劉紅花は刺激を欲する
とある職員の日記
三月八日
早いもので、あの娘が来てから来月で一年が経つ。最初の頃は酷いものだったが、今となっては多少なりと落ち着いてくれて良かった。
中国語が出来るという理由で、新しく魔術師となった女の子の通訳を頼まれた時、軽い気持ちで引き受けたのを随分後悔したことを覚えている。
あの少女、劉紅花は、端的に言って狂犬だった。あの修羅のような目を最初に見た時は、齢十二の少女がこんな顔になるような経験があった事に、胸を痛めた。自分にもまだ一歳に満たない娘がいるのも、一つの要因だろうか。
だが、いざ傍に付いてみると、誰彼構わず噛みつく凶暴性に辟易させられた。私には家族がいたから耐えられたが、独身なら早晩転職を決意していただろう。倒れるまで戦い抜いた彼女を何度も抱きかかえて医務室に運んだ。尋常ならざる戦いぶりに反して、その体躯は歳相応の少女だった。
そんな彼女が、今や日本語を少しずつ勉強し始め、あろうことか私を含む他人の意見に耳を貸そうという態度を示してくれる。
これも彼――白峰悠君のお陰だ。
*
三月九日
最近、ホンファと柏木さんが一緒にいるのをよく見るようになった。聞いてみたところ、どうやら柏木さんも中国語を話せるという。……それなら、歳の近い彼女が最初から通訳を担当した方が良かったのではないだろうか。そう思ったが、彼女もまだ協会に来て日が浅かった為に、仕方無かったのかもしれない。それにしても、白峰君といい柏木さんといい、どうも魔導協会というものは素性不明の少年少女を積極採用する方針でも定めているのだろうか。とはいえ、業務の関係上大っぴらに求人を出せない以上、魔導因子さえあれば誰でも良いのかもしれない。
何にせよ、ホンファの交友関係が広がるのは、何だかんだで喜ばしい。あの狂犬のような眼も、戦闘時以外は鳴りを潜めるようになり、段々と幼い少女らしい可憐さが垣間見えるようになってきた……気がする。
この先、彼女がどのように成長していくのか、それを楽しみにしている自分がいる。
*
時は、滝本純とローズ・ウォーターの戦闘から五年前。
白峰悠十五歳、劉紅花十二歳の頃である。
「ホンファさん、どうかしましたか?」
「……」
ギリギリと歯ぎしりをするホンファに、眉を八の字にした悠が話しかけている。近頃は来た頃より大人しくなり、自分に戦術の教えを乞うなど、ホンファのことを少し弟子のように思えて来た悠だった。が、今日の彼女の様子は、どうもおかしい。何を言っても反応せず、ただ歯を剥き出して憤怒の表情を浮かべるばかり。これではまるで、一年前の彼女に戻ってしまったようだ。
唐突にこうなってしまった以上、何かしら原因があることは間違いない。が、その原因が自分には皆目見当がつかない。尋ねてみてもご覧の有様。となれば、最早悠にはお手上げだった。さしもの絶対勝者も、お転婆娘には敵わないのだ。
『……不喜……』
「え?」
ボソリと、ホンファが何かを呟いた。が、中国語なので悠には分からない。困り果てていた彼の元に――
「あら、白峰さんにホンファさん」
救世主が現れた。
柏木瀬良。悠と同い年でありながら、魔導協会のオペレーターとして活動している少女だ。サイドテールに纏められた金髪と、十五歳とは思えない抜群のプロポーションから、五歳は上に見られる彼女が並ぶと、ホンファが一層幼く見える。
悠が手をこまねいているのを察したらしく、瀬良は口元に微笑を浮かべつつ、ホンファに中国語で話しかけた。
『どうしました、ホンファさん? そんなに歯を食い縛っては、綺麗な歯並びが崩れてしまいますわよ』
『セラ……。シラミネがアタシを心配してるのは分かるけど、アイツアタシの言葉分からないのよ。そもそも、解決できるか分かんないし』
『あら、それは話してみないと分からないでしょう? 何でしたら、私も協力しますし、お悩みがあるならお聞かせ下さいな』
『……分かったわ。あのね……』
瀬良からの翻訳で彼女の真意を聞いた悠は、想定外の言葉にポカンと口を開けた。
「麻婆豆腐が食べたい、ですか?」
*
「『最初は別にいいと思っていたけれど、火が経つにつれて痺れる程度に辛い麻婆豆腐が食べたくて仕方なくなってきた。幾つか中華料理店に行ったけれど、どれも日本人仕様にされているせいでぬるい』……とのことです」
「な、なるほど……」
地団駄を踏みながら激しく抗議するホンファと、それを冷静に通訳する瀬良の温度差に困惑しながら、悠は顎に手を当てて考える。
