あのとき
思い出って、きれいだから残るのかな?
それとも、思い出だから、きれいに残るのかな?
あのとき、確かに、幸せだった。けど、淋しかった。でも、楽しかった。
色んなことがあったから、残ってるのかな…。
大学1年の冬に始めたバイト。そこで彼に出会った。
「立花です。よろしく。」
笑顔が素敵な人だった。
年は20代半ばってところかな。管理職が身に付けるスーツからのぞくチェックのネクタイが、ちょっと曲がってる。なんか、かわいい。
「斉藤みやびさんだっけ。市川が、頑張ってるってほめてたよ。」
立花さんが、私に話しかけてきた。市川さんは、私の指導係の先輩だ。
「そんな…。私なんか…。迷惑かけてばかりで…。」
「最初は迷惑かけて当たり前だよ。」
笑顔で答えてくれる。
「でも、『私なんか』は良くないな。それじゃあ仕事も楽しくならないよ。」
「はい…。」
顔が赤くなる。
初対面の男の人にそんなふうに言われるなんて、なんか恥ずかしい。暗い女だと思われた…?
「なんかあったらいつでも言えよ。」
その後も立花さんは何かと声をかけてくれた。
彼と話す時間は、本当に楽しくて、ドキドキして。
落ち込んでも、あの笑顔に癒される。
こんな人が彼氏だったらいいのに。
いつの間にか、彼の姿を探すようになっていた。
でも、立花さんには、2年程付き合ってる彼女がいるって聞いた。
…憧れてるくらいなら、いいよね…?
アルバイトを始めて3ヶ月が過ぎた。
仕事もなんとか出来るようになり、毎日が充実している。
「この前店長から、『仕事できるようになったな』って誉められちゃった。」
私は立花さんに、満面の笑みで話し掛けた。
「よかったな!最初は失敗して落ち込んでばかりで、すぐやめるんじゃないかと思ったけど、よくここまで成長したよ。」
うんうんと頷きながら、感慨深げに言われて、
「ひど〜い!そんなこと思ってたんですかぁ?私だって、やれば出来るんです。」
ちょっと膨れてみる。
「あはは、冗談だって。よく頑張ってるよ。」
「ホントですかぁ?じゃあ、今度ご褒美に、ご飯おごってくださいよ。」
「わかった、そのうちな。」
「絶対ですよ?あ、でも、彼女に怒られたり、します?」
「大丈夫だよ。」
立花さんの彼女。
どんな人なのか、ずっと聞いてみたかった。緊張に似た気持ちを覚えながら、思い切って問い掛けた。
「あの、立花さんの彼女って、どんな人なんですか?」
いきなり聞かれて、びっくりしたのか、立花さんは
「えっ?」と小さく言って、そしてちょっと考えてから笑った。
「内緒。」
「え〜、なんでですか〜?」
せっかく思い切って聞いたのに。
「みやびちゃーん。」
その時、市川さんの呼ぶ声が聞こえた。
「ちゃんと仕事しろよ。」
そういって私の頭をポンと軽く叩き、立花さんは去って行った。
あ〜あ、結局聞きそびれちゃった。
ホントに彼女、どんなヒトなんだろう。
「みやびちゃん!」
「あ、はい、すいません。今行きます!」
数日後、新しいバイトの歓迎会を兼ねた親睦会が開催された。
上司も先輩たちもお酒が入って機嫌がいいのか、すごく楽しい雰囲気だ。
「斉藤も先輩になったんだし、これからはもっと頑張らなきゃ駄目だぞ。」
店長が私に向かって言う。
「はい。頑張ります。」
「みやびちゃんも、入った頃は、失敗してばかりだったよね。」
「も〜、市川さん、言わないでくださいよ〜。」
まわりにいるみんなが、笑う。
こんなふうに仕事してる人達と飲むのも、たまには楽しいな。
ふと横を見ると、立花さんの隣の席が空いていた。私はビール瓶を持って、立花さんの隣に行く。
「立花さん、飲んでますか?」
立花さんにお酌をすると、
「お前も飲めよ。」
と立花さんも私のグラスにビールを注いだ。
私はそれを一口飲む。
「なんかこういうの楽しいですね。」
お酒を飲みながらの立花さんとのたわいもない話。みんなの笑い声。
なんか、いいカンジに酔ってきちゃった。
あ、あの新しく入った女の子、店長に話し掛けられて緊張してる。
私も入ったばかりの頃は、あんな感じだったのかなぁ。なんかなつかしいな…。
ぼーっと考えていると、立花さんが耳元に顔を近づけてきた。
「この後、どこか行こうか。」
え…?
