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その青年、中野大輔君は私の大学の後輩で、
去年の秋ごろから、
ボランティアとして働いてくれています。
細身で色白で、ナイーブな印象ですが、
誰とでも真摯に対峙する、
今時珍しいしっかりした青年だねと
職員の間では高く評価されていました。
促されるままに私の隣に腰をおろした中野君は、
黙ってうなだれていました。
「話してちょうだい」
私はなるべく穏やかに言いました。
「…僕…僕はその…」
絞り出すような声は、震えています。
「愛ちゃんのことだよね」
中野君は深くうなづきました。
短く切られた髪は黒々としています。
昨日はもう少し長くて、
確か少し茶色がかっていたはずです。
きっと染め直してきたのでしょう。
「…どうしたら…いいんでしょうか?」
中野君は、困り果てた目で、
おそるおそる私を見上げて、
それから愛ちゃんのお母さんに目をやりました。
愛ちゃんのお母さんは、中野君の顔を
じっとみつめました。
「あなたが愛子の?」
中野君は少しだけ首をかしげて、
吐息をもらしました。
「本当は、よくわからないんです」
私と愛ちゃんのお母さんは、また顔を見合せました。
「一度だけなんです…それに」
「それに?」
言葉に詰まった中野君に、私は少し焦れてきました。
「…その…最後まで…あの…いかなかったと
思うんです」
途切れ途切れに中野君は、その日の様子を話してくれました。
7月の始めごろ、作業中に入所者が指を切断してしまう
事故があった日のことです。
あの日は、作業所開設以来初めての大きな事故で、
職員が皆、あたふたしていました。
土砂降りの中、私は警察に出向いていました。
記憶がはっきりしませんが、
中野君の話によるとその間、
彼は愛ちゃんと喫茶に二人きりに
なったようなのです。
そこで、そういう事になってしまったと、
いうことでした。
彼が嘘をついているようには思えませんでした。
彼の言うことが本当だとすれば、
万が一、行為がなされていたと仮定しても、
月数が合いません。
愛ちゃんが恋うたを綴るほどに
好きでたまらない「恋人」は、
中野君ではないと思われました。
でも、私は中野君にも猛省を促さなくてはと
思いました。
「責任取れる?」
私は心の中を見透かされないように気をつけながら、
冷静な口調で、中野君に問いかけました。
中野君は、またうつむいてしまいました。
自分ではないと思いながらも、
もしかしたらという気持ちもあって、
この場に来たのでしょう。
まだ20歳の大学生が、
私がつきつけた「責任」という言葉の重みに、
たじろぐのも無理はありませんでした。
時計の音だけが大きく響いていました。
「愛ちゃんと、話がしたいんですが」
少し落ち着いたのか、決心をしたのか、
中野君は、また私に目を向けました。
「愛ちゃんはね…」
私の言葉を愛ちゃんのお母さんが遮りました。
「愛子は誰にも会いたくないって言ってるんだけど」
お母さんは、中野君の顔をじっと見て、
少し微笑みました。
「あなたの事、話してみるわね」
明日もう一度話をする約束をして、
中野君を帰しました。
何度も頭を下げながら部屋を後にする中野君に、
私は10年前に別れたある人を重ねていました。
その人は30を少し過ぎた、
ごく普通の営業マンでした。
出会ったのは私がまだ10代の頃。
大学に入る為に上京してきたばかりの
何も知らない田舎者だった私には、
彼の大人びたスタイルや言動が、
眩しいばかりでした。
そんな私を彼は本当はどう思っていたのか、
今となっては、
ただの目新しいおもちゃだったのだと
感じています。
彼に妻子がいるとわかった時、
あまりの衝撃に泣きじゃくる私を、
彼はただ黙って抱きしめました。
そして私の頭を撫ぜながら言ったのです。
「ごめんね」
世の中にこんなに残酷な「ごめんね」が
あるということを、
その時に初めて知りました。
たぶん中野君も愛ちゃんに同じ台詞を言うのではないか、
私はそう思いました。
愛ちゃんはその「ごめんね」が
きっと直観的にわかると思うのです。
やっぱりもう会わせてはいけない…
でも、愛ちゃんのお母さんの意見は違ったのです。