「とはいえ、周辺の中華料理店には既に行っているんですよね。確かこの辺りの中華料理なら、金将や佐幌屋のようなチェーン店が殆ど。確かホンファさん、四川省の出身でしたっけ。確かに本場のような刺激を求めるなら、この辺りでは不足でしょうね……」
『こうなったのはアンタの責任でもあるんだから、協力しなさいよね!』
「えっ!? 僕、貴方に何かしました!?」
『アンタが落ち着かせてくれたせいで、アーシェラ殺す以外のこと考える余裕が出来たのよ。それで食事のことなんか気になっちゃったワケ』
「そんな無茶苦茶な……」
「ですが白峰さん。このまま我慢しておけ、というのも酷だと思いますわ」
「いえ、それはそうなんですけど。話を聞く限り、彼女がご所望なのは本格中華でしょう? 周辺のグルメ情報に詳しい職員を当たるしかないのでは」
「それなんですけど……此方を見て下さいな」
瀬良が悠に、スマホの画面を見せる。そこには、魔導協会の周辺マップが映り、幾つかピンが刺さっているのが分かる。
「『四川料理』でマップ検索してみました。意外と、この辺多いみたいですよ」
「へぇ、そうなんですか。それなら、僕と瀬良さんで聞き込みをすれば――」
悠の言葉を、瀬良がスッと手を差し出して遮った。
「いえ、白峰さん。情報とは便利なものですが、それに踊らされては本当に大切なものを見失いますわ。特に料理など、良し悪しの判断が個人の感性に大きく依存する物なら尚更です。ましてや――」
「……食べに行きたいんですか?」
妙に饒舌になった瀬良。それを不思議に思った悠が何となく言った言葉に、瀬良は頬を赤らめながら目を泳がせた。
「い、いえ。私はあくまで遠く故郷を離れたホンファさんに出来るだけ祖国を思い出せる場所を提供してあげたいという親切心からでありまして……決して私が激辛好きで、ホンファさんが満足するような辛味とはどれ程のものなのか興味があるとか、そういう訳では……」
「食べに行きたいんですね」
ここまで正直に話してくれるとは思わなかった。
慌てる瀬良というレアな姿を前に、悠は一つため息を吐いた。
「まあ、良いでしょう。先の瀬良さんの建前にも一理ありますし。ただ、僕の辛さ耐性が人並みぐらいということは注意して下さいよ。……と言っても、僕に拒否権は無いみたいですが……」
この言葉はホンファに翻訳されて伝わり、丁度休みである明日に中華グルメツアーが実行される運びとなった。
*
『遅いわよ、シラミネ!』
「ホンファさんが早過ぎるんですよ……まだ集合時間の五分前でしょう」
翌日。魔導協会の最寄り駅にある時計台の下で、三人は合流した。既に瀬良も来ており、中華料理グルメツアーは遅刻者ゼロという健全なスタートを切る。
美少女二人との外出という、世の男達が羨ましがるであろう状況にいながら、悠の内心は憂鬱だった。何故ならこれから開かれるのは、スイーツ巡りのような甘い旅ではない。激辛好きの二人が満足するような劇物に、人並みの耐性である己も付き合わなければならないからだ。
『行くわよ、セラ!』
「あらあら、そんなに急がなくても私はついて行きますわよ」
ホンファが瀬良の手を引き、歩いていく。悠は後ろで早足でついて行くのであった。
*
一軒目は、最も駅近くの店だ。街の中華屋という風情だが、料理のサイズが大中小で選べる為、小サイズで小手調べが出来るのが有難い。まだ朝と昼の間といった時間にも関わらず、空いている席の方が少ない店内には、常連と思しき客ばかりだ。
恰幅の良い中年女性が、お茶碗サイズの麻婆豆腐を三つ机に置く。ひき肉の海に氷山の如く聳える豆腐。赤色を纏った豆腐をレンゲで掬うと、プルプルといじらしく揺れる。
口に招き入れると、豆腐と優しい甘みとひき肉の旨味が手を繋いで駆け抜けた。喉へ豆腐を通していくと、ピリリと山椒と唐辛子の刺激が通り過ぎ、食堂から胃へと流れていった。
「これは……美味しいですね」
正直乗り気で無かった悠だが、この瞬間には憂鬱感を忘れる程感動していた。
が――隣の女性陣二人は不満そうだ。
『刺激が足りない!』
「ですね。確かに美味しいですが、ホンファさんの要求に沿う物ではないでしょうね」
「ああ……それは確かに」
本来の目的を思い出す。今回はホンファが満足するような激辛麻婆豆腐の発見が目的だ。つまり、悠が美味しく頂ける程度の物では到底不足、ということになる。
「まあ、いきなり見つかるような物でも無いでしょう。では、次に行きましょう」
