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13時00分 E棟




 瀬灯は病室で目を覚ました。体調は最悪で、呼吸の拍子に噎せると栄養素が抜けきった透明な血液の塊を吐き出した。癖のようにナースコールを引き寄せた瀬灯だが、はっとしてその手を止め、ベッド脇の柵を掴んで立ち上がる。じわりと頭に痛みがのたくるのを気合いで耐え、一歩二歩、足を踏み出し病室を出る。痛みと痺れが全身にのし掛かってきて、手を持ち上げるのにも大変な重さを感じる。身体のあちこちに感覚がなかった。壁伝いに進む。数メートルの距離が、数十キロにも思えてくる。それでも、今は命より大切にしたいことが瀬灯にはあった。

 ノックをするのが辛いので身体全体で扉を揺らすと、すぐに開かれた扉から、ひょっこりと彼の姿が覗く。視線が交わるなり、彼は「失礼」と言って瀬灯を抱き上げ、室内のベッドに下ろした。

「一応病院暮らししてる俺でも持てるって……君、軽すぎだろ」

「ごめんなさ……っ」

 言いかけて噎せる。一つ咳をする度に臓腑に響いて、尋常でない不快感が瀬灯を苛む。一瞬、胸に刺す痛みで意識が飛びそうになるのを、貴弥が無言で支えた。下手な看護師よりも対応が早いな、と瀬灯はうすぼんやりした頭で考える。

「なんか、言いたいことあって来たのか?」

 貴弥は顔こそ歪めたが、時間がないのは一目瞭然であるために、余計な言葉は口にしない。瀬灯も、吐息に近いような声ではあったが、すぐに話し出す。視線だけは持ち上げ、嫌いな白を睨むように見据えていた。それはとても弱々しく、強い、彼女の“終末の過ごし方”である。

「…………私は、生きてた……」

「あぁ」

「……生きてた」

「うん」

「たぶん、世界も……」

「……」

「つらいの、いっぱい、いっぱいないと、幸せになれない。幸せになれても、いっぱい、つらいのを抱えてなきゃいけない。どうしようもない……それで生きて、それで、死んでいくん、だから」

「結論か?」

「うん……認めて、ほしいの。存在してた、ってだけのこと……」

「あぁ……」

「…………川原さん」

「なんだよ」

「よく生きて、よく、死んでね……」

「……あぁ」

 蚊の鳴くような声で語った彼女に答えながら、貴弥はナースコールを押した。バタバタと、駆けつけてくる看護師の足音を耳にした刹那、彼女はその両目をゆっくりと閉じる。白い世界が薄れれば、呼吸がすぅっと和らぎ、ゆるやかに遠退いてゆく。貴弥はその瞬間を、目を逸らすことなく見届け、そしてまた彼も目を閉じる。胸の前で、静かに両手を合わせた。

 11月のある日のこと。ある少女が、世界の理をあきらめ受け入れた日のこと。ひとつの身勝手な生と死が、知れず幕を閉じたのである。



 同時刻。小さな文が記された黒板の眼前で立ち尽くしていた少女が、強烈な違和感をもって自らの両手に視線を落とした。

 そして呟く。

「あれ、私……なんでお弁当箱、2つ持ってるんだろう?」

 首を捻り、なにかないかと眼前の黒板を見やるが、そこにもやはり何もない。彼女はただ自身の手にした普段使わない弁当箱を不思議げに見つめ、やがて考えることを諦めたのか、双方を自席の脇にぶらさげてある鞄の中に仕舞い込んだ。その隣の机は、もう何ヵ月も使われていない空席である。数か月前までは、ずっと学校に来ない誰かが在籍していたそうだが、もうとうに学びを辞している。彼女は、かつて空席の持ち主だったそのひとの名前さえ知らない。

 そうしてこれまた可笑しなことに、彼女の昨日から現在までの記憶が、どうにも曖昧になっているようだった。何かして過ごしていたとは思うも、何をして過ごしていたのかはぼんやりとして、定かではない。まあいいか、と彼女は完全に思考を放棄する。どうせ馬鹿な自分のことだ、特に何もしていなかったに違いない。

 と、昼休み終了五分前のチャイムが鳴る。

 午後の授業の開始に気だるさを隠しきれずに、彼女はあくび一つと共におもむろに自席につく。

 11月のある日のこと。何気ない日常が、何事もなかったかのように始まった日のこと。違和感は、午後の眠気に押しやられて、いつのまにやらどこにも見えなくなった。



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