#00-2
20××年○月□日、演習場。
人里から遠く離れた山中で、自衛隊新隊員教育の最終課程がおこなわれていた。
半長靴がとても重い。
自分の顔が映るくらいツヤツヤに磨かれた面影はもはや残っていない。鏡のようだった靴のつま先は土と埃にまみれてすっかり汚れていた。
……おっと、いつの間にか下を向いていたらしい。オレはぼんやりとするアタマをなんとか上げて正面を向く。もうすでに疲労困憊だった。だがそれでもオレたちはひたすら歩き続けている。
はじめこそ体力自慢の猛者どもが気合十分元気十分で出発したものの、今となってはみんな重い手足をずるりずるりと引きずるようにして歩き続けていた。
100人以上の人間が縦一列に並んで歩き、誰も彼もが口を開かずただ黙々と歩き続けている様子はかなり不気味だ。しかもみんな表情はとっくに死んでいる。そもそも楽しいハイキングというわけではないのだから当たり前なのだが。
そういえば歩き続けてどれくらいなのだろうか。ふと考えを巡らせてみる。
深夜の緊急招集から始まり、駐屯地から目的の演習場までは大型トラックの荷台で長時間揺られて移動した。おかげでケツが痛い。オレは掘られたわけではない。
そして演習場に到着してからが訓練の本番だ。各人が用意してきた装備と大荷物を背負い、「徒歩行進訓練」と銘打った長距離移動を開始。それが日の昇り始めた朝方だった。
けっこう前に食事をとったのだが、あれはたしか昼食だったはずだ。わざわざ一部の教官たちが先回りしてまで作ってくれた温食を食べた。
そんな教官たちの素敵な配慮のおかげで携行した糧食は減ることなく、重りというもうひとつの役割を今も変わりなく立派に果たしている。
「わざわざ炊事車を借りてまですることじゃねえ」、というのがその時オレたち全員が心の底から思ったことだ。いや、美味かったけれども。
ならば今の時間帯は、太陽の傾き具合からいって夕方の手前くらいだろうか。
時計? 正確な時間を知るとテンションが下がるのでなるべく見ないようにしている。「もう数時間は経過したかな?」と思って時計を見ると10分くらいしか経っていなかったときの絶望感はもう二度と味わいたくない。
ずれ落ちてきた重い鉄帽を被り直す。1キログラムちょっとと、重量を数字で表すとけっこう軽く聞こえるが、ずっと被りっぱなしというのはやはりキツい。てか脱ぎたい。どっか遠くに放り投げたい。そんなことしたら怒られるけど。
戦闘背嚢の肩ベルトと迷彩戦闘服の間に無理やり指を突っ込む。ぐいっと正しい位置に背負い直すと少し楽になった。……気がした。
荷物を目一杯に詰め込んだ背嚢はとにかくデカくてめっちゃ重いので、メリメリと容赦なく肩にめり込んでくる。とにかくアホみたいに重くて、大人を1人分背負っているようなものだ。なんだか出発前より身長が5センチくらい縮まった気がする。
全身あちこち痛むのだが、特に右の肩に負担がかかって痛い。その理由はベルトで吊った小銃だ。日本に生まれ、日本人として普通に育てば、本物に触れる機会などまずないだろう。モデルガンやトイガンではない、実銃だ。
小銃はおよそ4キログラム弱。だいたいの人が簡単に持てる重さだ。だが持ち続けるのはどうだろう。正直キツい。実際にやってみてわかった。オレは身をもって知った。ホントキツい。ごめんなさいナメてました。
オレは小さく嘆息した。だが足を止めることはできない。
呼吸はどんどん荒くなっていく。体力はガンガン削られていく。足元はふらふらと覚束なくなっていく。それでもオレたちは歩き続けなければならない。
前後にいる同期隊員もオレと似たり寄ったりの状態だった。
ちらりと様子をうかがってみれば、みんな同じように疲れきった顔、みんな同じように重い足取り、そしてみんな同じように汚れた戦闘服と重そうな装備。
隊列は一列縦隊。同じ格好の若者たちがずらり並んでいる様子はなかなかに壮観だ。ところどころゾンビみたいに死んだような顔をしているヤツがいるが。
すぐ前を歩く同期生が腕を動かした。
オレも同じ腕の動きをマネする。こうすれば後ろの同期生もどんどん後方に伝えていくだろう。これはいわゆるハンドサインだ。意味は『小休止』。長蛇の隊列は急に止まれないので、まずは『5分後に小休止するよ』という予告のサインだ。
待ってましたと、オレは深く息をついた。
短い休憩が終わり、部隊はふたたび一列縦隊で行進を再開した。
現在地は演習場の森の側道だ。いちおう戦車が通れるくらい広い。だがその道路は平らにならされているとはいえ地面がむき出しだった。舗装道路よりも歩きにくくてデコボコに足をとられそうだ。しかももうすぐ地獄の上り坂が待っているらしい。
さらに路肩のすぐ横には不気味な雰囲気の森林が広がっていた。そうか、これからちょうど夜間にこの森のど真ん中を抜けるカタチか……そうか……。
……話は変わるけど、自衛隊の施設ってよく幽霊とか出るって話を、え? 聞いてないって?
