第一章(二)
初めはただ呆然とすることしかできなかった。そこは全てが白でできていた。僕たちはその白の上に立っていた。状況が全く理解できない。
混乱、混乱、混乱する。思わず気絶してしまいそうになる。
混乱の次に襲いかかってきたのは不安だ。得体の知れない現象。僕には手の届かない領域……。こんな出来事を易々と受け止めることはできない。
しばらくして我に返ると、全身は汗で濡れていた。
ふと横にある気配に気づき、そちらに視線を移動させると夏波が立っていた。
彼女も僕と同じような気持ちであるのだろうか。彼女はわなないていた。
その恐怖を僕は身を以て体験し知っていたから、僕は震えている彼女の手を握った。それで彼女を安心させたかった。握ったその手は汗で湿っていた。多分僕の手も先程の汗が乾いておらずに、湿っているだろう。
そのまま永い時間が過ぎた。十分、二十分、いやもっと永いかもしれない。時間の感覚までもが狂っていた。ただその中で、手の平に伝わる温かさが、僕たちの希望を繋ぎ止めていた。
「ん、もう大丈夫」
静寂を破り、彼女がそう言った。
「本当か?」
「ああ、大丈夫だよ」
彼女が無理をしていないかと心配だったので、聞き返してしまった。だが、その言葉に偽りはないようで、手の震えも収まっていた。
「健一こそ、ビビってるんじゃないか?」
夏波がニヤリと笑い、訊いてきた。
「別にビビってねーよ」
「本当かー?」
「本当だよ。なにも怖くないし!」
そう言い合いをしていると彼女の顔にも笑顔が戻ってきた。こんな会話でいつもの調子を取り戻せるのは、付き合いが永いからであろう。
「怖くない」と言った僕の言葉も本当である。
彼女を安心させるために手を繋いでいたのだが、自分までいつの間にか安心してしまった。
「なあ、健一」
「なんだ?」
「ここが何なのか分かるか?」
意外にも彼女の適応力は高く、早々と状況を理解しようと努めていた。
だが、ここがどこであるか、何であるかなんて僕に分かるはずもなかった。
「いや、全く分からん」
「だよな…………。はあ…………」
彼女は深くため息をついた。
この場所について説明すると、前方には人工物があった。それは僕たちのいる場所から延びる道と、柱、そして道の続く先にあるピラミッド型の建物である。
道は直線状に延びていた。道は周囲と比べて高さが一段低くなっていたので、それを道だと推測できた。
柱は道の左右に、それぞれ三本ずつ、計六本立っていた。それはギリシャの神殿にある様な白い円柱状の柱であった。それが道に沿って、等間隔に立っている。
その道の続く先にあるピラミッド型の建物。ピラミッドには階段がついており頂上まで登れそうだった。
それ以外は何も分からない。
全てが白、白なのである。地も白であり、天も白であった。地と天の境界線があるのかさえも分からない。
遠く眺めても境界線は見えないのだ。
ただ、そこにある道、柱、そしてピラミッドは何故か認識できた、それらも白色であるのに。
天地は区別できないのに、建造物は区別できることに疑問を感じていた。
もちろん、そんな疑問の答えは分からない。
分からない、分からない、分からないと、分からないことずくめであった。
「とりあえず、道を進んでみないか」
ここでじっとしていても何も始まらない。せっかく道があるのだから、進んでようと思った。
「ダ、ダメだ!」
何故か、反対されてしまった。
「こんな得体のしれないところにいるんだ。何があるか、分からないじゃないか! もしかしたら一歩踏み込んだ時地面の底が抜けて、さよなら……と落っこちてしまう……なんてこともあり得るんだぞ!」
「そんなとんでも展開、ありえるのか?」
「ここにいること自体、とんでも展開じゃないか!」
たしかにその通りであった。
うーん。でも流石に底が抜けるなんてことはないと思う。
これを納得させるには、どうすれば良いのだろうか。
しばらく考えていると、良い解決法が思い浮かんだので提案してみる。
何か入っていないかとポケットを探ってみたが、ハンカチしかなかった。仕方ないこれでいこう。
「じゃあ、僕たちの身代わりにハンカチを置いてみるから、何も起きなかったら先に進もう」
「分かった。試してみて」
道にギリギリまで近づいて、ハンカチを置く。
…………。
何も起こらなかった。
ふう、底が抜けたらどうしようかと思った。そんなのあるわけないよな!
