第五章(三)
気がつくと、僕は布団へ横になっていた。
僕のために押し入れから、わざわざ布団を出してくれたのだろう。押し入れの戸は開きっぱなしになっていた。
「調子はどうだ? 健一」
夏波が上から覗き込んでくる。
「あんまり良くないな……」
「あはは……。お風呂で気絶しちゃったからびっくりしたぞ」
「ああ、お風呂……」
ある懸念すべき事項が頭をよぎり、勢い良く身を起こす。
今の僕は全裸なのではないか?
全裸で話しているなんて相当に間抜けだ。
視線を下に向ける。幸い身体には浴衣が着せられていた。
次第に冷静になっていき、周囲の状況を確認することができた。よく見ると夏波も、浴衣を着ていた。
「あれ? 綾は?」
部屋に綾の姿が見えない。
「綾なら飲み物を買いに、部屋を出ていったぞ」
「そうか」
飲み物という単語を聞き、突然に喉の渇きを意識した。
「うっ……、くらくらする」
「だ、大丈夫か? しばらく寝てたほうがいいぞ」
「喉が乾いてて……」
「水、汲んでこようか?」
「頼む」
夏波は僕の側を離れ、洗面所へ水を汲みに行った。襖の先から、水の流れる音が聞こえた。
「ほれ」
夏波が水をコップに入れて持ってきてくれる。その水を飲むと、乾きによる喉の痛みがなくなった。
「綾、中々帰ってこないな」
「そうだな。いつ出ていったんだ?」
「かれこれ、十分前くらい……?」
「あんま経っていないじゃないか。もう少ししたら帰ってくるよ」
そう話をしていたら、部屋の扉が開く音がした。
「すみません、遅くなってしまって。お茶とスポーツドリンク買ってきました」
綾が買い物の報告をしながら、部屋の中へ入ってくる。
彼女も浴衣を着ていた。
「あら、健一さん。起きていらしたのですね」
僕が起き上がっている様子を見て綾が言った。彼女は僕が寝ていると、思っていたのだろう。
「迷惑かけて、すまなかったな」
「いえいえ。これどうぞ」
綾はスポーツドリンクを差し出した。ゴクゴクとそれを飲むと、喉に冷たいものが流れるのを感じて、心地良い思いがした。ペットボトルを半分くらい空にする。
「明日はいよいよ欠片を取りに行きますので、具合悪くなされては困ってしまいます。ですので、今日はゆっくりと休んで下さい」
「そうするよ」
「あっ、夕飯はどうするんだ?」
夏波が今気づいたように言った。
夕食の時刻は七時のはずだ。時計を見ると、今は六時四十五分であった。あと十五分で時刻になる。
僕はまだ体調が悪く、食べられるという状態ではない。
「まだ少し気持ち悪いんで、今日はいいや。二人で食べてこいよ」
僕のせいで食べられなくなったら、大変もったいない。旅館の人も困るだろう。なので、二人で行くように勧める。
「そうですか、分かりました。私と夏波さんで、食べてきてしまいますね」
僕の気持ちを汲み取ったのか、綾が素直に頷いた。
「健一の分も食べてくるからな」
「ああ、沢山食べてこいよ」
彼女たちは、二人して部屋を出ていった。あとには僕一人が残った。
起きていても、何もすることがない。少しの間ぼうっとしていたが、やがて眠ろうという気になった。
布団をかぶるとすぐに睡魔が襲ってきた。
海沿いを歩いていくと、神殿が見えた。
倉金さんに訊いたところ、あの写真は混浴の温泉で撮ったものらしい。海が写っていたので海水浴でもしてるのかと、思ったが違かった。
温泉の周りには、古代ギリシャの神殿を模した建物が建てられていた。屋根のある建物が一つあり、その周りに柱が数本あった。柱の形状が、本の世界にある柱と似ていた。
平日だからか、僕たちの他に人はいなかった。
「水着持ってくれば良かったですね」
温泉についた途端、綾が言った。
出発する時、温泉に入る気はなかったので、僕たちは水着を持ってこなかった。
「も、もう温泉は嫌だ!」
「あら、何でですか?」
「うるさい!」
綾が夏波をからかうと、夏波は拗ねて口をきかなくなってしまった。
「なら裸で入っちゃいますか」
「やめておけ」
写真を見ながら、倉金さんたちがいた場所を捜す。
「ここじゃないな……」
「なら、あちらではないでしょうか」
数カ所見当をつけて捜したのだが、一ヶ所も写真と合致するところはなかった。
こんなことになるのなら、倉金さんたちに詳しい場所も、訊いておけばよかった。そう思うが、出発した今となってはもう遅い。
見当をつけた場所は、全て回りきってしまった。
「中々見つかりませんね」
「そうだな……」
こんなことで手間取るとは、思ってもみなかった。
