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木場の家には、彼女と思われる女の子が居て、
下着かと見間違うような格好のまま、玄関先に出てきた。
僕を訝しげな顔で上から下まで眺めた後、
おもむろに携帯を取り出した。
木場につながったのだろう、彼女の口から出た言葉は、
「なんかキモイのが来てるんだけど」だった。
本人を目の前にして、それは暴言としかいえない。
彼女はおかまいなしで機嫌の悪い声で話し続け、
「すぐに帰ってくるって」と言い放ち、
バタンとドアを閉めた。
僕が木場を訪ねたのは、少し前に
彼と交した会話を思い出したからだ。
「付き合ってる彼女がいたとしてな」
作業所からの帰り道、木場は電車の中で突然に切り出した。
夕方の車内は、まだそれほど混み合ってもいなくて、
僕たちは並んで座っていた。
ああ、また自慢話が始まったかと思いながらも、
僕は黙って耳を傾けた。
「例えば、まだ付き合って半年とかってレベルなのにな」
木場の表情はいつもより少しだけ真剣だった。
「妊娠したって言われたら、どうする?」
「えっ?」
「例えばの話だよ」
こんな僕にだって付き合っていた女の子がいたこともあるし、
豊富とはいえないまでも、そういう経験は
なんどかある。
でも、だから男はずるいんだと言われそうだけど、
ちゃんと避妊をすれば大丈夫だと確信していた。
妊娠の事なんか考えたこともなかったのだ。
「それって…避妊してなかったってこと?」
「知らねえよ」
木場は吐き捨てるように言った。
例えばの世界を話すのは、難しい。
「出来ちゃったら、産むかおろすしかないと思う」
僕は言葉を繋げた。
木場は眉間に皺を寄せて僕をにらむように見た。
「んなこと、わかってるよ」
会話はここで終わった。僕に何を聞いても無駄だと
思ったのだろう。それっきり木場は下を向いて、
眠ったふりをしていた。
僕はどう答えたらよかったのかと、ひとりで悶々とした。
「逃げちゃえよ」
かな?とも考えたけれど、学生の身でどこに逃げるというのだろう。
「俺じゃねえよって言えば?」
かな?とも思ったが、DNA検査をしたら、
すぐに判明してしまうだろう。
「僕なら」
僕は口を開いた。木場は鬱陶しそうに顔を上げ、僕を見た。
「僕なら…謝る…かな」
「はあ?」
木場が心から馬鹿にしたような声をあげた。
「あのな、世の中にはごめんなさいですまねえ事が
いっぱいあんだよ」
「でも、今の状態で結婚して親父になるのが無理なら、
謝るしかないよ」
相手にならないというような表情を浮かべたまま、
木場は次の駅で降りた。
その時は、人に聞いておいて、そういう態度をとった事に
腹がたっただけだったが、
愛ちゃんの話を聞いて、もしかしてと思った。
もしかしてと思いたかったから、強引に思い出したのかも
しれない。
それからずっと僕の頭の中では、
「逃げちゃえよ」「俺じゃねえよ」という
声がこだましている。
同時に「自分がやった事に向き合えよ」「お前だよ」という
声も聞こえる。
だから僕は、真実を見つけなければならなかった。
たどり着いた先が、どうであろうとも。
外階段の下で待っていると、
それほど時間をおかずに、木場が息を切らして戻ってきた。
苦しそうに身を屈めて息を整えてから、
顔をあげる。
「一緒に来いよ」
香田さんと喫茶店にいたのだという。
なんで香田さんが木場のところに?
僕は香田さんの分厚いメガネの下から浴びせてくる
視線を思い出して、身震いをした。