思いがけない言葉に驚き、反射的に顔を見つめる。
胸が、すごい早さで音をたてた。
からかわれてるわけじゃ…、ないよね?どうしよう…。顔が赤くなる…。
「は、はい」
それだけ言うのが精一杯。
何、今の…、どういうこと…?もしかして、立花さんも私のこと…。でも、立花さんには彼女がいて…。
頭が混乱する。
ドキドキが止まらない。
立花さん、
『どこか行こう』て…、
それって…、
どういう意味ですか…?
「みやびちゃん、ラーメン食べに行こう!」
会場から出ると、市川さんが腕を組んできた。
「太るかなぁ。でもたまにはいいよね!」
どうしよう…。この後は立花さんと…。
私は立花さんの姿を探す。
すると立花さんも市川さんの近くによってきて、
「やっぱ飲んだ後はラーメンだよな〜。」
と歩きだした。
あれ…?
もしかして、『この後どこか行こう』って、これのこと…?
立花さんを見た。
立花さんは市川さんと、もう1人の男の先輩の藤田さんと、楽しそうに話してる。
なんだぁ。
私ってば…、期待しすぎ。
やだな、ドキドキしちゃって、バカみたい。
なんか可笑しくなってきて、思わず笑う。
「なんだ、こいつ、酔っ払ってるのか?」
先輩たちも、私を見て笑ってる。
「ほら、笑ってないで。ちゃんと歩けるか?」
「もー、立花さん。勘違いさせすぎ。」
「え?何?」
「なんでもないで〜す。ちゃんと歩けますよ〜。」
そのまま笑いながら、ラーメン屋まで歩いた。
結構飲んだはずなのに、ラーメンを完食。やばい、ホントに太るかも…。
飲み会の余韻もあってか、会話が弾む。気が付けば、終電ギリギリの時間になっていた。
みんなで駅まで走る。けど、電車には間に合わなかった。
市川さんと藤田さんは何とか間に合って、あわただしく改札に入っていく。
仕方ない。タクシーで帰るか…。そう思ったとき、立花さんが横に並んだ。
「じゃあ、ちょっとその辺でも歩く?」
「え?」
「どこか行こうって言っただろ。」
うそ。
ラーメン屋のことじゃなかったんだ…。
またドキドキが止まらなくて、
「はい」と返事だけする。
嬉しくて嬉しくて、顔がにやける。それに気付かれないように必死で冷静を装って、立花さんの隣を歩く。
「なんで誘ってくれたんですか?」
「なんとなく、誘いたくなったから。」
「どこに行くんですか?」
「どこ行こうか。」
それだけの会話なのに、すごく楽しい。
もしかしたら立花さんは、普通の友達にするように、ただ何気なく誘っただけなのかもしれない。だから、あまり浮かれすぎないようにしないといけないのかもしれないけど、私にとってはこの初めてのふたりだけの時間が、嬉しくて。幸せで。
「桜見に行こうか。」
近くの公園へと歩く。
散りはじめの桜が、幸せな気持ちをさらに盛り上げる。
「綺麗」
立ち止まって桜を見上げた。
花びらが街灯に照らされて、本当に、キレイ。
ふと視線を落とすと、花見の名残なのか、あちこちにゴミが散乱しているのが見えた。
「せっかくの桜が台無しだな。」
「ホント」
苦笑い。
そして顔を見合わせる。
思わず吹き出してしまった私の手を、立花さんが握った。
「立花さん…。」
プルル……
立花さんの携帯が鳴った。
「ごめん。ちょっと待ってて。」
立花さんは私からちょっと離れたところで電話に出た。
さっきまでの幸せな気持ちが覚めていく。電話の相手はきっと…。
「彼女から…ですか?」
戻ってきた立花さんに聞くと、ちょっと気まずそうに頷いた。
「今から会えないかって…。」
…………。
まるで、今違う女と一緒にいるのが解ったかのようなタイミングの、彼女からの電話。
一気に現実に引き戻される。
そうだ。立花さんには彼女がいるんだ…。
でも何も今、電話してこなくても…。
沈黙がながれる。
私は無理やり笑顔をつくって言った。
「いいですよ。行ってください。私もそろそろ帰らなくちゃ。」
大通りに出てタクシーを捕まえる。
「じゃあ、おやすみなさい。」
笑顔でそれだけ言って、私はタクシーに乗り込んだ。
「ちょっと待って。」
立花さんの声に振り向く。
私の腕を立花さんがグッと掴んだ。そして、
短いキス。
「ごめん。気を付けてな。おやすみ。」
そう言って立花さんは、静かにタクシーのドアを閉めた。
どうしよう。
始まってしまった。
今までは気持ちをおさえて『憧れ』だけに止めておいたのに、もう、無理。
立花さんが好き。
