1話 悪魔に取り憑かれていました
俺は飛び退いた。視線の先にいるのは、一人の男。だが、人間ではない。背中に真っ白な翼を生やし、悠然と佇んでいる。傍らの悪魔が舌打ちした。その反応で俺は確信する。あれは天から使わされた悪魔の敵、天使なのだと――』
そこまで打ち込んで、私は顔を上げた。パソコンから視線をそらし、ぼんやりと天井を仰ぐ。
「うーん、ベタな展開のせいか上手く書けないなあ」
誰に言うでもなく、私は独りごちた。
私は趣味で小説を書いている。技術が拙すぎて、小説と呼べる代物ではないのかもしれない。ともかく架空の物語を文字にして書き留める作業が好きだ。でも今は疲労感が押し寄せ、これ以上は文字を打ち込む気になれない。壁に掛かった時計を見やる。時刻は夜の11時を回ったところだった。作業を切り上げるにはちょうどいい。
立ち上がってベッドに倒れ込む。一人暮らしのワンルームだ。パソコンのある机と数歩しか距離がない。束ねていた髪をほどき、部屋の明かりを消す。枕に顔を埋めると、いつしか私は眠っていた。
暗い。ああ、そういえば明かりを消してたんだっけ。はっきりとしない意識でそれだけは思い出す。
「リー……とめあげろ。あとは………げなき……が」
男性だろうか、低い声が聞こえる。はっきりとは聞き取れなかったが、私は言葉を理解していた。
「まえ……ちびく。夢から覚めたときには、また」
ぬくもりが頬に触れた。優しい力で撫でられる。……ん? 撫でられている?
私は一気に覚醒した。反射的に頬に手を伸ばす。私の手は自分の頬以外には何も触れなかった。同時に撫でていた気配も消えている。目が覚めたばかりなのに心臓が早く脈打っていた。深呼吸して思考をめぐらせる。今のは夢の感覚だったのだろうか。それとも、誰かがいるのだろうか。つい最悪の事態を想像してしまう。状況を確認すべきか一瞬迷ったときだった。
「起きてしまったか」
先ほどと同じ男性の声が降ってきて、心臓が止まりそうなほど驚いた。まさか、そんなはずはないと期待しつつ、素速く体を起こす。部屋は相変わらず暗かった。けれどカーテンの向こうの光が枕元の人影を浮かび上がらせている。
私は目を疑った。私は一人暮らしで、誰も同居していないし誰も泊まらせていない。玄関も窓も鍵は閉めたはずだ。だから他人がいるなんてあり得ない。きっと目の錯覚だ。そう信じたくて、私は照明のリモコンを操作した。
部屋が明るくなる。慣れぬ明るさに一瞬めまいがした。数回瞬きをして枕元を見ると、やはり人影はそこにあった。浅黒い肌に真っ黒な髪の毛。そこそこイケメンの見知らぬ男だ。背中を丸めてこちらを見ている相手は、普通な感じではなかった。まず、頭から牛のような角が2本生えている。背中には黒い翼みたいなのがついているし、左肩から胸にかけて羽根飾りを付けていた。
「だ、誰ですか!? どこから入ったんですか! け、警察呼びますよ?!」
「え?」
すぐに距離を取り、警戒の目で男を見る。男は何故かきょとんとしていた。変な侵入者だとは思ったが、安心はできない。ともかく警察を呼ぼう。私は男を観察しながら電話に近づこうとした。
だが、どういうわけか私の体は動かなかった。力を入れても見えない何かに押さえつけられているように、体を動かすことができない。金縛りというやつだろうか。そんなことを考えていると、男が近づいてきた。間近まで来て、指で顎に触れられる。何をされるのかと全身に恐怖が走った。
「やはり、俺が見えているのか」
確認するように男が言う。私は言葉の意味を理解できなかった。不意に呪縛が解ける。私はその場に座りこんでしまった。体は動かせるようになったものの、何をすべきかわからない。黙っていると男は私に向き直った。
「誰か、と問うたな。答えよう。俺は悪魔だ」
そう言って、男は背中の翼を広げる。私は男の答えに呆気にとられていた。悪魔だ、なんてどこからか電波を受信しているのだろうか。それともコスプレイヤーで悪魔になりきっているのか。どっちにしても危ない人に間違いない。
「いやいや、悪魔って、ありえないでしょ」
混乱を通り越して冷静になり、ジト目で男を見つめる。悪魔だという男は意外そうに瞬きした。
「なんだ、お前は悪魔を題材にした小説を書いているのに、悪魔の存在を信じてないのか」
なんで私の趣味まで知っているんだ。余計に腹が立ってくる。
「私が何を書こうが私の勝手だよ。だいたい、本当にいるって信じてたら小説なんか書かずに召喚の儀式でも始めてるっての。そうじゃないから悪魔が存在しうる小説の世界を生み出してるのに」
「なるほど、それもそうか」
男は意外とあっさり納得した。話が早くて助かる。って、そんなこと考えてる場合じゃない。
「とにかく、出てってください。本当に警察呼んじゃいますよ?」
