第三章(三)
健一のところへ移り住み、一週間が経った。この頃になると私は、健一や綾との生活にも慣れ、彼らの一員として溶け込んでいた。
だが、綾へのモヤモヤが氷解することはなかった。綾と健一が今どうしているかと、一々気にすることはなくなったのだが、目に見えない部分、つまり綾が健一をどう思っているかが知りたかった。
私はそのことを知らずにはいられなかった。
今日の夕食は、鯖の味噌煮だ。
私は菜箸で鯖の切り身をつついていた。一週間彼女と一緒に料理をし、私は段々とコツを掴んできた。そして火加減を見るという大役を担うまでになった。
「綾、このあとどうすればいいんだ?」
「はい、次は味噌を入れて下さい」
冷蔵庫から味噌を取り出し、スプーンですくう。
私は今日、綾の気持ちを聞いてみようと決心していた。そのための場をこれから設けたいと思う。
計画はこうだ。今この場で彼女に一緒に寝たいと言う。布団の中こそ場である。そのほうが、落ち着いて話ができると考えた。すると彼女は了承する。そして布団の中で彼女に質問をぶつける。
我ながら完璧だ。
「ん、このくらいでいいか?」
「もう少し多いほうが、良いかもしれません」
再度、味噌をすくい、フライパンに入れる。
「なあ、綾」
「はい、何でしょう」
「今日一緒に寝ないか」
言ってしまった。もう後へは引けない。彼女もこんなことを言われて、驚いたのだろう。次の言葉を聞くのに少し時間がかかった。
「一緒にですか?」
「ああ。嫌なのか? 私は綾とゆっくり話がしたいんだ」
綾は手を動かしながら答えた。
「いいえ、そんなことはありませんよ。ただ、いきなりで驚いてしまったんです」
「そうか」
「なので今日は一緒に寝ましょうね。それと火はもう少し弱いほうが、いいかもしれません」
「おう……、焦げちゃうといけないもんな」
つまみを回して火加減を調節する。
「でも夏波さん、料理うまくなってきましたよ」
「やっぱりそう思うか! ふふっ」
綾に褒められたので私は思わず笑みをもらした。
綾の部屋へ行くと、布団は既に敷かれていた。
「本当に布団、一枚だけでいいんですか?」
「ああ。その方が一緒に寝てるって感じがするじゃないか」
「ふふ、そうですか。友達と一緒に寝ることなど、滅多にありませんから、うきうきしてしまいます」
「私も楽しみだぞ!」
「今十時なのですが、これから何かして遊びます? それともすぐに寝ちゃいます? というか夏波さんはいつも何時くらいに寝るんですか?」
「私は零時くらいかな。眠くてたまらない時は九時とか十時に寝ちゃうけど、だいたいは零時だぞ」
「なら寝るのは零時にしましょうか」
「今日は早く寝たいんだ。だから今すぐ布団に入ろう」
早く綾に質問をぶつけたかった。回答がもう少しで手に入るのに、もたもた遊んでいられない。
「それじゃあ、早速布団へ入りましょうか」
私が先に布団へ入り、後から綾が入ってくる。
一人用の布団に二人で入るのは難しく、どちらかが身体全てを収めようとすると、もう一人は布団からはみ出してしまう。試行錯誤しているうちに、なんとか両方の身体を全て収めることに成功した。
私と彼女は向かい合って寝ており、目と鼻の先に彼女の顔があった。彼女の顔立ちがくっきりと分かった。
「どうします? 恋バナでもします?」
恋バナという単語に、私はピクリと反応した。彼女からその話題を振ってくれるとは、こっちにとっては好都合だ。
「そ、そのことなんだが」
「夏波さんは健一さんのこと、好きなのでしょう?」
「ぶぶっ!」
吹き出してしまった。
「あら、違うんですか?」
「い、いや。そうだ!」
「どっちなんですか?」
「私は健一のことが好きだ!」
「そんな大声で言わないほうが、いいと思いますよ。健一さん、一階にいるかもしれませんし」
「あわわわわ」
「でも、この時間なら、健一さんは降りてきませんよ」
「ふう……」
一息ついたところで、私は何故健一のことが好きであると分かったのか訊いた。
「な、何で分かったんだ?」
「だって、そうでもなければ、一緒に住もうとはしないでしょう?」
全くその通りである。
「うう……、そうだな……」
「赤くなってますね? 暗い中でも分かりますよ」
