君は天然色
九月。
季節の変わり目を迎えるこの時期は、空を雲が覆い景色から鮮やかな秋の色彩を奪い取る。
せっかくの休日も気紛れなにわか雨に外出の機会を足止めされ、この空と同じ様にモノクロームな僕の心の屋根にもザーザーと鋭い水針を突き刺してくる。
冷たさが染みる傷口を癒やすように、僕は淡い恋心の思い出が詰まった一枚のアルバムを開く。
色鮮やかな七色の天然色と共に、今も変わらず僕に笑いかけてくれる君のその姿はとても愛らしく、そしてとても美しい。
赤。
梅雨の鬱陶しい雨の日でも、真っ赤な傘をクルクルと回しながら楽しそうに雨の街を歩く君の姿に、僕は初恋にも近いときめきを抱いた。
橙。
遊園地で大好きなオレンジジュースを飲みながら、満面の笑みを見せてくれた君の姿に、僕は一瞬で五感の全てを奪われてしまった。
黄。
真夏の海水浴場、眩しい黄色の水着姿で楽しそうにはしゃぐ君の姿に、僕は釘付けになりながらも君を見る周りの他の男性達に軽く嫉妬した。
緑。
心地良い風に吹かれ、辺りの森林のざわめきに目を閉じ耳を澄ませる君の姿に、僕は春風が遣わさせた森の妖精の姿に錯覚した。
青。
街中が賑やかな青いネオンサインで飾られたクリスマスの日、僕の帰りを待ちきれずにサンタの人形を抱いて静かに寝息を立てる君の姿に、僕はこの幸せな時間がこのまま止まってくれないものかと心から願った。
藍。
桜が咲き乱れる高校の卒業式、藍色のセーラー服に卒業表彰を持ってこちらにピースサインをする君の姿に、僕は君と一緒に過ごしてきた時代の流れの早さを改めて痛感させられた。
紫。
一月の雪が降り積もる成人式、すっかり大人の女性になり紫基調の美しい和服姿に身を包んでこちらに振り返る君の姿に、僕は改めて恋に落ちた。
君に初めて出逢ってから、僕の人生は君だけの為にあったようなものだった。
君が笑ってくれるなら、君の笑顔を守る為なら、僕はどんなに辛い事でも立ち向かう事が出来た。
世界中の誰よりも、どんな勇敢な戦士よりも、どんな名声高き権力者よりも強い存在でいられる事が出来た。
君の楽しそうにはしゃぐ姿を見ると、僕も一緒に嬉しくなって天にも上る様な幸せな気分になれた。
君の悲しみで涙にくれる姿を見ると、僕も一緒に苦しくなって自分の無力さが悔しくて情けなくなった。
全ての喜怒哀楽を一緒に体験して、時にはつまらない事で折り合いがつかなくなってケンカした時だってあった。
ある時は君がわがままを言って僕を困らせたり、ある時は僕が大切に想うがあまりに君を無理に束縛してしまったり。
でも、優しい君は最後は笑って許してくれると、仲直りのしるしとしていつも僕の頬にキスをしてくれた。
はにかみながら少し恥ずかしそうに振る舞うその姿に、僕もすっかりそれまでの事を忘れ君を許してしまう。
僕はいつも君の秋風みたいな無邪気な気まぐれに振り回されて、まるで風見鶏の様に右へ左へクルクルと向きを変えられてばかりだった。
のんびり屋の僕とは対照的に、せっかちで元気一杯の君はいつも僕の手を無理矢理引っ張って先を急かしてばかりだった。
でも、それが嬉しかった。僕の手を握る君の手のひらはとても暖かくて、そして何より優しかった。君と手を繋いで同じ道を歩く事が、僕の一番の幸せだった。
いつまでもこうしていたいと思った。いつまでもずっと一緒に手を繋いでいたいと思った。いられると思った。
でも、それは叶わない夢だった。いつしか僕らの目の前に現れた二本の分かれ道で、君は僕の手を離れもう一本の別の道へと歩んでいってしまった。
その場に立ち尽くす僕を一人置いて、君は振り向きもせずに自らの意志で決めた道を進んでいく。最後にただ一つ、泣きながら別れの言葉を僕に伝えて。
決して叶う事の無い淡い片思いだった。そんな事は最初からわかっていた。でも、それでも僕は君と同じ時間を過ごせた事が幸せだった。君に恋心を抱けた事がとても幸せだった。