写真を見てから、辺りに目を走らせる。だが写真の場所がどこなのか、全く分からなかった。
「温泉へ落ちないように気をつけろよ」
一段と足場が悪いところへ来たので、注意しておく。
「はい」
「うひゃあ!」
注意するのが遅かったようだ。
夏波が足を滑らし、今まさに温泉へ落ちようとしていた。
「夏波さん!」
だが、綾が咄嗟に夏波の腕を掴んだので、夏波はずぶ濡れになることを免れた。あと一秒でも遅く綾が反応していたら、夏波は温泉へとドボンしていただろう。
「ありがとう、綾」
「いえいえ。それよりも大丈夫ですか? どこか怪我していませんか?」
「足がちょっと痛い……」
「見せてください」
綾は夏波のことを地面へ座らせた。そして夏波のズボンを捲り、足へ手を当てた。
「痛いのここらへんですか?」
「もうちょっと下……。そこらへん……」
「ここですか。……これなら大したことありませんよ。でも、歩く時にはあまり負担をかけないようにして下さいね」
「分かったぞ」
綾が夏波に手を貸し、夏波を起き上がらせた。
「大丈夫か? 夏波」
「うん。それほど痛くないし、全然問題ない」
夏波は問題ないことを示すために、つま先で地面を数回叩いた。
「それよりも、私は気づいたんだ。写真の場所ってあそこじゃないのか?」
夏波は僕の背後のある一点を指差した。
夏波が指差した場所に行ってみる。すると、その風景は写真の風景と合致した。
「おお!」
僕は思わず声を上げてしまう。夏波の言った場所が正解だったことに驚いたし、何より写真の場所を見つけられて嬉しかった。
「凄いぞ、夏波! どうやってみつけたんだ?」
「転びそうになった時、ふとひらめいたんだ、あの場所が正解なんじゃないかって」
「火事場の馬鹿力というやつでしょうか」
「私は馬鹿じゃないぞ!」
夏波が温泉へ落ちそうになってくれたおかげで、写真の場所を見つけることができた。こんなことを経験すると、人はピンチになったほうが、素晴らしい能力を発揮できるのではないかと、思ってしまう。だが、そう易々とピンチになれるわけでもない。
写真と風景を照らし合わせる。写真の欠片が写っている場所を確認し、その場所に目をやる。
欠片があった。欠片は、写真に写っている位置と変わらず、石と石との間に挟まっていた。
僕は屈んで、石と石との隙間から欠片を抜き取った。
「これで欠片が全部揃いましたね」
僕が抜き取った欠片を見て、綾が恍惚と言った。
僕は綾に微笑み返し、黙って欠片をポケットに入れた。
「じゃあ、そろそろ旅館へ帰るか」
僕が欠片をしまったのを確認して、夏波が言った。
「今日も露天風呂に入りますか?」
「風呂はもういいって、言ってるだろ!」
旅館へと向かい歩いていく。
前を歩く彼女たちの会話に、僕は中々入れないでいた。会話をする気力は、失われていた。胸ポケットに入れた欠片が重く感じる。
彼女たちの背を見て、僕は旅の終わりが近づくのをひたひたと感じていた。
この船に乗ったのが、遠く昔のように思えた。そう感じるくらいに、僕は島での生活を永く望んでいたのだ。島から帰らなければ、綾がいなくなることはない。
甲板に上った僕を、夕日が一生懸命に照らしていた。
ああ、この船は東京へと向かっているのだ。この船は決着をつけさせようとしているのだ。この船は終わりを知っているのだ。この船は奈落へと向かっているのだ。この船を止めることはできないのだ。
船の煙突から、黒い煙が吐かれた。
欠片を夕日に透かしてみると、丸い太陽が欠片越しに見えた。
丸い球は段々と海へと近づいていき、その姿を消そうとしていた。その後に訪れるのは夜だ。暗い夜はこの海へも訪れ、波立つ水面と一隻の船を、優しく包み込むだろう。
手に持つ欠片の重さを確かめる。
欠片を海へ投げ入れてしまおうかと思った。
腕を高く振り上げる。
遠く一点を見た。
「はぁ……」
そんなことできるはずもなかった。
振り上げた腕を戻し、僕はため息をついた。
この欠片を憎たらしく思うと同時に、僕はこの欠片に愛着を持っていた。この欠片には僕と夏波、そして綾の思いがつまっているのだ。これはいわば、綾が僕の家に来てからの二ヶ月間、その集大成なのだ。この欠片には重さがあった。
この最後の欠片を捨てることはできなかった。それを捨てることは、この二ヶ月間への冒涜であった。
太陽を透く欠片は、本当に透明だった。
その時ボウと汽笛が鳴り、船が大きく揺れ傾いた。突然のことだったので、僕はそれに対応しきれなかった。
僕は反射的に手すりへと掴まった。