「う、うるさい!」
こう話をしていると、本題を切り出すのが容易であった。
「綾は健一のこと、どう思っているんだ?」
「別に好きでもありませんよ」
「そうなのか」
「でも、これから好きになるという可能性は、否定できませんね。なので、好きになるときまでは、夏波さんを応援したいと思います」
多少引っかかるところはあるが、綾が応援すると言ってくれて、私は嬉しかった。綾が健一を好きになった時は、二人で仲良くどうにかしたいと思う。今は具体案など浮かばない。あるか、ないか、分からないことを悶々と考えていたくはない。
「うう……、綾……」
「な、泣かないでください、夏波さん」
気づくと涙が溢れていた。水滴は横に流れ、枕を黒く染めていく。
「だって……、ずっと怖かったんだ。綾のこと好きなのに、私は素直に好きと思えなかったんだ……」
「もう、大丈夫ですよ。手、握りましょう。ね?」
「うん……」
綾の手を掴みその確かさを実感すると、わだかまっていた気持ちが、一瞬にして氷解した。
モヤモヤがなくなり、私は消え入るように眠っていった。
翌朝、私は障子越しの光によって目を覚ました。
寝起きのため、綾の部屋で寝ていたのを忘れてしまっていた私は、隣にいる綾を見てびっくりした。だがすぐに昨日の夜を思い出した。
手に何やらゴツゴツとしたものを感じる。
「ぬおおおおおおおおお!」
「どうしたんですか!」
叫びを聞き綾が飛び起きた。
私の手には欠片が握られていた。
「綾! 綾! これ! これ!」
「何ですか? どれですか?」
慌てながら突然現れた欠片を見せる。
「欠片じゃないですか。夏波さん、いつの間に見つけたんですか」
「分からん! 朝起きたら手の中にあったんだ。どうしてだ。私は何もしていないぞ!」
「うーん。勝手に握られていたんですか?」
「そうだ。私は何もしていないのに」
「もしかしたら、昨日まで健一さんのことで悩んでいた夏波さんが、それを解消されたので欠片が出てきたのかもしれません。欠片は強い感情が起こった時にも出てきますから。今回の場合は強い安堵によって出てきたのでしょうね」
「安堵……」
「そうですよ。夏波さん、私に打ち明けられて、安心したんじゃありませんか?」
そうか、欠片は私の感情から生み出されたのか。私の安堵はそこまで強いものであったのだ。
この欠片は私に安堵が訪れた記念品だ。
欠片をぎゅっと握りしめると、欠片の角が手の平に主張をした。
息切れしている二人へ、ペットボトルに入ったスポーツドリンクを差し出す。この前の反省をいかし、私は飲み物を準備してから本の世界へ向かっていた。
「あっ、ありがとうございます」
「あ……、ありがとう」
二人は震えながら手を伸ばし、ペットボトルを受け取った。
私たちはスポーツドリンクを一気に飲み干す。それは疲れ切った身体を駆けめぐり癒やしていった。
「それにしても、夏波は欠片をどこで見つけたんだ?」
「それは……」
「家の中に落ちていたんです」
綾が堂々と嘘をついた。
「家の中か、それは盲点だったな……。どこらへんにあったんだ?」
「私の部屋にありました」
「綾の部屋か。そこは僕じゃ捜せなかったな」
「ははは、そうですね。偶然見つけたので驚きましたよ」
「あー」
健一がうんうんと頷いていた。
私たちは台の前まで歩いて行く。台はこの前来た時と何も変わらずに存在していた。左端で青色の欠片が回転している。
「それじゃあ、収めるぞ」
私は健一と綾に確認をとった。
「ああ、ドンと置いてくれ」
「よろしくお願いします」
いざ収めるとなると、この安堵の結晶が少し惜しいような気がした。
台の中央で手を離す。すると欠片は少し左に移動し、赤色の光を帯びた。
「あと二つか……」
健一がポツリと漏らした。
「ええ、あと二つですね」
「真面目に捜している時に見つからないなんて、僕たち祟られているのかな」
「祟られていても見つかったんだから、いいじゃありませんか」
「それはそうなんだが、何か釈然としないんだよな……。明日から捜すの、やめちゃおうかな……」
「そんなこと言わないでくださいよ」
「冗談だよ」
そう言って健一は、綾の頭をクシャクシャと撫でた。
少し嫉妬した。