第五章(二)
「おい、起きろ。健一」
下の方から聞こえた夏波の声で僕は目を覚ました。
船室のベッドは二段ベッドになっており、僕は上の段で眠っていた。
身体を起こし、梯子を降りる。ここで足を踏み外したら、相当に格好悪い。短い梯子なので上り降りするのは、造作も無いように思えるが、実際に使ってみるとこれが結構怖いのだ。
慎重に、慎重に降りる。
「窓の外を見てみろ!」
頼む、夏波。静かにしてくれ。気が散ってしまうではないか。
「何があるんだ」
無事降りきった僕は、窓から外を見ている夏波の側へ近づいて行く。
海に大きな島が浮かんでいた。あれが欠片のある島なのだろう。その島は昇り始めた太陽によって、背後からゆっくりと照らされていた。
「んんっ。皆さん起きるの、早いですね」
僕の向かいにあるベッドのカーテンが少し開かれた。それによってできた隙間から、綾が顔を覗かせた。
「もうすぐ着きそうだぞ!」
夏波が起きてきた綾に向かって言う。
すると綾は部屋にある時計を一瞥した。
「まだ六時前じゃないですか。島に着くのは八時半ですよ。皆さんが見てるのは、多分違う島だと思いますよ。目的の島へ着く前に、他の島を二つ経由するんです」
言い終えると綾はカーテンを閉め、ベッドへ引っ込んでしまった。
「ううぅ……。間違えるなんて恥ずかしいぞ……」
僕も恥ずかしかったが、格好つけて平気なふりをした。
「時間余っちゃったな。どうする? もう一回寝る?」
「せっかく起きたんだ。どこか回らないか?」
朝の船内は、騒がしい昨日の様子とは違い、ひっそりと静まりかえっていた。照明はついており、広々とした空間をぽつんと照らしていた。船内には、僕たち二人しかいないように思われた。
この時間ではレストランは閉まっている。なので早めの朝食を、いうわけにはいかない。
結局、数フロア歩いただけで、散策は終わった。
「特に面白いものなかったな」
戻ってきた途端、夏波がぼやいた。
「仕方ないだろ。朝早いんだし」
「それじゃあ、他のことするか」
夏波はリモコンを操作してテレビをつけた。テレビではニュース番組が放送されていた。これまた面白くない。チャンネルを変えてもニュース番組しかやっていない。僕は普段こんな早い時間にテレビを見ないのだが、いつもはニュース以外の番組も、放送されているのだろうか。それともニュース番組だけなのであろうか。
「朝はいつもニュースしかやってないのか?」
「私がこの前テレビつけた時は、通販番組やってたぞ」
ニュース一色ではないようで、何となく安心した。でも通販番組もつまらない。朝のテレビはつまらないらしい。
部屋でテレビを見ていると、船が接岸した。窓から複数の人が降りていくのを見た。数十分経つと、船はまた港を離れた。
僕はいつの間にか眠っていた。夢は見なかった。
汽笛に起こされた。
夏波と綾が下船の準備を済ませ、談笑していた。僕も既に準備を済ませているので、何も慌てることはなかった。
「健一、起きたのか。そろそろ着くぞ」
やがて、船は動きを止めた。
船を降りて、僕はうんと背伸びした。辺りは海と山で囲まれていた。上空ではカモメが数羽飛んでいた。
旅館に着き、ロビーで受付を済ませると、客室へ案内された。
客室は和室であり、奥に露天風呂がついていた。
