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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編作品

快楽スイッチ

作者: あさままさA

「――快楽、スイッチ?」


 眼前、目尻にくっきりと刻まれた皺が印象的な老婆の語った聞きなれない語句を、私は反芻するように口にして問いかける。


 見上げれば月明かりに輪郭を描かれて残留した雨雲が星々を背景に漂う夜空。歩けば地表に薄っすらと残った雨水が足音にぴちゃぴちゃと水音を付随する。日付が変わった頃だと思われる時間帯、飲み屋街の路地裏にて一人の老婆が包みを広げて座り込み――そう、それは明らかに何らかの商品を販売している光景だった。


 見るからに怪しげで――そして、品物さえも面妖な一品。


「そうですよ、快楽スイッチ。これは知能を持ったがために必要以上のストレスを抱え込む事となった人類にとって、新しい解放を導く画期的な商品なのですよ」


 老婆は私の問いかけに対してしゃがれた声で答えると、薄っすらと不敵に笑んだ。


 ビルとビルの狭間、ネオンと月光の屈折した反射によって直接的ではない輝きでぼんやり照らされた老婆。顔の皺に孕んだ影が、木像に刻まれた彫り痕のようで不気味な雰囲気を誇張している。


 とはいえ――快楽スイッチ、か。


 一件、テレビ番組の出演者が回答権を行使する際に叩き押すボタンに似た外見をした奇妙なスイッチ。こんな所で老婆がこのような物を販売している意味や意義は分からないが、商品も何だかネーミングからして胡散臭い。


押せば何らかの音声がなったり、ボタン電池で動いていたりするのだろうか……などと勝手な妄想を働かせつつ、試しにボタンを押してみようとする私。


 しかし――。


「――あぁ、いけませんよ! 取り返しの付かない事になる」


 老婆はしゃがれた声質をそのままに、声を高くして私の挙動を制する。


「取り返しがつかない? どういう事だ」


 私はそう語りつつ、手を差し出して商品を取り戻そうとする老婆に快楽スイッチなる奇妙な商品を返却する。


「このボタンを押すと、全身におおよそ人間が感じた事もないような快楽が駆け巡るのですよ。ストレスを解放するには快楽が一番――しかし、節度を守らぬ快楽が身を滅ぼすのは人間、よく知っているでしょう?」


 老婆はしたり顔を浮かべて私の瞳を覗き込みつつ、どこかシニカルに語った。


 妙に薬物を彷彿とさせる話である。酒や煙草といった嗜好品を超越した先に、驚異的な依存度を持って人間を快楽の渦に落とし込む麻薬――性質は何だかそれに似ているような気がする。という事は――老婆の語る快楽スイッチの概要は実に眉唾でありながら、もし本当だとするとそのボタンを押す事で体を駆け巡る快楽から抜け出せなくなるということだろうか?


 つまりは――。


「中毒性――というわけか」


 私がそうぽつりと独り言としての納得を漏らすと、その言葉を拾った老婆は軽く首肯しつつ「そうでございます」と言った。


「このスイッチを押した人間は必ずや、快楽を何度も求め続けて二度三度では効かなくなるのです。このように第三者が存在する場合においては助けようもございますが、一人でボタンを押された場合には恐らく――疲労死するまでボタンを押し続ける事になるでしょうねぇ」

「なるほどな。快楽はすべての懸念や意識を凌駕する――疲労も、死の恐怖も、苦痛も、苦悩も、というわけか」

「左様でございます」


 老婆の話を聞き、私はその快楽スイッチというものが実際に効力を持つのであればどれだけの可能性が見出せるのかを考えていた。


 例えば、何故人間に適用出来るのか未だに判明していない全身麻酔。これの代用として快楽スイッチを適度に患者へと使用する事で手術を麻酔無しで行い、その後の体への負担を軽減できるのではないか。