「ほら、何も起こらないだろ」
「そうだな。心配しすぎたみたいだ」
どうやら、彼女を納得させられたようである。
「それじゃあ、改めて行ってみるか」
「よし! 行こう!」
柱の方に近づいてみると、柱はさっき見た時よりも大きく感じられた。八メートルぐらいの高さがありそうである。
ピラミッドはその何倍も大きい。高さは五十メートルくらいであろうか。
ピラミッドの前まで来た。
「ここまで来たからには登るのだろうけど……。登るのか?」
彼女がためらうのも無理はないだろう。五十メートルの高さを登るのである。僕も嫌気が差してしまう。
でも、登らないわけにはいかない。
ここまで来たんだ。ここで引き返す? ありえない。
「登る」
「えーーーーー。……私は待っている。健一だけで行ってきてくれ」
なんてこと言い出すんだ。僕一人だけで行くなんて、上に何があるか分からないし怖いじゃないか。
「夏波も来いよ」
「やだよ」
「お願いします。来てください」
「じゃあ、私を背負って行け」
……一人で行くよりはましか。
僕は彼女を背負えるよう彼女に背を向けてしゃがんだ。
「ん……」
その声と共に、彼女の存在を背中で感じるようになった。胸の感触も背中で感じていた。
「……なあ、これ胸が」
「幼馴染なんだから、そんなの気にしないだろ」
その理屈はどうかと思う。
ええ! 気にしますよ! 何なんですか一体!
これで少しはやる気が出たのだが、最初の十段で体力が限界を迎え、彼女を下ろすことになった。
その後、彼女にこっぴどく言われてしまった。
この世界での僕たちの小冒険も、終わりを迎えようとしていた。ついにピラミッドの一番上まで辿り着いたのだ。
フィナーレを飾る舞台はあまりにもシンプルであった。
頂上は平らになっていて、奥に大きな板のようなものが立っていた。これだけの高さを登ってきたのに、頂上はとても広かった。改めてこのピラミッドの巨大さを実感させられる。
「はあ……、はあ……、やっと着いた……」
息を切らしながら彼女が言った。
「はあ……、もうしばらく階段は登りたくない」
こんなに長い階段を登ったのは、生まれて初めてだ。
長い階段がトラウマになりそう。
「奥に何かあるけど、遠いな……」
彼女の言うとおり、奥に四角形で長い板があった。
「じゃあ、走っていくか?」
考えてもいないことを、つい言ってしまった。
「さっき階段を登って来たのに、よくそんな体力があるな。アホなんじゃないか? 私はもう限界だよ……」
「冗談だよ。僕もヘトヘトだよ……」
誘ってしまったのは自分なのだが、「そうだな走っていこう!」なんて言われたら、堪ったものではなかった。
「このままだと歩けないから、少し休憩しないか?」
彼女に向けて提案した。
「そうするか」
道路のアスファルトの上なら座るのを躊躇ってしまうが、ここは汚れてもいないし、人の目も気にしなくていいので堂々と座り身体を休めた。
奥にある石碑はこの世界で唯一の黒であった。だが何も書かれておらず、のっぺりとした板が下から生えているだけである。
石碑の前に着いた時、裏には何か書かれているかもと思い裏へ回ってみたが、何も書かれていなかった。
「何も書かれてないよ」
夏波に裏の状態を伝える。
「そうか……」
ここまで来て何もないということは、手詰まりである。
自然と空気が重くなる。
僕も彼女も考えていることは同じであろう。
もしや、この世界から出られないのではないだろうか。
そんなこと考えたくもなかった。飢えて死ぬまでここにいるなんて! 気が狂いそうだった。
「……………………」
「……………………」
沈黙は重かった。空気は重々しく耐えられるものではない。
やがて沈黙は破られた。
「健一…………」
それはこの空気に感化されたのか、低く、重く、ゾッとする声質であった。
彼女の唇が動き、次の言葉を紡ごうとする。紡がれる言葉を聞くのが恐ろしかった。
「ま、待て!」
言葉を止めようとする。一歩踏み出そうとしたら、片足から力が抜けてよろめいてしまう。
手が石碑に触れる。
体重をかけた時、石碑から光が発せられた。その光はどんどんと強みを増していき、僕たちを飲み込んでいった。
石碑も、白の空間も、夏波も、見えなくなった。
意識が遠のいていく…………。
頬にホコリが降りる。
気がついた時、僕たちは夏波の家の物置にいた。
外へ出てみると空は朱に染まっていた。本を見つけたのがお昼過ぎだったから、四、五時間経過していたようである。
「健一……、戻って来れたんだね……」
夏波の声はか細く弱々しかった。
僕もひどく疲れてしまった。ここから一歩も動きたくない。
……動かなくてもいいだろう。あんな惨事から無事生きて帰って来れたんだ。少しくらいの怠惰は許される。
左手が夏波の右手に触れた。そのまま手を強く握る。
彼女の手は冷たかった。
「なあ、今日のことって一体何だったと思う?」
「…………」
僕の質問に彼女は答えなかった。ただ手を握る力が強くなっていった。