女中さんは旅館の説明を終えると、部屋を出ていった。
「部屋に露天風呂が、あるのですね。入ってみませんか」
部屋の中を一通り見て回った綾が、提案した。
「それはいいかもな。ここまで歩いてくるの大変だったし、温泉に入って疲れを癒やしたい」
夏波が賛同した。
港から旅館までの道のりは長かった。けれどお金をこれ以上使うわけには行かないので、歩いて旅館まで来た。約二キロメートルの道のりであったが、荷物を沢山持っていたので、疲弊は大きかった。
「じゃあ二人は先に入っててくれ。僕は後で入るから」
「何、言ってるんですか。健一さんも、一緒に入るんですよ」
「え?」
「はぁ?」
夏波が一際大きく反応した。
綾が突拍子もないことを言い出したので、僕も驚いてしまった。
一緒に入る。露天風呂へ一緒に入る。
僕としては大変喜ばしいのだが、夏波がそんなこと許さないだろう。そう絶対に。
「何言ってるんだ、綾。そんなの無理だぞ……。健一! 綾に何を吹き込んだんだ!」
「僕は何も吹き込んでない!」
こちらに火の粉が飛んできた。
「バスタオルで隠せば、大丈夫ですよ」
「バ、バスタオル?」
「はい、バスタオルですよ」
「温泉にタオル巻いて入っちゃいけないんだぞ!」
至極もっともな意見である。
「ここは個人用なので大丈夫ですよ」
至極もっともな意見である。
「でも……」
「健一さん、ちょっと待ってて下さいね」
僕にそう言った綾は、夏波を連れて部屋の隅へ移動した。僕は近くに行ったらいけないと、思ったのでそのまま動かずにいる。
何やらコソコソと話をしている。
やがて、彼女たちはこちらへ戻ってきた。
「夏波さんも、納得してくれました」
そう言われた夏波は、頬を染めながら無言で頷いた。
「健一さんも、入ってくれるのでしょう?」
二人が同意してくれているのに、逃げてしまったら男の恥だ! 入ってやるよ!
「ああ、もちろん入るよ」
「はい! それでは、温泉の様子を見てきますね。すぐに入れるかどうか、確認してきます」
と、言って彼女は外へ出ていった。
「なあ、夏波」
「な、なんだ」
「どうして入ろうと思ったんだ。最初は嫌がっていたのに」
「う、うるさい! そんなのどうだっていいだろ!」
そう言って夏波は、そっぽを向いてしまった。
しばらくすると綾が外から戻ってきた。お湯を触ったみたいで片手が濡れていた。
「すぐに入れそうです」
「ううぅ……、本当に入るのか?」
「はい、入りますよ」
「嫌なら無理に入らなくてもいいんじゃないか」
僕はあくまで紳士的に言う。入るなら入るで嬉しいのだが、無理やり入らせるようなことはしたくない。そんなことしても面白くない。
「い、嫌というわけではないぞ! ただ……、勇気がいるんだ!」
「頑張りましょう。夏波さん」
綾がニコニコしながら夏波の手を握った。
「うん。頑張る」
夏波は消え入りそうな声で言った。
「それでは、私たちは部屋の外にいますので、健一さんは先にお湯へ入って下さい。五分したら部屋へ入りますので、それまでに湯の中へ入ってて下さいね」
服に手をかけ始めると、何だか悪いことをしているような気がして、脱ぐことが躊躇われた。
脱げ! 脱ぐんだ、健一! ここで日和ってどうする! それでも男か! 馬鹿野郎! 思い切って脱いじまえ! 馬鹿野郎!
