2(王子視点)
私は自分の婚約者たる令嬢のことは実のところ好きでもなければ嫌いでもなかった。
王族である以上、結婚は義務であり相手が誰であろうと受け入れなければならないことは幼いころから自覚していたので、婚約者として侯爵令嬢が決まったことについては何も不満はない。
彼女と学園に入学するまでに会話をしたのはほんの数回であったので印象も朧気だった。しかし私に遅れること一年、学園に入学した彼女とはよく会って話をするようになった。
婚約者なのだから逢瀬を重ねることは問題ではないし分別だってある。もっとも会話は弾むし有意義ではあるものの、これと言って凄く楽しいという気持ちにはならなかった。
つまるところ、私は一度でいいから身を引き裂かれるような恋というものをしてみたかったのだ。
幼稚であると誰かは言うかも知れない。けれど学園にいる間だけは私は自由の身である。言い換えれば、今この期間しか自由ではない。年相応の楽しみくらいは持ちたかった。
とはいえ、自分が王子ということは学園でも知らぬものはいなかったし、婚約者の実家である侯爵家に喧嘩を売ってまで私との一時の恋を楽しんでくれるような強者は学園にはいなかった。特に令嬢が入学してきてからは他の女生徒との会話すらままならない。
そんな折、自分の乳兄弟である幼馴染が、一人の女生徒と歩いているのを見かけた。
なにやら楽しそうに話をしている姿を見て、彼のそんなくだけた姿を見たことがなかったものだから思わずまじまじと見つめてしまった。それを、幼馴染が気付かないはずもない。
すぐに声をかけてきて、そして同席していた女生徒を紹介してくれた。どうやらとある子爵家の令嬢らしい。深みのある茶色い髪はハーフアップにしており、貴族の令嬢にしては珍しく肩より少し長いだけ。アーモンド形の大きな瞳の色は吸い込まれるような空色。初めまして、とはにかむ笑顔は、やはり貴族らしくはなかったが、正直そのことはあまり気にならなかった。ただ、純粋にかわいらしいなと不思議と胸がときめいた。
挨拶と簡単な会話だけだったけれど、また話がしたいな、と思った。だから素直にそれを伝えれば、彼女は嬉しそうに笑って「はい!」と元気に答えてくれた。隣りにいた幼馴染が微妙な顔になっていたことに気付くこともなく、その笑顔に見惚れていた。
しかし、それから一向に彼女とは会う機会がなかった。というか見かけることもあまりなかった。登校していないのかと思いきや、幼馴染に聞いてみれば毎日登校しているとのこと。
ではなぜ私とは会わないのだろうか。
分からないまま、そして自分の気持ちも不明瞭なまま、三か月ほど過ぎていったある日事態は急展開を迎えた。
「殿下、少しお時間よろしいでしょうか」
幼馴染と廊下を歩いていると、学園の教師を務めている叔父が声をかけてきた。
「そんな風に他人行儀に声をかけなくても」
「ここでは私はしがない教師ですからね」
それを言うならば私はただの生徒だ。
「きっと殿下にも損にはなりませんから、ぜひに」
そう言われれば断ることもない。幼馴染に目配せすれば、どうぞご自由に、というような目線が返って来る。
叔父は既に王位継承権を放棄していて、学位を得て教師の仕事に就いている。やりたいことがあるけれど、それには王族であることは有利にはならないと話していたが、彼の研究内容は決して教えてはくれなかった。
ともかく父とは半分しか血が繋がらないこの叔父は自分にとっての脅威ではなく、優しい叔父でしかない。彼について行ってもなんら問題はないだろう。
連れていかれたのは裏庭だった。雑木林は校舎から少し距離があるものの手入れがある程度されているお陰で裏庭と言えど暗い印象は与えない。どこまで行くのだろうと思っていると、ちょうど一番端まで来て、そして校舎に背を向けるようにして腰を下ろし始めた。
「殿下もどうぞ」
「あ、ああ」
教室の窓は、ひとつだけが大きく開いていてカーテンが小さく揺れていた。中には人の姿はなく、柔らかな日差しをさし込んでいた。いたって平凡な光景だった。
ポケットのハンカチを取り出そうとも考えたが、叔父がそのまま座るものだから出しにくくなり私も直接その場に腰を下ろす。ひんやりとした土の柔らかな感触が程よいクッションになっていた。
幼馴染の彼はどうするだろうかと見上げれば、彼は教室の中を見つめていたかと思うと、突然にんまりと唇が弧を描いた。
「……どうかしたのか?」
「いいえ、なんでもありませんよ、殿下」
私にとっては見慣れたが、他者にとってはただでさえ怖いのに笑うともっと怖いと言われるらしい、幼馴染の笑顔にただただ首を傾げるばかりだ。
彼が座って、さて何が起こるのだろうかと思った、その時だった。
「こちらにお入りになってください」
ガラリと教室のドアが開いた音がして、女性の入室を促す声が響いた。
腰を浮かしそうになった私を、両脇の二人が引き止める。口元に指を当てて喋らないようにと仕草で合図され、私は室内の会話を盗み聞ぎするために呼ばれたのだということに気付いて叔父を睨み付ける。
