第四章(二)
朝七時半、部長の家の前に着く。今日は月曜日だ。
数分間待っていると、ドアが開き中から部長が出てきた。こちらに手を振ってくる部長。 僕も手を振り返した。
「待たせてすまないね」
「いえ、構いませんよ」
「それじゃあ、鞄を持ってくれ」
そう言って部長は、鞄をズイと差し出す。
「いやー、寺垣くんが本当に言うこときいてくれるとは思わなかったよ」
「それって、今日来ないと思ってた、ってことですか?」
「少しね」
「僕はそんなことしませんよ」
「おお! 男らしいな」
バンバンと背中を叩かれる。両手に鞄を持っているので、上手くバランスを取れず、よろめいてしまう。
「部長、鞄持っているので」
「ああ、すまん!」
校門近くに着くと、周りから奇異の目を向けられた。
何も荷物を持っていない人と、鞄を二つ持っている人が、並んで歩いているのだ。どういう状況かは一目瞭然である。
「ここまでで、いいよ」
「分かりました」
部長に鞄を渡す。
「ありがとう。また帰りも、お願いするよ」
そう言って部長は昇降口へ向かって行った。
「はは、勘弁願いたいですね」
その言葉に部長は振り向きもせず手を振って応えた。
部長がいなくなった後、後ろから浩二の声が聞こえてきた。
「健一ー!」
何やら、嬉しそうな調子だ。
「お前も遂に、奴隷デビューか!」
無視して教室へ向かった。
僕は階段の前で右往左往していた。
今朝、部長と登校してきた時に、部長から「昼休みに私の教室へ来てくれ」と言われてしまった。購買で焼きそばパンを、買ってきて欲しいのだという。何でそんなことを……と、ごねるわけにはいかない。今の僕は部長のいうことを、きかなければならないのだ。
いうことをきくと約束をした時に、部長が言ったお使いとは、この焼きそばパンを買ってくることであった。
上級生のフロアへ行くのは緊張する。行っても問題はないのだろうけど緊張はする。
「すう……、はぁ……」
一つ深呼吸して覚悟を決めた。
階段を早足で降り、廊下を早足で過ぎる。
部長の教室の前に辿り着いた。
ゆっくりと自然に扉を開ける。
部長の席は廊下側にあったので、教室内を横切るという目立つ行為をせずに済んだ。
上級生の教室を横切る! 考えただけでも恐ろしい。
「やあ、寺垣くん」
「部長来ましたよ。焼きそばパン買うなら、早くお金下さい」
「ちょっと待っててくれ」
部長はポケットを探り、百五十円を取り出した。百円玉が一枚に、五十円玉が一枚。僕はそれを受け取る。
「それじゃあ、行ってきますね」
「頼んだよ」
「ねぇ、この子って誰?」
部長の席の近くにいた方が僕に気づき言った。
「部活の後輩だ。色々事情があって、私のいうことを、きいてもらっている」
「えっ、いうことを?」
「なになに?」
話を聞いていた他の先輩方が僕の周りに集まってくる。
「君、千陽のいうこと何でもきいているの?」
「何でもではありませんよ」
「そうだ。行き帰りの荷物持ちと、今焼きそばパンを買ってきてもらう、くらいしかお願いしていない」
「ふーん。そこまでして、千陽のこと好きなの?」
「な、何言ってるんですか!」
「きゃーーーっ! かわいいーーーっ!」
先輩方が一斉に言った。
僕は別に可愛くないと思う。歳は一歳しか変わらないのだぞ、それなのに可愛いもクソもあるか。
「寺垣くんをからかうのも、いい加減にした方がいいと思うぞ。彼、怒ると怖いからな」
「えっ、そうなの?」
「こんなに可愛いのにな~」
部長の前で怒ったことはないのだが、話がいい感じにまとまりそうなので、つっこまない。
僕から話題が逸れた隙に、教室を出て購買に向かう。
あのままいたら、休み時間が終わってしまう。
購買に着くと、焼きそばパンが一つだけ残っていた。僕はそれをおばちゃんの所に持っていく。
「これ、お願いします」
「はいよ。百二十円ね」
百五十円をおばちゃんに差し出す。部長は百五十円渡してきたので、焼きそばパンは百五十円だと思っていた。だが実際は百二十円だった。
「お釣りの三十円ね」
お釣りを受け取ってから、焼きそばパンを受け取った。
急いで、部長の教室へ戻る。
「部長、買ってきました」
「ああ、ありがとう」
「それと、焼きそばパン百二十円だったみたいです」
お釣りの三十円を渡そうとする。
「いいよ、三十円くらい。頑張ってくれた君に、この三十円はあげるよ」
そう言って部長は三十円を受け取らなかった。
「そうですか。ありがとうございます」
たかが三十円ではあるが、お礼を言っておく。
「また来たんだね、寺垣くん」
先程とは別の先輩が、戻ってきた僕を発見して言った。
「そりゃ、お使いですから戻ってこないわけにはいきませんよ」
「ははは、そっか。別に百五十円がめてっちゃっても、良かったんじゃない?」
「おい。なんてこと言うんだ。変なこと言って、後輩を悪の道へ誘うな」
「ごめん、ごめん! つい……ね?」
「つい、で犯罪を勧めるな!」
僕、もう帰ってもいいだろうか?