完食し、店を後にする。調べた限り、周辺にある中華料理屋は、あと十軒ほど。どれか一つでも琴線に触れればいい。
出来れば一度で極端に辛い物を引いてしまえばいいのだけど。
密かに悠は、そんなことを考えていた。
*
「これは……どうですか、ホンファさん?」
『八角が強すぎるわ!』
「っ……これならどうですか、ホンファさん……」
『山椒はともかく唐辛子が弱いわ! どっちかじゃなくて、どっちの刺激も不可欠よ!』
「……」
「悠さんが喋れなくなってしまいましたが、ホンファさん、どうですか? 私は良いと思いますが……」
『悪くはないけど……何かが足りないわ』
この調子で、三人は店を渡り歩いていった。ホンファと瀬良の評価と悠の評価が反比例し、一般的には充分激辛と言える一品も幾つか当たった。だが、ホンファはある程度評価しつつも首を縦には振らない。やがて限界を超える刺激物を摂取した悠の口数が目に見えて減っていった。
『あの……シラミネ。今更だし、アタシが言うのも何なんだけど……無理に食べることないわよ?』
「いえ……僕も頂きますよ。乗りかかった船ですし。それに……」
汗を流しながら、努めて悠は笑顔を作った。
「知りたいんですよ、貴方のことが。折角、戦う事以外のことを覚えて……いえ、思い出してくれたんですから」
瀬良に翻訳してもらう際になってから、悠は少し気恥しくなった。その照れは、伝える側の瀬良も、聞いたホンファにも伝染した。
一行の間に、若干浮ついた空気が漂った頃、彼らは本日最後の店へと辿り着いた。
「ここ……ですね」
そこは、『天龍亭』という看板を構えた、こじんまりした店だった。赤を基調とした、中華風の配色に彩られた店の外装は、汚れや傷が一切見当たらない。
「ここはまだ、オープンして一か月程しか建っていないので、あまり情報がないんです」
『場所も目立たない所だしね……入る前だけど、正直嫌な予感がするわ。けど……』
ホンファは眉をひそめながらも、扉に手を掛けた。
『ここまで来たら――引く訳にはいかないわ』
「そうですね……行きましょう」
意を決して扉を開けると、片言の女性店員に出迎えられた。四人掛けの木製テーブルに通されると、迷わず四川式麻婆豆腐を三人分注文した。
「入る前はどうかと思いましたが……スパイスの香りがなかなか……」
「ええ、いい匂いですね」
店中に、多種多様なスパイスを配合したと思われる深みのある香りが漂っている。厨房から聞こえる調理の音も、期待感を煽ってくれる。
今日一日麻婆豆腐ばかりを食べていたせいで途中からマンネリムードが漂っていた三人だった。だが、外観でハードルが下がっていた為に、『もしかしたら』という期待を抱けるようになっていた。
そうして、いよいよ三人の前に麻婆豆腐が差し出された。
それを見た瞬間――全員が一様に息を呑んだ。
何故ならそれは、それまでの店とは明らかに違う存在だったから。
まず、汁の色が血の池地獄の如き赤。それが鉄製の器に盛りつけられ、自らの熱でグツグツと煮立っている。細かく賽の目状にカットされた豆腐も真っ赤に染められ、汁から覗く姿が、血の池に溺れる罪人のようだった。盛り付けられたネギの緑を見ると何故か安心感を覚えるものの、その横に添えられた生の唐辛子によって、目の前の存在が『怪物』であることを思い出してしまう。
これまでの麻婆豆腐も悠にとっては辛い程の物もあったが――それらより、明らかに別格の存在感を放っていた。
「それでは……」
「ええ……」
全員が躊躇いながらも、レンゲを赤の沼に沈めた。ドロリと器に滴り落ちる液体に、悠は手を止めそうになる。だが、それでも出された物を残すという選択肢は、親の教えが身に着いている悠には無かった。
「頂きます……」
悠は認識した。今口に入れたのは、辛いとか刺激物とか、そんな物ではない。
これは――痛み。熱と痛みの集合体だった。
そもそも辛味とは、味覚ではなく痛みである。それを思い出さざるを得ない、そんな危険物だった。頭を垂れ、震えること。それだけが、今彼に出来る唯一のことだった。
暫くそのままだと、どうにか刺激もピークを過ぎ、瀬良とホンファの様子を見るだけの余裕が出て来た。
瀬良は、汗を流しながらゆっくりと、何度も口に麻婆豆腐を運んでいた。表情こそ変えないように努めているが、流れ出る汗の量から、平静でないのは確かだ。
「瀬良さん……あまり無理は……」
「いえ……下手に手を止める方がこれは……」