盗み聞ぎなど良くない行為であることは間違いない。それも、声の幼さからしてここの生徒だ。女性でもあるし、聞くべきではない。だがここから去るべき手段は両脇の二人によってふさがれてしまっている。
私は、室内の会話を聞く他なかった。
窓の高さから、私たちが座っていても中からは見えないだろう。よほど、窓際に近付かない限りは。もしも中にいる二人に見つかってしまったら。王子たるべき人物がこんな卑劣な真似をするなどと、とショックを受けられるかもしれない。その生徒が親に報告でもすれば、王宮から呼び出しがあるかもしれない。両親の嘆く顔は見たくはない。
「……お話とは、いったい何でしょうか」
私は再び立ち上がりそうになった。もちろん、私よりもずっと腕の立つ二人がそれを許してはくれなかったのだけど。
おそらく最初の女生徒が呼び出した人物なのだろう、そしてもう片方が呼び出された方――私の婚約者の声だ。あれだけ聞いているのだから誰だって覚えてしまうだろう。甘さを含んだかわいらしい声だ。
ではもう片方はいったい誰だろうか。どこか聞き覚えのある、溌剌とした声――。
「あまり時間はかけたくないから単刀直入に言うわ。王子攻略の邪魔するのはやめてくれない?」
ん? 今、彼女はなんて言っただろうか。
幼馴染が隣りで震え出したのが見えた。
「何のことでしょう」
返す婚約者の声は相変わらず楚々としている。対する女生徒は憤っているのか、少し声が荒立った。
「もう全部わかってるんだから、猫被らないでよ。あなたも、このゲームやったことあるんでしょ」
「……」
「そして、主人公たるあたしが王子ルート選んだってことも、わかってるんじゃないの?」
猫を被る? ゲーム? 主人公に王子ルート?
聞き覚えのない単語の連続に戸惑っていると、今度は叔父が「よし、行け。若くて可愛いアイドル的存在の女の子同士の醜い争いを生で見せてくれ」とブツブツと言っている。
「間に合った?」
小さな、新しい声がすると思って視線をやれば、四つん這いでこちらに向かってくる赤毛の青年がいた。王宮での私の護衛を務めている青年だ。学園内においては接触は必要最低限のみである。私に気を遣ってのことだ。
幼馴染が彼の問いかけに同じように小声で答える。
「ああ、ちょうど始まったところだ。他のやつは?」
「どっかで見てるだろ。殿下、失礼しますね」
目礼をした彼はそのままうつ伏せになって頬杖をつく。その態勢で盗み聞ぎに参加するというのか。豪胆すぎやしないだろうか。それに他のやつとは?
どういうことなのかと問うべき前に、室内から声が上がった。婚約者のもの……のはずだ。断定できないのは、声色は確かに彼女のものだったが、私がまったく聞いたことのない喋り方をしたからだ。
「それで? だから何だっていうの?」
聞いたことのない、まるで誰かをバカにするかのような婚約者の声。
「悪役令嬢は悪役らしく、さっさと惨めな思いを受けて退場しなさいよ」
「冗談でしょう? なぜわたくしが? せっかくここがゲームの世界だって思い出したのよ。ゲーム通りになんてなってたまるものですか。大体にして、わたくしが一度でもあなたに何かしたかしら? 何もしていないし、ゲームのような態度は出していない。婚約者とはいたって良好な関係を築いているのよ? 退場する必要があるのは、あなたではなくって?」
「なんですって? あたしが王子を攻略しようとどれだけ努力したと思ってるのよ」
「あらぁ。でしたら、その努力を他の攻略キャラの方に向けてみたらどうかしら? 意外とあっさり落ちてくれるのではないでしょうか?」
彼女たちがどうやら私を巡って言い争っているのだろうけれど、あまりにも私には理解出来ない言葉ばかりが飛び交っているのでいまいち実感が沸かない。というかもう片方の女性はいったい誰なんだ。あと婚約者はどうしてしまったんだ。
「は? 他なんかどうだっていいのよ。むしろ他の攻略キャラこそ、あなたに熨斗つけて差し出すわよ。あとその喋り方、気持ち悪いからやめてくれない」
「……あの中だったら、王子がいいの。あの人が手に入るなら、他はくれてやると言われてもねぇ」
婚約者の口調が変わった。流れから察するに、これが本来の彼女の喋り方なのだろう。ずいぶんと砕けた話し方をする。もう一人の女生徒もだけれども、まるで貴族の令嬢らしくはない喋り方をする。
「いらないって言われちゃったな~」
「押し付けられてもこっちだって困るだろ」
幼馴染たちがくつくつ笑いながら、まるで自分たちこそが彼女たちの言う『攻略キャラ』とやらであるかのように話している。もちろん小声で。
叔父も事情を知っているような雰囲気だし、自分がまったく蚊帳の外にいるような気分を味わっていると、恐る恐るといった様子で女生徒が婚約者に問いかけた。
「まさかと思うけど、王子のこと……好きなの?」
と。