……歩哨で見回りをしていると慰霊碑の横を通らざるをえないとか、営舎のすぐ横に見慣れないブルーシートがかぶさってたりとか、広大な演習場なんかでもふと覗いた木と木の間に人影が立ってたり、え? 聞いてないって? そうですか。
歯を食いしばって前に進む者。まだまだ元気そうなタフな者。きつそうな表情を隠さない者。気力だけで足を動かしている者。あとゾンビ。みんないろんな顔をしている。オレはまだ平気そうな顔をしているだろうか。
不幸にも様々な諸事情が重なってしまって、オレは最高の重装備になっている。
教官たちの素敵な思いつきで重い装備を持たされている者はほかにもいるが、真の意味でフルアーマーになっているのはこのオレだけだろう。全身がガッチガチで、重いのは足取りだけではない。実際にこの中で一番重いと言い切れる。
ほかの同期生たちもそれなりに重量アップされているが、それぞれ同じ班の者たちと分けあって支えあっている。
それに対してたった一人で全オプションを身に着けて背負っているオレの装備重量は彼らの倍くらいまで増加している。特に水と食糧にいたっては班全員分なので、かるく籠城戦ができそうなくらいパンパンに持たされていた。
教育期間中あれほどみっちりと走らされて鍛えられたはずなのに、はやくも体力ゲージは空っぽ。残っているわずかな気力と根性と意地だけで両足を支えていた。
そう、オレはあいつらへの怒りの炎を原動力に――と言いたいところだが、疲労具合がひどすぎて、あいつらをどうこうする気などみじんも残っていない。増加した分の荷物を持ってくれるのなら土下座して頼んでもいい。それくらいキツい。
当初こそしょうもない反骨心からフルアーマー自衛官、パーフェクト二等陸士になったが、その意気はすでに吹けば消えるほど小さな弱火になり果てていた。
あ、ヤバい。もうあとちょっとで、ほんの少しなにかあったら――――
――――突如、警笛が静寂を切り裂く。
「敵陣からの砲撃ぃ! 着弾まであと5秒っ! よんっ!」
え。あ。
「さんっ! にーいっ!」
奇跡的に体が動いた。ばっと路肩に身を伏せる。
「いちっ! だんちゃーーーーくっ!!」
「はい1番、4番、7番、死亡!」
「あと13番に14番、てめえらも全員死亡だ!」
教官たちが怒号を飛ばす。指摘された番号の同期生たちはまだ呆然としている。
「おーし、番号呼ばれたやつら全員そこに並べ! 腕立て伏せ、よぉーいっ!」
呼ばれた同期生たちは絶望的な表情で腕立て伏せの姿勢をとった。
……あ、あぶなかった。これはたぶん『行軍中に敵からの砲撃が飛んでくる』という想定の訓練だろう。さすがに本物の砲弾を使うわけにはいかないから、鳴り響いた警笛が砲撃音の代わりというわけだ。
あらかじめ予告されていたが死亡した場合はペナルティが課せられる。もちろんみんな大好き『腕立て伏せ』だ。回数は死亡1回につき腕立て伏せ5回。うへぇ……。
え? けっこう楽じゃないかって? ちなみに背嚢は背負ったままでやらされている。オレに荷物を押し付けてきたやつらだ。あははっ、あいつら、ざまあ!
しかしながらみんなの倍の荷物を背負っている状態のオレが、あんな鬼畜腕立て伏せなんてできるはずがない。油断しないよう慎重に動かねばなりますまい。
案の定、今度は空砲を使っての威嚇射撃が聞こえた。
タタタン、タタタンという連続した音。三点射、三点射……で、お次のこれは連射か。空砲とはいえハデにばらまくなあ。
それは意外なほど軽い射撃音だった。屋外だと音が反響しないからだろうか。屋内の射撃場で実弾を撃ったときはズドンと腹に響くような発射音だったのに。
そんなことをぼんやりと考えるほど余裕が出てきた。よしよしオッケー、オレはまだまだクレバーだぜ。
「おらぁ! 頭たけえぞっ! もっと下げろぉ!」
「かかとを寝かせろって言ってんだろうがぁ! 鉄砲玉くらいてえのかっ!!」
教官たち助教たちの怒声が響く。
この想定は『混乱する部隊がさらに奇襲を受ける』といったところか。こういうのは焦ったら負けだ。ヘタに動くな。まだ大丈夫だ。落ち着けオレ。
オレはそのまま地べたに伏せる。実はただ大荷物に潰されて動けない状態だが、これくらいの負荷ならなんとか耐えられる。逆に堂々とうつ伏せで寝っ転がれるので、今のうちに呼吸を整えて体力を回復させたい。
「てめえら! ぼさっとしてんじゃねえっ!! 道のど真ん中でいつまでもオネンネしてんじゃねえぞ!」
「んなとこじゃ狙ってくださいといってるようなもんだぞぉ! 森へ入れ! 森へ!」
ふたたび教官たちの怒声。
やっぱり伏せただけじゃダメらしい。ここじゃない安全地帯に移動しなくては。でも立てば撃たれる。でもでも森に移動しなければ撃たれる。
ならば移動方法はひとつ、『ほふく前進』だけだ。オレは伏せたままの状態で動く。まず肩に吊っていた小銃を外す。もちろんやりづらい。そして眼前に持ってきて、両手で握り直した。これで準備よしだ。
前進を開始する。両肘と両膝から下だけを使って前進する『第四ほふく』だ。ほふく前進と聞いて誰もがパッと思い浮かぶあの格好だ。
オレは森へ向かってズリズリと必死に移動する。上がりやすい頭やかかとに気をつける。銃口を地面に突っ込まないよう気をつける。どちらも教官が口をすっぱくして言い聞かせてきた注意点だ。特に銃口に土を詰まらせたら教官が大激怒するであろう。
「蛇塚ァ! てめえバカヤローッ! いつまで背嚢を背負ったままで――――――」
『――――――――――――ッッッッッッ!!』
唐突の激震。天地がひっくり返った。
教官の声も自分の叫び声もかき消された。
オレはそのまま抵抗もできずに吹っ飛んだ。