第六章(二)
今日の夕食はすき焼きであった。綾がこの家に来てから、すき焼きなんか一度も食べたことがなかった。
「今日はいいお肉を買ってきましたからね」
「この肉高かったのか」
「スーパーで一番高いやつです。たくさん食べて下さいね」
夏波は早速肉に手をつけ始めていた。
「美味しいぞ、これ。健一と綾も早く食べろ!」
みるみるうちに肉が減っていく。
「肉ばっか食べるな!」
「あいた! 食事中だぞ、不用意に叩くな! 口から出てしまうだろう!」
それは困る。吐き出されたものを見たら、こっちの食欲がなくなってしまいそうだ。せっかく高い肉を買ってきたのだから、思う存分食べたい。
「お肉ばかりでは私もダメだと思いますよ。ちゃんと野菜も食べましょうね」
夏波の皿に白菜が盛られる。
「流石の私も、こんな量の白菜は食べられないぞ」
白菜が山盛りにされていた。皿は白菜で覆い尽くされ、まさに白菜地獄だ。食べても食べても白菜。白菜は減らない。やっと減ったと思ったら、綾が白菜を追加し、また白菜地獄が始まる。白菜、白菜、白菜。
「もう白菜はいらない……」
「それではお肉を食べましょう」
夏波の皿に肉が盛られる。
すると夏波は目を輝かせ、肉を食べ始めた。
「夏波さん、お肉だけではダメですよ。野菜も食べましょう」
また白菜の登場だ。白菜、白菜、白菜。
「どんだけ白菜買ってきたんだ」
「白菜安かったので、沢山買ってきてしまいました」
「買ってきたのはいいけれど、普通に食べたんじゃ消化しきれないから、夏波に食べさせているのか」
「しっ。それを言わないで下さい」
夏波は頑張って白菜を食べていた。
「健一さんも白菜食べますか?」
少しくらいならと、言おうとした。だが綾の少しは一体どれくらいの量なのだ。夏波の半分? それとも四分の一?
「ほんのちょびっとなら」
「分かりました」
綾は僕の皿に白菜二枚を乗せた。本当にほんのちょびっとだった。これでは白菜を食べた気がしない。
「もう少しくれ」
「分かりました」
やってしまった。僕にも白菜地獄は到来した。夏波までとはいかないにしても、並ならぬ量の白菜が、僕の目の前に現れた。その量は夏波の四分の三ぐらいであろう。
綾の量的感覚が分からない。
こうなってしまっては、僕も白菜地獄に埋もれるしかない。白菜がなんだっていうんだ。白菜なんて野菜でしかないじゃないか。野菜に怯えるわけないだろう!
「ぬおおおおおお!」
気合で乗り切ろうとした。
最初のうちは良かった。白菜も案外いけるな、楽勝だな、なんて高をくくっていた。
開始五分で地獄の意味を知った。食べても食べても、白菜しかないのだ。食べ終わりの兆しが見えない。もう白菜は飽きた。
夏波の方を見ると夏波は平然と白菜を食べていた。これは慣れなのか? 慣れでどうにかなるものなのか?
「夏波、白菜ばっかりで飽きないのか?」
「ん? 白菜も美味しいぞ」
「そうですよ、白菜美味しいですよね。まだまだありますので、ジャンジャン食べてくださいね」
綾は夏波に白菜を盛る。
「わーい、白菜だー」
夏波は自然と食べ始める。
夏波が美味しそうに食べるのを見ていたら、僕も白菜を食べたくなってきた。
「白菜まだまだありますので、明日からも使って下さい」
「分かったぞ」
食べる手を止めて夏波が応えた。
その後は白菜が追加されなくなり、すき焼きを全て食べきれた。すき焼きの日に白菜を、こんなに沢山食べさせられるとは、思いもしなかった。
午後十時。そろそろ自分の部屋へ戻る時間になった。普段とは違い、今日は中々部屋へ戻る気にならない。
綾は今日の夜、家を出ていくつもりなのだろう。彼女が荷物の整理をしているのを見て、それを確信していた。
僕たちは綾が家を出ていくことについて何も言わなかった。綾には気持ちよく、さよならをして欲しかった。だから僕たちは、そこに触れなかった。
「おやすみなさい。健一さん、夏波さん」
綾が一番に立ち上がった。
「ああ、おやすみ」
「おやすみ、綾」
綾が立ち上がったのを見て、僕たちも腰を上げた。
綾は僕たちに一礼して、リビングを出ていった。
「さて、私もそろそろ寝るかな」
夏波が背伸びをしながら言った。
「健一。まだ寝ないなら、リビング出ていく時は電気ちゃんと消せよ」
「僕もすぐ部屋に戻るから、電気消しちゃっていいよ」
「そうか」
パチッというスイッチの押される音が鳴り、リビングは暗くなった。
リビングは静かだった。時々、車の走る音がするだけで、それ以外は何も聞こえなかった。
僕は綾が家に来てからあったことを思い返していた。
綾と出会い、欠片を捜し、夏波が引っ越してき、部長に従い、島へ旅行した。
それは走馬灯のように過ぎっていった。
この二ヶ月は、これまでの二ヶ月の中で最も永い二ヶ月であった。
僕はリビングを出て、自分の部屋へ戻っていった。
今日は早めに寝よう。
翌朝、目覚めると、綾の姿はどこにもなかった
その日は夏波に起こされずに、自分で目覚められた。
階段を降り一階へ行くと、魚を焼く匂いが漂ってきた。今日の朝食は焼き魚なのだろか。その匂いに誘われて台所へと顔を出す。
台所では夏波がコンロに向かっていた。
「おはよう、健一」
「おはよう」
僕は夏波に挨拶を返す。
テーブルを見ると白菜が小鉢に盛られていた。
「何だ、これ?」
「これは白菜の浅漬だ。早速作ってみたんだ。食べてみてくれ」
夏波から箸を受け取り、浅漬けへ箸をつける。
「ちょっとしょっぱすぎないか?」
「そうか? 私はこのくらいの塩加減が好きだぞ。まあ、次からは塩少し減らしてあげるよ」
「そうしてくれると助かる」
「減らすといっても、ほんの少しだからな。それと朝ごはん用意してあるから、食べちゃってくれ」
そう言われたので、リビングへと向かう。
食卓にはアジの開きが並んでいた。自分の席につき朝食を食べ始めた。
隣に置かれた二本の髪飾りは、朝日を受け輝いていた。