僕は脱いだ。
脱ぐと清々しい気分がした。
タオルはきちんと巻いておく。
その気分のまま、お湯の中へ躍り入る。
「あっつ!」
水温はやや高めであった。
檜組みの浴槽はオレンジ色の照明で照らされていた。
湯船の前には海が広がっていた。黄昏時の空では紺と朱が混じり合い、遠くの海が燃えているように思われた。海は全て燃えていた。
「失礼します」
綾が、ガラス製の扉を開け、堂々とこちらへ歩いてきた。夏波は綾の身体に巻いてあるバスタオルをちょこんと掴み、おずおずとした様子でいる。
浴槽の奥側隅にいる僕を気にも止めず、綾は流れるように湯へと入った。それに対して、夏波はぎこちなく足を湯へつけた。中々湯船へは入ろうとしない。浴槽はそれほど広くないので、綾と僕との距離も自然と近くなる。
「何やってるんですか、夏波さん。勢い良く入っちゃいなさい」
その言い草に負けて、夏波は湯へ全身をつける。だが入った位置は綾からも遠く、僕からも遠い。
「やっぱり恥ずかしい……」
僕は段々と慣れてきたのに、夏波はかなりの恥ずかしがり屋だと思う。
「んんっ、熱くて気持ちいいですね」
綾がうんと背伸びをする。彼女が背伸びをすると、水面に接する身体の部分が上下し、湯船に波紋をつくった。波はやがて僕の身体へと当たった。
「うげ、やっぱり入らない方が良かったぞ。何であんなに揺れるんだ……。ぽよんぽよんいってるぞ……。おかしいだろ……」
綾が背伸びするのを見て、夏波は恨めしそうに言った。
「大丈夫ですよ。夏波さんの胸も、十分魅力的だと思います」
「本当か?」
「はい。人の好みは色々ですので、大きいのが良いとは一概にはいえません」
女の子二人が胸の話をしている。僕はどうしていいのか分からない。うかうかと話に乗るわけにもいかない。かといって、無言でいるのも、盗み聞きしているようで気持ちが悪い。
「健一さんもそう思いますよね?」
話を振られてしまった。
「何がだ?」
「話聞いてなかったんですか?」
「ああ」
「世の男子は、大きいおっぱいだけでなく、小さいおっぱいも認めるか、という問題について話していました。男子の一員である健一さんに問います。大きいおっぱいが好きですか? それとも、小さいおっぱいが好きですか?」
「ぼ……」
「ぼ?」
「僕はどっちでもいい」
Dカップぐらいが好みだ。
「もー、はっきりしませんね」
綾は浴槽の湯を手で波立たせ、僕へとかけてくる。
「ところで夏波さん、カップ数いくつなんですか?」
「そんなの答えられるか!」
「私はEですよ」
「……Bだ」
空でも眺め、会話を剥離させる。意識から会話を追放してしまえば、悩む必要なんてなくなる。元々その話を知らないのだから。
「ちょっと揉ませて下さいよ」
「いやだ!」
僕は何も聞いていない。僕は何も聞いていない。
「それと、夏波さん。そんな離れていないで、もっとこっちに来ましょうよ」
「分かったから引っ張るな! 押し付けるな!」
綾が、遠くにいた夏波の腕を引っ張り、こちらへ連れてきた。
「そろそろ頃合いじゃないですか?」
「う、うん。そうだな」
夏波は綾との会話を終え、こちらへ向き直った。温泉に入っているためか、頬はほんのりと上気している。
「あのな、健一。話があるんだ」
不意に夏波が立ち上がった。立つ時に巻き上げられた湯が、雫となり降り注いだ。
「その……」
ふと目をやると、綾が夏波の背後に、にじり寄っていた。
「それっ」
「うひゃあ!」
かけ声と共に、綾は夏波のバスタオルを剥ぎ取った。略奪されたバスタオルは、無造作に捨てられ、水上を漂った。
その時、僕は長湯をしていたせいか、一気にのぼせてしまった。決して、目の前で何が何したからではない。長湯をしていたからである。
段々と耳は遠くなっていく。
「何……だ! バ……タ……せ!」
「この……い……思……よ」
「で、…………」
「さ……、堂々……さい」
彼女たちの会話は断片的にしか聞こえない。
夏波は両手を後ろにやり、身体の前部を無防備に晒した。斜め下を向いて、僕と目を合わせようとしない。
まずい、大変まずい。その姿をまざまざと見せつけられてしまい、僕の意識は急速に遠のく。
世界から音が完全に消える。聞こえるのは、自身の血が流れる音だけ。
そんな僕の様子を気にもとめず、夏波は何かを叫んだ。何を叫んだのか、今の僕には知ることができない。
現実との連絡が閉ざされていく。
僕は気絶した。