きっと僕はこの先将来、こんな素敵な恋に巡り会える事は二度と無いだろう。君と分かち合えた思い出の数々は、一生かけても決して忘れる事は無いだろう。
どんな脚本家でも書く事の出来ない君と僕との最高のラブストーリーは、こうして最後の幕を降ろしたんだ。観客のいない静かな舞台上に、たった一人僕だけを残して。
「いつまでそんな寝ぼけた事を仰られているんですか?いい加減、もうそろそろ立ち直ったらどうですか?」
アルバムを眺める僕の横で、女房が呆れた顔をして居間のちゃぶ台を布巾で磨いている。その上には、湯気が立つ煎れ立てのお茶が注がれた湯呑みが置かれてあった。
「恋だの愛だの、もうそんな甘い話をしている歳でもないじゃないですか?若い娘に夢中になるのもいいですけど、少しは自分の女房に対してもそれくらい熱くなって欲しいものですけどね?」
湯呑みの中に立つ茶柱の様に、女房の鋭い僻みが更に失恋の傷をチクリチクリと刺してくる。僕が大きな溜め息を一つ吐くと、女房は見え透いた様に苦笑し一言漏らした。
「大切な可愛い一人娘を嫁に取られて寂しいのは私だってそうですけどね、もう披露宴から三ヶ月も経っているんですよ?いつまでもそんなにクヨクヨしてたって仕方がないじゃないですか、お父さん?」
「まあ、そうなんだがな……」
「あの子は小さい頃から可愛いお嫁さんになるのが夢だったって言ってたじゃない?あなただって良く御存知の筈よ?その夢が叶ったんだから、あなたも少しは喜んであげで下さいな?」
「お父さんのお嫁さんになりたいって言ってたんだ、あんな男の嫁になりたいなんて言ってない」
「あらまあ往生際の悪い人ですこと、あの子が自分で選んだ男性なんですから間違いなんてありませんよ?真面目で優しいいい人じゃないですか、残念ですけどあなたの負けですよ」
「むう……」
女房に諭されて箪笥の上にある写真立てに目をやると、そこには素敵な衣装を纏った君の姿が写っていた。その衣装の色は、このアルバムの中には無かった最も美しく眩い天然色。
「あの子、本当に綺麗な花嫁姿だったわね?白いウエディングドレスが良く似合って……」
七色の色は全て混ぜ合わせると白色へと変わる。これが答えだったんだ。君は七色の思い出を織り重ねて一人の女性へと成長して、最後にこの素敵な純白のドレスを身に纏ったんだね。
『お父さん、今まで本当にありがとう』
君のこの言葉で僕は夢から覚めた。でも、例え儚い夢だったとしても僕は君に出逢えた事を心から感謝している。
君の父親になれて良かった。君の初恋の相手になれて本当に良かった。こちらこそ、素敵な思い出をたくさん、本当にありがとう。
どうか世界で一番幸せな女性になってくれ。これが僕から君への最後の願い、最後の告白、最後の愛情だ。
そして、これが君との恋の最後の決別の言葉。君は僕の青春そのものだった。かけがえのないたくさんのときめきを、本当に、本当にありがとう。
「しかし、あなたも懲りない人ですね?あの子が赤ちゃんを授かったと聞くや、まだ性別もわかってないのに勝手に女の子用のベビー服とおもちゃをプレゼントに買ってきちゃうんですから、もし男の子だったらどうするおつもりですか?」
「いや、生まれてくる孫は絶対に女の子じゃなきゃ認めない、あの子の娘だからきっと可愛い女の子になるぞ?」
「あらまあ呆れた!今からこの調子じゃ先が思いやられますね、本当に困った恋多きおじいちゃんですこと……」
雨はいつの間にかすっかりと止み、雲の切れ目からは青空が覗いていた。そこに綺麗な七色の虹が掛り、笑顔でその橋をはしゃぎながら渡る君の姿が見えた気がした。
煎れたばかりのお茶が喉を通り体の中を駆け巡る。熱い。どうやら心は熱さを忘れてはいないようだ。今度はどんな素敵な思い出を作ろうか?僕の恋の炎はまだまだこれからも消えそうに無い。
完