私は立ち上がった。早くこの侵入者を追い出してしまわないと。警察を呼ぶと脅しても、男は出ていく気配がなかった。平然とした顔で私を見つめている。これは本当に呼ばないとだめか。私はまた電話を手に取ろうとした。
「無駄なことを」
私が見ている前で男の姿が消えた。と同時に誰かに腕を掴まれる。振り返ると、あの男が私の背後に回っていた。突然の出来事に、一瞬頭の中が白くなる。男は瞬間移動でも使えるのだろうか。とても人間業とは思えない。
「少しは信じる気になったか?」
男に問われ、私は小さく頷いた。
「少なくとも、人間じゃないってことは認める。悪魔であるという確証はないけど」
「素直じゃないな、お前」
悪魔という男はため息混じりに言った。腕が解放され、私は少し前によろける。何とか立て直し、悪魔を振り返る。
「で、その悪魔が私に何の用?」
悪魔だというのなら、私の魂が欲しいとかそんなところだろうか。でも私は悪魔に叶えてもらいたい願いなんてない。ただの人間として暮らしていければ十分だと思っている。男はすこし困ったように眉をひそめた。
「勘違いしているようだから言っておこう。俺は今ここに来たのではない。6年ほど前からお前に取り憑いているのだ。何かの影響で俺の姿が見えるようになってしまったから、お前にとっては今現れたように思えるがな」
男の言葉に私は息を呑んだ。6年前といえば、私が中学生だった頃だ。取り憑く期間としては長い気がする。それだけの間悪魔に取り憑かれているなんて、考えてみたこともなかった。
「ちょっと待って。私は今まで真面目に健全に生きてきた。犯罪だってやってない。6年も悪魔に取り憑かれてた割にはおかしいじゃない」
取り憑かれていたのなら、なにか異常な行動をしているはずだ。でも私は異常なことをした覚えはないし、誰かにとがめられたこともない。やはり相手が悪魔であることを疑いたくなる。私が見ていると、男は憮然とした顔をした。
「なにも犯罪を起こさせるだけが悪魔の仕事じゃない。人間の欲望をかき立て、苦痛と快楽の道に進ませること全てが管轄内だ。どんな行動を取らせるかは悪魔の種類による。俺の場合はたまたま人間の定める犯罪には含まれない行動だった、それだけの話だ」
男はそう説明した。犯罪を起こされないというのならありがたいけれど、じゃあ一体こいつは何の悪魔なんだろう。私は特別苦労したことも、強い欲もないはずだ。
「思い出せ。6年ほど前から始め、つい先ほどもお前がしていたこと。それが答えだ」
男は私の耳元でささやいた。かかる吐息にぞくりとしたが、すぐに記憶をさかのぼることに集中する。
さっきしていたことと言えば、眠ることだ。睡眠欲は三大欲求でもあるから、欲望の一つであることは間違いない。でも睡眠は生まれたときからの行動だ。6年前という時期とは関連性がない。とすると、それ以外のこと。眠る前にしていたことは――
私の中に電流のような思考が走った。同時に間違いないとの確信も生まれる。眠る前にしていたこと。そして6年ほど前から始めたこと。どちらにも当てはまる行動が一つだけ思い浮かぶ。
「そう、今お前が考えていることが正解だ」
男はにたりと笑った。その顔を見て、ふと疑問が浮かぶ。私はさっきから何も喋っていないのに、どうしてこの男と会話が成立しているんだろう。
「俺は悪魔だからな。お前の心を読むことなど造作もない」
「って、やっぱり心を読んでたんかいっ!」
つまりこの悪魔には私の妄想やらなにやら全部お見通しのようだ。恥ずかしすぎる。
「……何を今更。俺は6年前からいると言っただろう。それより、俺の正体を言ってみろ」
苛立つ声に急かされた。気を取り直し、私は男に向き直る。
「つまり、私に小説を書くよう、こっそりそそのかしていた悪魔があんたね?」
確認するように語調を強めれば、悪魔は満足げに頷いた。
「そういうことだ。正確には欲望をなにかの創作活動に向けさせる悪魔だがな」
悪魔はそこで一度言葉を止めた。狭い部屋の中を優雅に歩き、見せつけるように背中の羽を広げる。
「自分の意見を広めたい、多くの人に認められたい。そういった自己顕示欲は誰しも持っているものだ。あるいはもっと純粋に、こんな物語が読みたい、こんな人物がいて欲しいという理想。それら全てを自分なりに表現するという創作意欲に変え、作品を作るようそそのかす。それが俺だ。お前はそれを、小説という方向に目覚めさせた」
悪魔は自慢げに語った。著名な芸術家の何人かには自分がそうさせた者もいるのだ、とも言った。私は黙って聞いていたが、何となく腑に落ちなかった。
「人に創作をさせる悪魔だってのはわかったけど、それってあんたは何か得するの? やっぱり最終的に魂を持ってくとか?」
悪魔と言うからには、慈善活動ではないはずだ。何らかのメリットがあるからこそ、悪魔たり得るに違いない。私が尋ねると、悪魔は違うと笑った。