半ば意地になっている瀬良を心配しつつ、悠はホンファの方にも目を向けた。彼女もまた、瀬良同様一心不乱に手を動かしていた。
が、その様子は瀬良とは全く違っていた。
眼を輝かせながら、いかにも幸福そうな顔をしている。それを見ていると、実はこれは美味しいのではないだろうか、という気持ちが湧いてくる。
もう一度レンゲで豆腐を掬うと、自身の口内に招き入れる。が、結果はやはり一口目と同じだった。
とはいえ、一口目よりはまだ、この料理の味そのものを感じることは出来た。
殺人的な辛さの中に、山椒を始めとするスパイスの香りがする。しっかりと水抜きされたであろう木綿豆腐は、舌に触れるとプルッとした心地よい感触を与えてくれる。
恐らく、ただ徒に辛くしているのではなく、店主なりのこだわりがあってこの味にしているのだろう。それを理解することは出来る。だがそれを味わう為に、尋常ならざる辛さを乗り超えなければならないのだ。
グラスのコップ一杯程度では、焼け石に水も甚だしい。なるほど、瀬良の『手を止めない方が良い』というのは真実だったようだ。
悠が真夏の炎天下のように汗を流していると、左隣から器を置く音が響いた。見ると、何か嬉しそうに中国語を叫んでいるホンファがいた。
「瀬良さ……いや、今は話しかけない方が――」
「はい、何か?」
「あれ!?」
一度瀬良に尋ねるのを躊躇した悠だったが、当の瀬良は涼しい顔で手を止め、悠に応答する。先ほどまでひたすらに食べ続けていた彼女だが、今その器には、豆腐は三分の一も残っていなかった。
「瀬良さん……平気なんですか?」
「慣れました。美味しいですよ」
「嘘!?」
慣れる慣れないの問題なのか。慣れるにしても一皿に満たない量で慣れるものなのか。疑問は尽きないが、ともかく彼女は問題なさそうだった。
「ところで……ホンファさんはさっき、なんて言ってたんですか?」
「えっと、確か『シェフを呼んで』といった意味でしたね」
「シェフを……?」
ホンファの声に反応した店員に、ホンファは中国語で何かを熱く伝えていた。二人の様子を見るに、悪い事は言っていないらしい。
「褒めていらっしゃいますね……『本物だ』って」
「えっと……つまり……この皮膚に触れたら爛れそうなレベルの刺激物が、ホンファさんにとっての合格点、ということでしょうか?」
「そういうことですね。私も気に入りましたし、また来ようかしら」
「そ、そうですか……」
女性二人のご機嫌な様子に、悠は自分が間違っているのかという錯覚さえ覚えた。
どうしようか。これは流石に残しても――そう考えた悠の耳に、ホンファの言葉が飛んでくる。
『あら、シラミネ。さっきも言ったけど、無理しなくていいのよ? 何ならアタシが食べてあげるし……。それにしても、フフッ。最強の『絶対勝者』も、案外我慢弱いものなのね』
ホンファが付け加えた煽りまで、瀬良は忠実に伝えた。そしてそれが、悠の魂に火をつけた。
「それは……聞き捨てなりませんね、ホンファさん」
絶対勝者。協会から与えられたその称号を、悠は誇りに思っていた。
何故なら彼にとって、魔導協会とは実家も同然の場。そこに生きる人々は、彼にとって只の仲間以上を意味を持つ。彼らから与えられた名前に泥を塗るのは、たとえ些細な遊びであっても許容出来なかった。
「白峰さん?」
「僕は負けませんよ。ただ辛いだけの食べ物にも……貴方にも。そう伝えて下さい、瀬良さん」
「えっ? あっはい……」
目を閉じ、一度深く深呼吸をする。古武術の道場に生まれ、自身も武術の達人である彼は、たった一度の深呼吸で己のスイッチを完全に切り替えることが出来る。これまで修練と実戦でしか発揮しなかったその集中力を、まさか食事の為に使う事になるとは、悠自身も思わなかった。
だが、今回は只の食事ではない。これは目の前の劇物との――そしてホンファとの、戦いだ。
そして、彼は再びレンゲを取った。
*
結論から言うと、白峰悠は激辛麻婆豆腐に勝利した。
が、その傷跡は、今までの戦いで受けた物よりずっと深かった。
「おお、白峰」
「東条さん、どうしました?」
「なに、今度ボーナスが入るのだが……家族で中華料理を食べに行こうという話になったんだ。それで、俺は中華と言えば麻婆――」
「えっ!?」
数か月経ってなお、上記のように『麻婆豆腐』と聞いただけで反応してしまう身体になった悠。
果たして今はこのトラウマを克服しているのか、それとも未だにあるのか。
『白峰に麻婆豆腐はNG』という話が広がったことで、その真偽を確かめる物はいないのだが。