すると欠片は手を離れていった。欠片は床に当たり、数秒間あちらこちらを踊った。その数秒間は永かった。
だがどんなに永い出来事にも終わりは必ずやってくる。
やがて欠片は海へと落ちていった。
僕は嘔吐した。
「どうしたんだ、健一!」
僕が甲板から船内へ戻ると、夏波に見つかってしまった。彼女は僕のおかしな様子に気がついて一目散に駆け寄ってきた。
「顔が真っ青だぞ!」
「何でも無いんだ……」
彼女に心配をかけたくなかったので、ついそう答えてしまった。
「何でも無い訳ないだろう!」
「うっ……」
彼女の声を聞いて、また吐き気がこみ上げてきた。慌てて口を抑える。
「だ、大丈夫か?」
僕は力なく首を振った。
「とりあえず部屋に行こう」
いつもは頼りなく見える彼女が、この時は頼もしく見えた。悠々と僕の手を引く彼女は、偉大であった。その背中は何よりも大きかった。
細長い通路をどんどんと進んでいく。僕は一歩一歩を踏みしめて歩いた。
僕は部屋まで曳航されていた。僕と彼女を繋ぐロープは、手と手であり、手と手は命綱であった。
彼女は部屋の扉を開けて、照明のスイッチを押した。照らし出された室内は、僕が船へ乗った時と何も変わっていない。その変わっていない部屋が懐かしかった。
「ほら、座れるか?」
頷き、彼女に導かれるままベッドへ腰を下ろした。僕が腰を下ろすと、隣に彼女が座った。
「何があったんだ? 言えるか?」
彼女は僕の背中を、まるで赤ん坊をあやすようにゆっくりと撫でた。手の動きを背中に感じ、決壊した。
僕は泣いていた。
嗚咽は部屋の一角で静かに発せられた。
僕の声を聞いても彼女の手は止まらなかった。ゆっくりと彼女の手の平が、行き来していた。それは安心感を与えた。
自分のことが情けなかった。このように彼女はあやしてくれるが、僕は泣くことしかできないのだ。
罪悪感がひしひしと湧き上がった。罪悪感から逃れるために、罪の告白を行うことにした。それが最善の道であった。
彼女に顔を向けると、彼女は優しく微笑んだ。
「どうしたんだ?」
「欠片を……」
そこでつまってしまった。本題を切り出すのは、勇気のいる行為であった。言葉を続けるのが恐ろしかった。
「なくしたのか?」
だが、彼女は言おうとしていることを即座に言い当てた。
救われたと感じた。そしてそう感じてしまった自分に腹を立てた。
「僕は欠片をなくしてしまったんだ」
「辛いのか?」
「ああ。辛い」
「そうか……。なら眠ったほうがいいぞ。眠って忘れちゃえ。東京に着くまで、まだ二時間ある。眠って眠って眠れば楽になるよ」
彼女はとても優しかった。その優しさに甘えたかった。
「膝枕してあげようか?」
「せっかくだからお願いするよ」
普段なら恥ずかしいと思うのだが、この時は平然と頼めた。
「うん!」
彼女はベッドの上に正座し、自分の太股を叩いた。彼女に導かれるまま太股へ頭を乗せた。とても柔らかかった。
「きゃっ。くすぐったいな」
彼女の方へ顔を向けていたので、お腹が目の前にあった。彼女が呼吸するたびに、お腹は膨らみ、そして萎んでいった。その様子を見ていると、段々と眠たくなってきた。
「健一が眠るまで、こうしててやるからな」
「ああ。そうしてて欲しい」
「もう辛いのは収まってきたか?」
「まだ辛い……」
部屋に入ってきた時と比べると、辛さは薄らいできた。だが、完全に大丈夫というわけではない。それにこの心地良い時を、一秒でも永く続かせたかった。そのために、僕は抵抗をした。
「なら離れるわけにはいかないな」
彼女の顔は見えない位置にある、だが彼女が笑ったような気がした。
「健一、憶えているか」
「何をだ?」
「小学生の頃、遠足で森へ行ったじゃないか」
「……そんなこともあったな。うっすらとなら憶えている」
「あの時、健一は私に無理やりカブトムシを見せただろう。私は嫌がっていたのに、無理やりだ」
彼女に言われて、遠足での出来事を思い出していった。記憶の奥底に埋まっていたものが掘り起こされた。
「あの時はすまなかった」
冗談と受け取れず、謝ってしまった。
「いやいいんだ。今となってはカブトムシを見せられたことも大切な思い出だよ。時々思い出しては、微笑ましくなるんだ」
彼女の声は楽しそうだった。彼女の浮かれた調子が、僕をさらに安心させた。欠片について、どうこうと深く考えるのをやめた。
「上手く眠れそうか?」
「もう少しで眠れるよ」
目を閉じた。船の揺れは僕と彼女を包み込み、彼女は僕を包んでいた。落ち着いていき、落ち着いていき、僕は眠っていった。