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第二章(二)

「はい、皆さん問題のプリントを配るので、受け取ってください」

 物理の授業は教室ではなく物理室で行われている。

 何故かというと、教室の教壇は安積先生が使うには高く、晒し首のような状態になってしまうからだ。それに比べて物理室にある先生用の机は、教室の教壇よりも低く、先生はこちらを気に入っていた。教室移動が面倒ではあるが、反対者は誰もいなかった。

 また黒板は下三分の二しか使われなかった。先生は時々、上の方にも文字を書こうと挑戦するのだが、やはり三分の二しか使われない。

 助力の会と紳士の会の両会では、この努力の行為を決死の抵抗と呼んでいた。

 ほかにも、黒板の一番下から先生が届くことのできた一番上までを、可能限界域と呼んでいた。

 先生がプリントを配布し終えた瞬間、チャイムが鳴った。

「あら、問題を解く時間がなくなってしまいましたね。どうしましょう……」

 その声を聞いて一人の男が立ち上がった。

「先生! 次の物理の授業に、回してはいかがでしょうか」

 そう言ったのは前方の席に座っている瀬ノ内くんだ。彼は助力の会の中でも活動的な会員であり、しかも我がクラスの委員長を務めている。

 それに対して、僕の後ろで動く気配があった。

「それだと次の授業の進行が遅れてしまいます。いっそのこと、各自でやっておくように……とした方が良いのではないでしょうか」

 浩二が覇気に満ちた声で言った。

「え、えっと……、そうですね……」

 少したじろぎながら先生が応える。

「そもそも委員長殿は、この前先生が教室の美化活動に勤しんでいる時、『ああ、花瓶の水を変えるのですか。僕がやりますよ』とか言って花瓶、割ってたじゃねーか。そんなヘマしたんだから余計なこと言ってんじゃねえ」

「徳平くんこそ、『先生、チョークなくなったの? なら俺が持って来るわ』とか言っていたけど、取りに行く途中、友達と話し込んで忘れてしまっていたじゃないか。あの時、先生がどれだけ心配したか分かっているのか」

 こうなった二人は誰にも止めることはできない、そう安積先生でさえも。

 激論が交わされている間、他のクラスメイトたちは淡々と教室に戻って行く。これはいつもの光景なので誰も気に留めない。

 ……僕も帰ろう。

「物理準備室に資料戻すのを、手伝ってもらえませんか?」

 席を立ったとき、いつの間にか隣にいた先生にこう言われてしまった。

 物理室には浩二と瀬ノ内くん、そして僕と先生しかもう残っていない。

 できればこの大役を浩二か瀬ノ内くんに譲ってあげたいのだが、今の彼らは時空の彼方へ飛んで行っていた。

「この資料ですか?」

 黒板の前まで行った僕は安積先生にそう訊いた。

「はい。それです」

 ガーガーと話をいている二人を尻目に、僕は資料を抱えて先生の元へ戻る。

「そういえば委員長さんよお……。あんた、本当はこっち側の人間だろ? 毎回思っていたんだが、行動の節々にその陰が見えるぜ!」

「う、うるさい! 僕は先生をそんな目で見たくないんだ! 心だけは、名だけは、純粋でいたいんだ!」

 論争は僕の理解が及ばない範囲にまで及んでいた。

 物理室の隣にある物理準備室は、物理室などの授業を行う教室と比べると小さな部屋で、所々に実験器具や模型、教材の入っている段ボール箱……といった物が置かれていた。整頓されている様子はなく、配置の仕方は無造作だ。乱雑に置かれている物々の奥に、先生用の机があった。

「それじゃあ、その資料、机の上に置いといてください」

 机までの道のりは険しかった。床に置かれているガラクタに、足を引っかけないよう慎重に歩く。

 だが気をつけていても、引っかかる時は引っかかってしまうのだ。こればかりはどうしようもない。

足を引っかけてしまった。

 しまった……と思った時にはもう遅い。世界が回転する。

 咄嗟に背中を下に向け、前面から倒れるのを回避した。叩きつけられた身体は、痛みを発していた。

「いでっ!」

 倒れ込んだ時に、変な声を発してしまった。恥ずかしい。

「だ、大丈夫ですか?」

 先生が駆け寄って来る。

「だ、大丈夫ですよ……」

 何とかそう言うことができた。だがそれは嘘であり、身体中がズキズキと痛む。

「いたっ!」

「やっぱり痛いんじゃないですか!」

「全然痛くないですよ!」

「……本当ですか?」

「……本当ですよ」

 そう答えると先生は倒れている僕の近くにしゃがみ、僕の肩を撫でた。

「ふおおおおおおおおお!」

 打ち付けてしまった所を、ピンポイントに撫でるものだから、その痛さ故に叫び出してしまった。決して悦んで歓声を上げているわけではない。

「あだだだだだだだだだ!」

「す、すみません! そんなに痛いとは思わなくて……」

「ははははは、はっ……はっ……」

「だ、大丈夫ですか?」

「…………大丈夫ですよ」

「……とりあえず、湿布があったと思うので持ってきますね」

 安積先生は僕から離れていくと、部屋の両端に設置されている棚へ向かった。そして、次々と引き出しを開け回した。

「あ、あれ? ここにあったと思ったのにな……」

 なかなか見つからないらしい。

 ここで僕は一つの空想を思い描いた。僕は床に倒れている。先生は引き出しを開け回している。これこそ強盗の図ではなかろうか。生徒と先生という間柄を知らない人が、これを強盗と見てもなんらおかしくはない。