あのキスが立花さんにとってどういう意味を持つのか…。
考えて、全然眠れない。
わかっているのは、それがどういう意味であったとしても、私の気持ちがもうおさえられないという事だけだ。
彼女のいる人。
しかも、きっと今ふたりは一緒にいる。
彼にとっては、あのキスはただの気の迷いだったのかもしれない。
それでも、私は嬉しかった。
でも…。いろんな思いが頭の中を駆け巡って、ひどく混乱する。
駄目だ。少し冷静にならなくちゃ。
すごく天気のいい日。
いつものように大学に行った後、バイト先へと急ぐ。
昨日が休みで良かった。すこし落ち着いた。
本当は、立花さんから連絡があるんじゃないかと期待してたんだけど、何の連絡もこなかった。
彼女といたのかな…。
そう考えると少し嫌な気持ちになるけど、しょうがないよね。
彼女がいる人を好きになっちゃったんだから。
店の前で立ち止まって、大きく深呼吸。
何があっても普通にしなくちゃ。
でも、立花さんの姿が目に入った瞬間、心臓の鼓動が大きく、速くなった。
落ち着け。
落ち着け。
もう一度深呼吸して、歩きだす。
「おはようございます。」
少しこわばった顔で立花さんに挨拶をすると
「おー、おはよう」
いつもと変わらない笑顔。
何なの!?その普通さ。
こんなにドキドキしてるのは私だけなの?立花さんにとって、この間のことはなんでもないって訳!?
なんだか憎らしくなって、少し離れた場所から立花さんを睨む。立花さんは他の人と話していて全然気が付かない。
「おはよう。」
市川さんの声にはっとなる。
そうだ。仕事なんだから。普通にしなくちゃってさっき決めたばかりじゃない。
「おはようございます。」
今日もいつもと同じように仕事して、同じように家に帰ろう。
そうは思ってみても、やっぱりいつもと同じようになんて出来ない。
確かに仕事はいつもどうりにやったけど…。
家に帰ってため息をつく。
今日立花さんとほとんど話せなかった。
近くにくると意識しちゃって、不自然に移動してみたり。
駄目だなぁ、私…。
携帯が鳴った。
電話の相手は
立花さん。
どうしよう!今日あんな態度取っちゃって、何を話せばいいの?
少しためらって。
「はい…」
思い切って電話に出た。
「もしもし」
立花さんの声。
動揺と、そして、それ以上に嬉しい気持ちが込み上げてくる。
「今、家?」
「はい…」
「ちょっと今から会えない?迎えに行くから。」
「えっ」
「○○高校の近くだって言ってたよね。20分位で着くから、そこまで出てきて。じゃあ。」
「えっ、あの、ちょっと…!」
私の返事を待たずに電話が切れた。
ちょっと待ってよ。強引すぎ…!
でも…。
早く着替えなきゃ!メイクも直して…。
そして待ち合わせ場所へと走る。
指定された場所に行くと、立花さんの車がもうそこにあって。私は走ってぐちゃぐちゃになった髪を急いで直すと、ドキドキしながら助手席のドアを開けた。
「乗って。」
言われるままに乗り込むと、すぐに車が走りはじめた。
初めて乗った立花さんの車。緊張で何も喋れない。
立花さんも、無言。
「急すぎですよ。」
沈黙に耐えられなくて、私が口を開く。
少し間があった後、立花さんは私のことを少しも見ず、真っ直ぐ前を見たまま言った。
「お前、今日ずっと俺のこと避けてただろ。」
だってそれは…。言葉に詰まる。
「この間のこと、怒ってるの?」
「え?」
「あの夜のこと。」
心臓の音がうるさい。
「怒ってなんか、ないです。」
「本当に?」
運転をしながら立花さんがちらっと私を見る。
「本当です。」
はぁ〜。大きなため息。
「だったらあんな風に避けるのやめろよな。」
「ごめんなさい…。」
謝ると、小さく
「良かった」という声が聞こえたような気がした。
そしてまた、しばしの沈黙。
「あのっ」
「え?」
私は下を向いたまま、自分の手を握り締める。
「…どうして、キス、したんですか?」
思い切って聞いた。
その直後、車が止まった。何かの駐車場らしき所だ。
「嫌だった?」
立花さんが私を見て、聞く。
その問いかけに、少し目をそらして答えた。
「嫌じゃ、ないです…。」
髪を撫でられて、私は顔を上げた。
そして、2回目のキス。
そのまま抱きよせらて…。
心臓の音が聞える。私の…?立花さんの…?すごくはやい。今、立花さん、どんな顔してるんだろ。
「ごめんな。なんかお前かわいくて…。思わずキスしてしまいました。」
