虫から僕、そして妹
時刻は深夜。父さんは仕事でいない、母さんは酒に酔ってほとんど酩酊の域にある、妹はと言えばその母さんに振り回されて、中学受験生であるのに本日の勉強に大して手がつかず、ついに疲れ切って僕の部屋の万年床にうつ伏せになって顔を埋めている。染み着いた汗の臭いへの嫌悪感よりも、精神的にも肉体的にも己を取り巻く倦怠感の方が勝るらしい。
僕は、体面上、机に就いている。勉強をしている振りをせねばならない。妹とは違って、しまりなく夏休みを送る僕は山のようにある宿題を全く進めていない。そのことは家族みんなに知れている。そして、とりわけ妹は自分が宿題を終えたことをひけらかすようにして、このごろ僕に宿題をやるように、なぜか催促してくる。今、何してるの。うん……準備。何の? 部活の。学校の宿題、それ。いや……違うね。宿題どれくらいやったの? ちょっとかじった。だったら今何するべきなの! 兄貴。
普段は兄貴なんて呼ばないのに、優位に立っていると思って気取っていやがる。
とにかく「振り」をして、自室のドアを開けて中を見られても、そこからは死角になるところで、ゲーム機の様々なボタンを熱心に操っていた。
そこへ母さんとの激論を終えて悄然とした妹が入ってきたのだ。いや、誰が入ってきたのかは僕には重要ではなかった。何者かが入ってきたということそれ自体が重要だった。すぐさま机の脇に積まれた数枚のプリントを取ると、ゲーム機の上に被せた。ふう、当面の安堵は確保した。そして、右斜め下へと目を向けると僕の布団に妹が寝ていた。一番近くには黒い頭があった。大変だったな、と少し思ったが、早く出ていってくれないかなという思いが強かった。けれども、今回は同情の念が含まれているからか、何も言わず、かすかな緊張感の中でプリントの文字を、視界の端がぼやけて、奥の方に鈍い痛みがある目で、粗く辿った。でも、書いてあることの意味が分からなかった。読めなかった。
座っていて肉の寄った自分の腹を見る。そうだ、上を脱いでいたな、そう言えば、と思う。こうした状態が、この冷房の効いた部屋では丁度いい。人は全能ではない。人の意識にも焦点というものがある。つまり、大抵の物事は意識の外に葬られているということだ。
産毛を少々超えた程度の毛が腹を覆っていて、特にヘソの周りが一段と濃くなっている。色は澱んだ肌色、別段焼けている訳ではない。黄土色で薄い生地のズボンから一センチくらいはみ出た、赤と青と白の色が受け取れるチェックのトランクスに、腹がほんの少しだけ乗っている。
そうして俯いていると、机に載せた右腕にきわめて局所的な痒みを覚えた。部屋を締め切っていても蚊はいるもんだ、と頭の片隅で思って、目を移すと、違う虫が、肘のくぼみより五センチほど手に近いところに脚を着け、緩慢に動いていた。大きさは同じでも、色は褐色だった。それに堅い羽根を持ち細長かった、小さな昆虫らしい。観察の間を持たせた後、さっと左手で払い退けた。どこにいるのか分からなくなった。
またプリントを見つめる。少しは読めるようになった。球の体積の証明が書かれていることは把握した。
トランクスのゴムが触れているはずの肌の一部に痒みを感じて、見るとそこにさきほどの虫が挟まっていた。右の人差し指と親指で丁寧につまみ出し、それを机の真上に持ってきて、そのまま指先に力を込めた。しかし、虫の滑らかな体のせいで上手くつぶせなかった。机に落ちた。ひっくり返ってもがいている。今度は長い親指の爪を使うことにした。何度か失敗して、ようやく腹を潰した。体と同じ褐色の中身がその腹から出てきた。虫はひっくり返ったまま起きあがることが出来ず、暴れている。ただ、頭の向きだけが、少しずつ回転することで、変わってゆく。僕はしみじみと見ていた。虫の死に目を見届けるためだけに費やす、この殆ど無為に値する時間が、どこか心地よかった。しばらくの間、詳しくはおそらく三十秒間(僕にはこれが妙に長く感じた)、虫は決して脚の動きを休めなかった。こんな生命力が果たして人間にあるのだろうか、どうせ直ぐに激痛に気を失ってしまうに違いない。そう思っていると、虫の動きが時折鈍るようになった。もう仕方ないか、と考えて、人差し指で押しつぶそうと押さえ込むと、指と机との間からするりと抜けて、僕の指の力で虫は、脇の崩れたプリントの山の隙間に飛ばされていった。プリントがそのままの状態を保つように持ち上げて見ると、虫はゆっくりと動いていた。もうすぐだった。内蔵がはみ出ていても、虫は懸命に生を示していた。例えば通り魔に刺された時、我々はどこで諦め、我が身を死へと委ねるのだろうなどと、思索する暇がある怠惰な人間よりも、遙かに強堅だった。
ぴたりと動きを止め、虫が生を手放した時、僕に半透明の虚無感が下りてきた。心は体のどこにあるのか、という問題と根本的な部分で繋がっているような、つかみどころのない虚無感だった。確かに存在しているが、その具体性を求められると説明がつけられないのだ。
何か声を出したくなった。ハイトーンで奇声を上げて、床にあるリュックサックの中の教材を探る真似をした。妹がむくむくと起き上がり、下に降りるのが嫌だな、と呟いた。一階のリビングには、酔っぱらっておそらくソファで寝てしまった母さんがいる。僕はプリントの証明を読んでいる。証明の意味を理解した。勉強になった。妹はドアを開け、出ていった。