 バタンバタンと、引き出しを開け閉めする音が、部屋中に響いてゆく。

「あ、ありました!」

 先生がやっとのことで湿布を見つける。バッと湿布は掲げられた。その湿布は先生にとって輝いて見えているのだろう。

「先生って意外とズボラなんですね」

 つい口に出してしまった。

 部屋の様相といい、湿布の場所といい、だらしない面もあるのだなと感じていた。

 だがこの様な物言いは失礼であったか? そう気がついたが、先生は気にも留めていなかった。

「あはははは……。先生だって人間なのですよ」

 別に、人外だと思ったことはない。

 湿布を胸に抱き、駆け寄ってくる先生。

 その姿はとても愛らしいものだった。奴らの気持ちが少し分かった気がした。

「それじゃあ、貼ってあげますので、服を脱いでください」

「ふ、服を……?」

 ここで服を脱げという。先生といえども、低身長のちんちくりんであっても、彼女は女性なのである。それをするのは躊躇われた。

「はい、服をです。そうしないと貼れないじゃないですか」

「自分で貼りますよ」

「……背中に貼れるのですか?」

 貼れない。でも脱ぐのは勘弁してほしい。僕にも羞恥心はあるのだ。

 モタモタしていると先生に背中を撫でられてしまった。

 ツウーーッ。

「あががががががががが!」

「早く脱いで下さい!」

 このままでは痛みに殺されると悟り、僕は渋々上を脱いだ。

「それじゃ貼っていきますね」

 後ろからベリベリと、湿布のフィルムを剥がす音が聞こえた。

「この辺りですか?」

 そう言ってペタペタと、背中を触ってくる先生。触れられたその手は、少し冷たかった。不快ではないがくすぐったい。

「うぐ……」

 痛む箇所へ先生の手が行き着く。

「あっ、ここですか」

「はい、お願いします」

 背中に湿布が貼られる。先生の手より湿布のほうがよほど冷たかった。

「よし! これでとりあえずは、大丈夫ですね。痛みが収まらなかったら、病院に行ってください」

「はい、どうもありがとうございます」

 こんな怪我、気にしなくても勝手に治ると思うのだが、先生は随分と心配してくれた。

「それじゃあ、教室に戻りましょうか」

「お昼休みも残り半分くらいですからね」

「それは、寺垣くんが悪いのではないですか」

 扉を開けて外へ出ようとする。だが扉は開かなかった。

「あ、あれ?」

 力強く引いてみるがやはり開かない。

「先生、扉が開かないんですが……」

「あー、また開かなくなってしまったのですか。この前、地震があった時から、建て付けが悪くなってしまったのですよ」

「どうやって開くんですか?」

「そんなの、力任せに引っ張ってみて下さい」

 もう一度引いてみる。だが小さな隙間が生じただけであった。

「え……、開けないんですか? 私でも開けますよ」

 そう言って、扉に手をかける先生。だが扉は一ミリたりとも動かなかった。

「お、おかしいですね……」

「開けないのに開けるとか言って、おかしいのは先生の頭なんじゃないですか?」

 スパコーン!

 近くにあったスリッパで殴られた。

「困りましたね……」

 携帯電話を持っていないかと、ポケットを探ってみたが入っていなかった。先生も同じ様子である。

「このまま誰か通りかかるのを、待つしかありませんね」

「はあ……、誰か通ってくれるでしょうか……」

 今はまだ昼休みが始まったばかりだ、大丈夫であろう。


 三十分が経過した。未だ準備室を出ず。

 最初の頃は、先生と密室に二人きりという状況に、多少なりともドキドキしていたが、今はもう完全に慣れていた。何もすることがなく、退屈である。

 そんな時ふと、光り輝く物が床に落ちているのを見つけた。何だろう思い、それを手に取ってみる。

 それの正体が分かった時、僕は大変驚いた。その色、形、大きさは綾が見せてくれた絵に描かれていた欠片とそっくりである。いやこれが欠片なのであろう。

 それは僕たちが二週間の間、一生懸命に捜していた物であった。こんな簡単に見つけられるとは、思いもしなかった。

「なんですか、それ?」

 と安積先生が横から顔を出してくる。

「た、大した物じゃありませんよ」

 ササッと欠片を後ろ手に隠す。

「な、何で隠すんですか。見せてくださいよ」

 何とか奪い取ろうと、先生が手を差し伸ばしてきた。

 見せるくらいなら問題ないのだが、準備室にあった物だから勝手に持っていくな、とか言われて没収されてしまったら奪い取るのが手間である。

 先生をヒョイヒョイと躱すが、やがて限界が訪れる。

 そう、ここは物理準備室であったのだ。

 床に散乱していた書類に足をすくわれた。後ろ向きに歩を進めていたので背中から倒れてしまう。倒れる先に何があるか分からず恐怖を感じた。

 雷鳴のような音が鳴り響いた。どうやら倒れた先に、出入り口の扉があったらしい。扉を体当たりで外してしまった。先程鳴り響いたのは、扉に嵌めてあった小さな窓ガラスが割れる音であった。幸い痛みは感じられず、割れた破片で怪我をすることは、なかったみたいだ。

「寺垣くん! 大丈夫ですか!」

「ええ、何とか」

 先生は僕の上に倒れ込んでいた。僕は、先生と扉にサンドイッチされていた。下は硬く、上は柔らかい。

 そして近くで固まっている二人に気がついた。浩二と瀬ノ内くんだ。顔など上げたくもない。だが怖いもの見たさで、つい見てしまう。

 二人は談笑しながら、歩いていたようだ。笑顔がそのまま張り付いていた。そして浩二は何故かチェス盤を持っていた。

「あっ」

 と、思わず声を上げてしまった。

「………………」

「………………」

 二人は目を見合わせた後、方向転換して元来た方へ戻って行った。

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