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水沢伊織は吊革に捕まり、流れる景色をぼんやりと眺めていた。
数時間前までは人でぎゅうぎゅう詰めだっただろう車両も、終電間際のこの時間は大分隙間が出来るのを知ったのは半年前――今の企業に務め始めてからだ。
半年前、大学卒業後すぐに務め始めこのまま人生を捧げるのだと思っていた会社が倒産した。
二十八歳にして突然職を失った伊織は焦った。新卒でも苦労するこの時代、こんな中途半端な歳に投げ出され、これからどうしたらいいのか、と。
元々いたITの仕事に拘らず、手当り次第エントリーシートを提出する間も、同級生が昇級した、彼女と結婚するなんて浮かれた話が聞こえてきて更に伊織を急き立てた。
だから、今の会社――虎馬商事から採用の連絡を受けたときは飛び上がらんばかりに喜んだ。
エントリーシートを書きすぎてどんな企業なのか覚えていなかった伊織が調べたネットに『ブラック企業』だと書かれていても、そんな些事、無職生活から抜け出せる興奮と比べたらどうってことなかった。
それにどうせ、仕事に馴染むことの出来なかった若者が腹いせにでも書き込んだろうと、ホワイト企業しか知らなかった伊織は軽く考えてしまったのだ。
「……はぁ」
本日何度目かの溜息が無意識に口をついて出た。
人もまばらな車両で、伊織に目を向ける者はいない。椅子に身体を預けて束の間の睡眠を貪る者、伊織と同じく吊革に掴まったまま虚空を見つめる者――各々が、己のことで精一杯だった。
窓ガラスに映る、年齢よりも上に見えるやつれた男の顔に、伊織は口の中で呟いた。どうしてこうなった、と。
あのとき、口コミを見た時点でちゃんと調べておかなかったことが悔やまれる。虎馬商事はトラウマ商事だと揶揄されるブラック中のブラックだった。
上司がやたらと高圧的なことから始まり、残業代が出ないのはもちろん、職務内容自体よく分からないときた。雑誌の後ろに載っているようなブレスレットや身体の毒素を抜く効果の色の着いた水の販売、枕元に置いて寝るだけでお金持ちになれる御札なんてものもあった。
あ、これはもしや――と思っても後の祭り。
見切りをつけて辞める人も多い中、すぐに辞めれば職歴に傷が付くと、伊織は我慢することを選んだ。
それでも――――……
得体の知れない水を嬉しそうに買っていった老婦人の笑顔、藁をも掴む思いでブレスレットを買ったであろう主婦のくたびれた後ろ姿が、着々と伊織の良心を蝕んでいっていた。
「……はぁ。…………へっ!?」
ガタンと、車両が揺れた。
大声を上げて尻もちをついた伊織に酔っ払いに対するような白い目が向けられ、次の瞬間には何もなかったかのように逸らされる。
けれど伊織はそんな視線も気にならない程、驚愕していた。
ガツンと頭を殴られたような錯覚を覚える。
なんだ、今のは……?
――一瞬だったけど確かに見た。
窓の外に流れる景色を遮る細長い巨体に浮かぶのは黒々とした鱗。黄金色の瞳の中の爬虫類のような瞳孔が、車両の電気に眩しげに細められたのを。