第三章(一)
最近の私はどこか調子がおかしかった。原因は分かっている。それは綾に影響されているのだ。
「はあ…………」
ごろんと寝返りを打つと、箪笥の上に置いてある写真立てが目に入った。小学生の頃、遠足に行った時の写真だ。写真の中の私は健一にカブトムシを見せられ、嫌な顔をしている。
私は健一と一緒に住んでいる綾を羨ましく思っていた。どうにかして、私が彼女になれないのだろうか。そんな不可能なことを延々と思い浮かべていた。
そして私は悟った。
これは健一への恋なのだ。
気づいたのは今更であった。恋を自覚すると、その証拠が次々と挙がってきた。
唐突な恋の来訪に、私は堪らなく恥ずかしい思いをした。この恥ずかしさに耐えようと、枕へジタバタと顔を埋めた。
ジタバタジタバタと激しく足を動かしていたが、やがて疲れてしまいジタバタするのをやめた。
そしてそのまま眠りへと落ちていった。
本日の起床時刻は朝の七時だ。
綾が健一の家に来てから、私が朝ご飯を作ることは、なくなってしまった。
健一を起こす仕事も彼女がしようとしていたのだが、彼女に言ってその役を譲ってもらった。
これだけは譲れなかった。それは私が守り続けてきた規律でもあった。もし譲ってしまったら、健一との繋がりも消えてしまうように思われた。そして私自身も崩壊するのだ。
「ふう…………」
こんなことを考えていても仕方がない。私は邪魔な考えを断ち切った。
着替えをすませて外へ出る。
「よっと!」
健一の家の屋根へ移ると、壊れた雨樋が目に入った。
やっぱり、直していなかった……。健一が直さないのなら、後でお父さんに頼んでみようかな……。
健一の部屋の窓まで辿り着いた。
音をたてぬよう慎重に窓を開ける。
「おじゃまします……」
右足から室内に降り立った。捲っていたカーテンから手を離すと、ヒラヒラと元あったように戻っていった。外光が遮断され部屋は薄暗くなる。
ベッドの側まで歩み寄った。
彼は穏やかに寝息を立てていた。
今その唇にキスをしたら、一体どうなるのであろうか。フィクションでしかみないその行為が、やけに現実的なものに思えた。
「起きろ、健一」
そう言いながら、健一の肩を叩く。
「んんっ……」
だがなかなか起きてくれない。ここ二週間、健一に言われた優しい起こし方で起こしているのだが、それでは健一が起きるまでに時間がかかってしまう。やはり前の起こし方のほうが良いと思う。
「いい加減起きろ!」
十回ほど叩いた頃、健一に動きがあった。
「おっ、やっと起きたか。このまま起きなかったら、頭引っ叩いてっ……!」
肩を叩いていた手を、強く引っ張られてしまう。その勢いのまま、布団の中に引きずり込まれる。
「な、何するんだ健一! やめろ!」
健一に抱きつかれる形で、布団の中に収まってしまった。後ろから彼の寝息が聞こえてくる。
「んん……、温かい……」
「温かいじゃない! 馬鹿!」
身体に力を込めるが、堅牢な腕は私を包んだままびくともしない。
「う、うぅぅ……」
首筋に吐息が当たってこそばゆい。
私はそのまま動けずにいた。
コチコチと秒針の動く音だけが時の流れを教えてくれる。胸の鼓動は不規則で役に立たなかった。
最初は堪らなく恥ずかしかったが、段々慣れてくると、彼の存在を全身で感じることができ、幸せな気分になった。
願わくは、このまま彼の目が覚めませんように。
そう願ってみたものの、こんな状況が永く続くはずはない。
「んうう……」
もぞもぞという動きが大きくなっていく。どうやら彼が目を覚ましたようである。
「お、おはよう。健一」
後ろで寝ている健一にそう挨拶をする。
「うん……。ああ……。おはよう……」
そのまま、彼は言葉を発さなくなる。
「………………」
「………………」
訪れる静寂。
「うおお! な、なんだこれ!」
しばらくして、彼はこの状況を整理するのに成功したようである。
慌てて私の身体から腕を解く健一。身体に感じる圧迫がなくなると、代わりに私は言い知れぬ寂しさを感じるようになった。
「な、何で布団に入っているんだ? かなみー、起きてるかー?」
「…………」
私は応えない。
「寝てるのか?」
彼はまだ寝ぼけているのか、私がさっき挨拶したのを忘れているようだ。
「うーん、無理に起こすのも悪いしな。学校に行く準備もできているようだし、しばらく寝かせとくか」
そう言って彼は部屋を出ていった。
私は健一の布団の温もり、それと匂いに包容され、微睡みに沈んでいった。このまま眠ってはいけない、という内心の抵抗も虚しいものであった。
「それにしても、よく寝てたな」
「うるさい!」
朝の通学路に三つの影が長々と伸びる。空には雲一つなく快晴であった。こんな天気の日に運動したら、気持ちが良さそうだ。
「夏波があんな風に寝てしまったのって、初めてなんじゃないか?」
健一が余計なことを言う。
「そうなのですか?」
綾が聞き返した。
ああ、そんなこと聞き返さなくてもいいのに……。
「ああ。僕が二度寝しようとすると、夏波はいつも怒るんだ」
「わ、私だってうっかり二度寝しちゃったりする!」
人間、完璧にはなれないのだ。
「そんな誇らしく言うことじゃないだろ」
「うぅぅ……」
「そうだな……。今度、僕が二度寝した時、見逃してくれるか?」
彼は妥協案を提示した。だがこんなの聞き入れられるはずもない。
「それはダメだ! ぐうたらするのは身体に悪いぞ! それに学校に遅刻したら困るだろう?」
「うぐ……。そう言われると辛いな」
そう言って彼は頭をかいた。