「俺が欲しいのは人間の魂ではない。取り憑いている人間の作品、すなわち今はお前の小説だが、読んで触れた人間が心を動かされると、俺はエネルギーを得られるのだ。読者の感動そのものが、俺の食事ということになる」
最初、その答えは突拍子もないことだと思った。次第に意味を理解するにつれ、自嘲がひとりでに浮かぶ。
「ばかばかしい。私は大した人気もないアマチュア物書きで、人の心を動かすような作品なんて書けるわけないのに」
自虐だったが、半分は事実だった。私の作品は評価されることも感想が来ることも滅多にない。アクセスだってまず伸びない。読者はゼロではないが、多くはない。もっと人気の出そうな人に取り憑こうとは思わなかったんだろうか。男はそんな私の嘆きを見透かしたように笑っていた。
「俺の糧はいい意味の感動とは限らない。マイナス評価でも人の心が動きさえすればもうけものだ」
「何それ。ものすごい駄作で『二度と読みたくない』って思われてもあんたは得するってこと?」
私が尋ね返すと、悪魔は頷いた。
「その通り。駄作でも傑作でも構わん。とにかく作品が作られ続け、他人の目に触れればいい。事実、お前がめげずに書き続けてくれたおかげで、俺は飢えることなく存続できた」
悪魔の言葉はなんとも嫌な響きがあった。まるで私が醜態をさらし続けるバカなやつみたいじゃないか。
「だが駄作よりは良作の方が心の振れ幅が大きいのでな、なるべく良作ができあがるようにささやかな手助けをしている」
悪魔は自信たっぷりに言ったが、私には何のことかよくわからなかった。今までは見えていなかったから、悪魔が何をしていたのか知らない。取り憑かれている間は文章力が向上でもするのだろうか。
「疑っているな? なら、俺の実力を思い知らせてやろう」
言うやいなや、悪魔は私の背後に移動した。優しく耳を食まれ、ぞくりとした感覚が走る。と、唐突に小説の場面が思い浮かんだ。頭を撫でられるたび、イメージが文章となってまとまり始める。これを書きたいという衝動に駆られた。けれどこの衝動に身を任せていいものかとためらってしまう。
「どうした? 今か書かねば書けなくなってしまうのではないか?」
低音が耳に触れる。文字通りの悪魔のささやきだ。時計は夜中の2時を指している。今から書き始めたらいつ眠れるのかわからない。でも、ああ、書きたい。書かないと眠れない気さえする。
結局私は、執筆欲に負けてしまった。パソコンを起動して作品のファイルを開いて。それから後のことはよく覚えていない。確か色々なことを考えていた気がするのだが、よく思い出せないのだ。それくらい夢中で小説を執筆していた。
気がつくと、私の前で作品が形をなしていた。データだから実体はないが、それでも文字として文章として、他人が見える形になっている。私は手を止め、伸びをした。窓の外はほんの少し明るい。何時間か経ってしまったらしいが、私にはほとんど一瞬のことに思えた。
「お疲れ様」
悪魔が私の傍にやってきて、頬に口づけした。その途端、いくつかの感情が湧き起こって私は打ち震えた。書き切ったという達成感と満足感、そして自分だからこそ書けたのだという自己陶酔。それらが快楽となって押し寄せ、私はしばらく放心していた。
この感覚だ。ある程度満足がいくと、いつもこの快楽に飲まれる。クセになってしまいそうなほど気持ちがいい。いや、私はすでに虜になっている。だからこそ、快楽を求めて書き続けてきたのだろう。それが悪魔の仕業だとも知らないまま。
達成感の余韻が消え、冷静さが戻ってくる。同時に疲労感も押し寄せた。これら全てが悪魔の誘いに乗った結果なのだと考えると嫌気がさした。けれど嫌だと思っただけで、振り払える自信がない。というより、振り払いたくない。もやもやした感覚に悩まされていると、隣に悪魔が立った。
「何を落胆している。確かに俺はお前の欲を刺激して作品を書かせたが、それ以外は何もしていない。そこにあるのはお前自身が書き上げた、お前自身の作品だ。それは誇っても良いぞ」
嫌な相手の言葉ではあったが、少し心が軽くなった気がした。気遣って自信を付けさせてくれたのだろうか。それとも私が喜ぶことを計算の上か。きっと後者だ。私が同じ悪魔なら、書きたいと思わせるような言動をするのだろう。
「この、悪魔が」
私は小さく吐き捨てた。悪態のつもりだったが、男は嬉しそうににこにこしている。ただの褒め言葉になってしまったようだ。そのことが悔しくもあったが、疲れているせいでそれ以上は何も言う気になれなかった。
ばたりとベッドに倒れ込む。足も全て投げ出してしまうと、眠気が襲ってきた。うとうとする私の髪を、大きな手が撫でる。
「おやすみ」
優しい手に誘われるように、私は眠りについた。




