう置くんですか?」
「あぁ……アルファベットを振るから同じものをまとめて置いて。それはB」
次に毛布を手に取った。布団、時計、枕。佐賀さんは次々に振り分けていく。何の規則性があるのか、私にはわからなかったが言われるがままに置いていった。片付けられた部屋にあった物たちはバラバラと床に集められていく。
「一回休憩しようか」
佐賀さんが手を止めたのは二時間ほど経過した頃だった。
「こんなにぐちゃぐちゃにしてしまって大丈夫なんですか?」
「仕方ないよ、時間がないから」
佐賀さんは額の汗をぬぐった。
「相良」
階段を上る足音がして、麻野さんがやってきた。
「終わった?」
「ああ、一通り見てもらった」
麻野さんは封筒を渡す。
「海琉君がいなくなった時の持ち物とかないよねぇ?」
「ないな」
だよねー、佐賀さんは暢気にそんなことを言う。
「あすみさんは千宜と一階で待っていて。終わったら行くから」
「何を……」
何をするのか、聞こうとしたのを麻野さんに遮られた。無理矢理腕を引っ張られて一階に連行される。
「さぁ、教えておくれ」
封筒の中にしまわれた色のついた資料に手をかざした。
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