「部長、そろそろ自分の教室へ戻りますね」
「そうか、焼きそばパンありがとな」
「いえいえ、それでは」
「ちょっと待って!」
先輩はバッと手を伸ばし、僕を制した。その指には、可愛らしい柄の絆創膏が巻かれていた。
「何かあるんですか?」
帰るのを妨げられてしまった僕は、少々苛立って訊いた。
「寺垣くん、お昼ごはん食べてないんでしょ? なら一緒に食べようよ」
「エッ。この教室で、ですか?」
「そだよ」
上級生の、教室で、昼食を、取る! これは上級生に関する事柄の中でも、かなり難しい部類に入る。昼食を取るということは、長時間そこにいなければならないのだ。ササッと来て、ササッと帰れるお使いとはわけが違う。
食べ終わるまで少なくとも二十分はかかるだろう。二十分を上級生の教室で! それは苦痛以外のなにものでもない。
「ぼ、僕お弁当持ってきてませんし」
「私のお弁当分けてあげるよ。今日のお弁当は唐揚げだよ、寺垣くん好き?」
「好きですけど、そういうわけにはいきませんよ。先輩のお弁当は先輩が食べて下さい。僕なんかに分けたら、お弁当がもったいないですよ」
「そんなことないよー。とりあえず、唐揚げ食べてから考えな? はい、あーん」
先輩はいつのまにか取り出した弁当箱から、唐揚げをつまみ、僕に食べさせようとする。
「こりゃ、食べるまで引かないだろ。観念して食べたほうがいいぞ」
部長は、にやけていた。
目の前に唐揚げがある。とても美味しそうだ。急に空腹を意識した。
僕はそれに、ぱくついた。
「きゃーーーっ! かわいいーーーっ!」
他の先輩方がどこからか湧いて出てきた。
「……僕もう帰りますね」
「はっは、焼きそばパンありがとな」
「じゃーねー」
唐揚げをくれた先輩に見送られ、僕は教室を出た。
二日目の帰り道、部長と共に帰っていると、背後から視線を感じた。ふと振り返ってみるが、誰もいない。何の変哲もない通学路だ。
「どうしたんだ?」
「い、いえ。なんとなく、誰かいたような気がして」
「ストーカーか?」
「心当たりがあるんですか?」
「あるわけないだろ」
部長は、ぶっきらぼうに言った。しかし部長は綺麗なので、ストーカー被害にあっても、なんらおかしくない。
しばらく歩いていると、また視線を感じた。
今度は素早く振り向く。
……誰もいない。
「何だ、被害妄想か?」
「うーん、いたような気がしたんですけどね……」
「きっと疲れているんだろう。家に帰ったら、早めに寝たほうがいいと思うよ」
「僕は疲れているように、感じませんよ」
「疲れているのが分からないほど、疲れているんじゃないのか?」
そうであろうか。今日は体力を使うようなことをした覚えはない。
「あまり無理しないようにな。家にいる女の子二人が心配するぞ」
「………………」
女の子二人……。夏波や綾と一緒に住んでいることを、どうして知っているのだろう。全てを見透かされているような気がして、ゾゾッと背中に悪寒が走った。
「何でそのことを知ってるんですか?」
単刀直入に訊いた。
「そのことって、女の子と一緒に住んでるってことかい?」
「はい」
「はっはっは、私の情報収集能力を舐めないほうがいいぞ。大丈夫、多分私しか知らないさ」
……夏波や綾のストーカーなのだろうか。はたまた僕のストーカー。でも部長がストーカーをするなどとは、全くイメージが湧かない。
僕たちはまた歩き始める。
また視線を感じた。
今度はまず振り返るそぶりをみせた。そのあとすぐに振り返る。
曲がり角に動く気配があった。その方へ行ってみると、地面にあるものが落ちていた。 それは赤い栞であった。この栞には見覚えがある。これは良川さんの栞だ。
僕はそれを拾い、ポケットに入れた。
「何かあったのか?」
屈んでいる僕に、部長が問いかけた。
「いえ、何もありませんでした。やっぱり、僕の気のせいだったのかもしれませんね」
「そうだろう。疲れているなら、今日はもう帰るか?」
「そんな中途半端なこと、できませんよ。責任を持ってお送りします」
「やっぱり君は、男らしな……。これまで、只のヘッポコ野郎だと思っていたが、考えを改めないといけないな」
そんな風に見られていたとは思わなかった。悪くてもそこら辺にいる何でもない後輩ぐらいだと思っていた。
「さあ、私の家まであと少しだ。頑張ってくれ」
部長は進行方向へ向き直り、進んで行った。屈んでいた僕は遅れてはいけないと思い、慌てて立ち上がって、部長の隣へと並んだ。