 逆に安楽死という意味合いで世の中にこういったものが復旧すれば、自殺を促進させる結果になり兼ねない。――とはいえ、適度に使用する環境を整備できれば寧ろ、ストレスから解放された事による自殺率の低下も期待できるのではないか。その分、満たされる事で人々が夢を持たなくなる可能性もあるけれど。


 あくまで即席で私が推測したものであり、確証や裏付けはないものの……しかし、可能性は多岐に渡った商品だと確信した。


 ――欲しい。


「老婆よ。見た所、この商品をここで販売しているようだが――これは幾らで売り出しているのだ? 私はこの快楽スイッチに途方もない可能性を感じた。これは今に人類にとって必要なものとなる。売ってくれ!」


 私は興奮によって乱れた呼吸を抑えつつ、老婆に申し出た。

 しかし――老婆は意地悪に笑んで、首を横に振る。


「あなたのようなサラリーマンではとても買えるような代物ではありません。安月給のあなたが一年、その給料の全てをつぎ込んだって私は満足しません。きっと首を横に振るでしょう」


 老婆の私を軽視したような物言い。

 けれど、私はそんな老婆の言葉に一種の賞賛を感じていた。


「ならば金銭で払うのはよそう。しかし老婆、貴様が私の説得によって――同意すれば問題はないだろう?」

 そう言って私はスイッチを抱えている老婆の手を握り、強くぐっと力を込めた。


 それはもう――老婆がボタンを、押してしまうくらいに。


 ボタンを押してしまった瞬間に老婆は目を見開き、その事実に気が付くも――もう手遅れである。


 瞬間――老婆の体を駆け巡った快楽が全身を包み込み、口を半開きに白目を剥いて恍惚の表情。体をわなわなと震わせ、しかし手はしっかりとボタンを連打している。快楽に溺れて脳内が真っ白になっているであろう老婆は、しゃがれた声質に甘え吐息を交えて悦楽の具現たる喘ぎ声を仄かに漏らし始める。


 ……正直、このような老婆の喘ぐ声を聞きたくはないのだが、それでも一定の快楽を与えておく事がこの取引において重要となるだろう。


 私は数分、その光景を見つめると、老婆から快楽スイッチを取り上げる。


 すると、突如として快楽から解放されてしまった老婆は息荒く、呼吸を整えつつも一心に私の手にある快楽スイッチを蕩けたような半開きの瞳で見つめ、何かを言いたげにする。しかし、乱れた呼吸が邪魔して言葉にならないようだった。


 しかし――私は老婆の言いたい事を聡くも知り得ている。

 なので問いかける。


「快楽の続きが欲しいか? 欲しいならば――このスイッチを寄越せ」


 私が醜悪な笑みを浮かべて問うと、老婆は食い入るような勢いで首肯してスイッチに手を伸ばした。しかし、私は譲渡の意思を確認したため、快楽の延長を求める老婆の悶える姿を背に歩き出す。強奪しては泥棒だ。なので、あくまで許可を得るために与えた快楽であり、老婆の物でなくなった現状――もうくれてやる必要もあるまい。


 それにしても――人間というのはもっと単純で、簡単なものだ。


 麻酔? 自殺を軽減?


 そんな用途のための道具ではない。

 私は老婆の反応を思い返し、確信する。


 この快楽スイッチは誰かの役に立つためのものではなく、もっと猟奇的で、非人道的な代物――そう、拷問道具なのだから。

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― 新着の感想 ―
[一言]  感想、おひさしぶりです。ラストの描写にもうひとひねり欲しいかもと思いました。少しあっさりしすぎかなと。もうちょっと工夫の余地もあり、残念かなと感じました。  けれど、タイトルがよかったです…
[良い点] 快楽とは、娯楽性だけではないといいますか。 人によっては快楽にもなり拷問でもありますね。 特に、女性は好き嫌いもあると思います。 なんてことを、色々考えてしまいました(笑)
[良い点] タイトルにつられてきちゃいました。面白いですね、続きとかあったらまた読みたいです!
2015/08/21 21:05 退会済み
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