第四章(四)
僕は良川さんの気持ちを、理解させられていた。
「もうブツは、挙がってるんですよ。いい加減吐いて下さい」
テーブルの上に提示されているのは三枚の写真だ。どの写真にも、塀に背をつく僕と、覆いかぶさる部長が写っている。
電子機器が普及しているこの時代に、わざわざ印刷したのだろうか。ご苦労様である。
「というか、やっぱり良川さんが、ストーカーだったんじゃないか」
「うるさいですね。先輩につまらないことを喋る権利はありません。それよりも、どういうことなのか説明して下さい」
そう言った良川さんは、デスクライトの光を、顔へ当ててくる。僕が苦労して見つけてきたデスクライトは、彼女に使われてしまった。ちょっと悔しい。
「やめてくれ。眩しい」
「先輩にとっては、ちょうどいい明るさじゃないですか」
「そんなわけあるか!」
「仕方ないですね。やめてあげます」
良川さんは仕方なしといった様子で、デスクライトを元の位置へ戻した。
「さてそれでは、どういうことなのか説明して下さい」
「これは事故だ。僕はこの状況を、意図して作り出したわけじゃない」
努めて冷静に言う。ここで焦ったら怪しく思われてしまう。本当に事故なのだが、怪しく思われたら終わりだ。
「事故もここまでくれば事件です。それに事故ってるのは、先輩の頭なんじゃないですか?」
中々厳しいことを言う。僕の頭はまともだ。
まともではあるのだが、ここまで言われたら、僕も黙っていられない。
「ストーカーには、言われたくないな」
「私はストーカーでは、ありませんよ」
「じゃあ、この写真は……」
「うるさいですね。黙ってて下さい」
また光を当てられる。本日、二度目の照射である。
「分かった。もう言わないからやめてくれ」
「分かればいいんです」
「というか、この写真を取った人に、どういうことがあったのか、聞けばいいじゃないか」
「その人だって、ちょっと目を離してしまうことがあります。その隙にこれですよ。全く、ふざけてやがりますね」
「一つ訊いてもいいか?」
「はい、何でしょう」
肝心なことを訊いても、はぐらかされるに決まっている。ならば、肝心ではないことを訊いてみる。
「良川さんは、どうやったらこんな状況になると思う?」
僕は写真を指差しながら言う。
「そうですね……」
彼女は顎に手を当て、考える仕草を見せた。下を向き、目を瞑って考えている。
やがて考えがまとまったのだろう。彼女は前を向き、口を開いた。
「『おや、寺垣くん。肩口に糸くずが、ついているよ』
『ほんとですか』
『ああ、本当さ。今取ってやるからな』
『お願いします』
『おっと』
『うわっ』
『すまん、私としたことがバランスを崩してしまった』
『い、いえ、大丈夫ですよ。それよりも早く離れて下さい』
『そんな冷たいこと、言わなくてもいいじゃないか』
『冷たいだなんて、そんなことありません』
『はっはっは、焦らなくとも君の温かさは知っているさ』
と、いったところでしょうか」
彼女は、僕と部長の様子を実演してみせた。その芝居は大変うまかった。彼女こそ一人二役の名手である。
思わず拍手してしまう。
「ありがとうございます。ですがこれは、あくまで私の妄想でしかありません。本当のところはどうであったのか、教えてください」
「大体そんな感じだよ」
「は? こんなことがあったんですか。羨ましすぎます、死んで下さい」
「流石に、死ぬことはできないな」
「冗談に決まってるじゃないですか。本気に取るなんて、どうかしてます」
「僕も冗談で言ったんだよ」
「え? じゃあ、死ぬんですか?」
「いや、死なないけど」
「何なんですか。まあ、死なれちゃ困りますけど。『先輩に死を強要!』なんて、新聞に載りたくありません」
僕もそんなことで、死にたくない。
「先輩、千陽先輩に変なことしてませんよね?」
「してないよ」
「そうですよね。先輩のような只のヘッポコ変態が、そんな大胆なことできるはずありませんもんね」
やはり僕はヘッポコに見えるのだろうか。良川さんにも言われてしまい、少し心配になる。
こうなったら、ヘッポコはヘッポコとして置いておく。
ヘッポコを認めたとしても、変態だけは絶対に認められない。
「良川さん。僕のことを変態というのだけはやめてくれ」
僕は自分のことを、変態だと思っていないので、変態と呼ばれるのは大変不名誉である。変態と呼ばれて、悦ぶ変態もいるのだろうが、僕はそんな変態ではない。
「仕方ないですね、分かりました。これからも私は先輩を写真越しに見ていますから。変なことしないで下さいね」
そう言い残し、彼女は部室から去っていった。
あとには三枚の写真と、下を向いたデスクライトが残った。
金曜日。部長の荷物持ちをするのも今日が最後だ。
僕は月曜日と変わらない姿、格好で部長に従い歩いていく。
「寺垣くん」
前を歩いていた部長が、区切るように言った。歩く速さは少し遅くなった。
「何ですか」
僕もその速度に合わせて言う。
「その、すまなかったな。わざわざ一週間付き合ってもらって」
「別に構いませんよ。さほど面倒ではありませんでしたし」
「でも、毎朝私の家まで来るのは大変だったろう」
「それは確かに大変でしたけど……」
「はっはっは。こんなつまらないことを聞いてくれて、私はいい後輩を持ったよ」
部長は笑いながら、僕の背中を叩いてくる。
僕は転びそうになるが、鞄の持ち方を変えて転ばずに耐えた。
段々と見えてきた部長の家は、一階にだけ明かりが点いていた。それを確認した僕たちの歩速は、さらに遅くなる。
部長は家の前で足を止めた。
「ほら、寺垣くん。約束のものだ」
部長は握り拳を前へ突き出した。僕は手の平を上へ向けて、部長の下に並べた。欠片は僕の手の平へと落とされた。
「また来週」
「はい、部長」
部長は家の扉を開け、僕に手を振ってきた。僕が振り返すと、部長は満足げに中へと消えていった。
しばらくの間、僕は部長が消えていった扉を見つめていた。だがそうしていても、仕方がない。自分の家へ帰るため、今来た道を引き返していく。
「おや、先輩。奇遇ですね」
途中、良川さんに出くわした。
「そうだな。奇遇だな」
「何ですか。ノリ悪いですね」
成り行きに身を任せ、彼女と並んで歩いていく。十一月の空は寒々としており、冬の訪れを感じさせた。星が綺麗だ。
「僕が部長と一緒に帰ることはもうないよ」
「下僕辞めたんですか」
「ああ」
「そうですか」
良川さんが歩く度に、彼女の革靴から靴音が鳴った。その音色は硬質であった。その音は僕と良川さんとの調子を取っていた。こつこつという音は、一定のリズムを狂いもなく刻み、僕をどことなく安心させた。
「先輩」
「何だ?」
「千陽先輩に手を出したら、許しませんからね」
「出さないよ」
「本当ですか? 先輩は異常性欲者なので、誰かれ構わず、手を出しそうです」
「なら良川さんにも、手出しちゃうかもな」
「やめて下さい。うぷっ……」
彼女は口に手を当てて、吐く真似をする。
「冗談だよ」
「分かってますよ」
やがて彼女は、自動販売機の前で立ち止まった。
「先輩、これ。下僕解任記念です」
彼女の手に握られた二本の缶コーヒー。その一本を渡される。
缶を握ると、はっきりとした温かさが感じられた。