「なんで敬語なんですか。」
言葉が不自然で、思わずクスクス笑う。
「笑うな!」
「だって」
顔を上げて立花さんを見る。
「立花さんもかわいいですよ。」
心なしか、赤くなってる気がする。こんなかわいい立花さんが見れるなんて、嬉しい。
「お前な〜、男に向かってかわいいとか言うなよ。」
ちょっと目をそらしながら言う。やだ、照れてる。
「やっぱりかわいい。」
「やめろって。」
「いいじゃないですかぁ。」
「やめないと、また、キスするぞ。」
ドキッとして黙った私に、キス。
その後も、何回も…。
ずっとこうしていたい。
このまま夜が明けなければいいのに…。
それから私達は、彼の仕事が終わってから、頻繁に会うようになった。大抵は当てもなくドライブして、人があまり来なそうな場所を見つけては車を停めて、たわいもない話をしたり、キスしたり。ほんの2、3時間のふたりだけの空間。でもそれがこの上なく幸せで。
でも、いつも彼女のことが心に引っ掛かっていて。幸せを感じれば感じるほど、ふと思い出す彼女の存在が重くのしかかる。
きっとまだふたりは続いているのだろう。でも、『別れて』と言う勇気もなくて。いつもその話題には触れないようにしていた。立花さんにとって一番大切なのは誰…?
明日は休み。私は今日も立花さんの車の助手席にいる。いつもと同じ幸せな空間。そして、いつもと同じ時間に彼は私を送り届けようとしている。
なんで明日休みなのに、いつもと同じように帰るの?
この後何か予定でもあるの?
もしかして…彼女と会うの?
そんなの嫌!
「どうした?」
急に静かになった私に気付いて、立花さんが声をかけてきた。
私は、彼女の話題に触れる勇気もなく。でも、立花さんが彼女の元に行ってしまうのが嫌で…。そしてこのままずっと立花さんと一緒にいたくて…。
「帰りたくない…。」
少しの沈黙の後、立花さんが私の手をつなぐ。
「うん…。今日は、ずっと一緒にいようか。」
初めてふたりで迎える朝。
目が覚めると横には彼の寝顔。
しばらくして目を覚ました彼にそっと抱きしめられ、そのままちょっとじゃれあいながら、今日の予定を考える。昼間に会うのは仕事以外では初めてで、色々行きたい場所がありすぎて決まらない。
とりあえず朝ご飯でも…と、近くのファーストフードへ。昨日着てたままのスーツがちょっと浮いてて、休日、遊びに行くにはこのカッコじゃあね、と、まずは服を買いに行くことにした。
私服姿なんて見たことがなかったから、新鮮で、なんだか照れくさい。そのまま手をつないで街を歩く。途中で見つけたゲームセンターに入ってはしゃいだり、疲れたらお茶したり。
結局大したところには行かなかったけれど、ふたりでいるだけで充分だった。
そして、ちょっとドライブして、家へと向かう。
いつも以上に離れがたくて、『もう少し』を何度も繰り返して。それでもあっという間に時間は過ぎる。そろそろ帰らないといけないって、わかってはいるんだけど…。
「また電話するから。」
家の近くに車を停めて、立花さんが言った。
頭では理解しているんだけど、どうしても離れるのが辛くて、『はい』と言えない。
「ほら、そんな顔しないで。」
つないでいた手を離して、私の頭を撫でた。
「じゃあ…もう一度キスして。」
私からせがんで、キスをして、後ろ髪をひかれる思いで車を降りた。去っていく車を見送って家に入り、『今日は、本当に楽しかった。ありがとう。』それだけメールした。
本当に幸せな1日だった。これからもずっとそんな日が続けばいいのに。
あの幸せな日から1ヶ月。私達はお互い何かと忙しくなり、たまに電話で話すくらいで、ふたりで会うことがほとんど出来なくなっていた。
ようやく落ち着いて、久しぶりに出たバイト先で
「よし、今日はみんなで飲みにでも行くか。」
という店長の一言で、居酒屋へと行くことになった。みんなで飲むのは久しぶりで、楽しい時間が過ぎる。本当は立花さんの隣に座りたいところだけどそうもいかず、市川さんと一緒に飲んでいた。
隣の席では、送別会をしているらしく、女の人が花束を持って、みんなに祝福されている。
「寿退社かな。」
市川さんもそれに気付いて、ため息まじりに言った。
「私も、バイトなんてしてないで、お金のある人と結婚したいなぁ。」
「もー、何言ってるんですか。」
笑いながら言葉を返すと、藤田さんがそこに乱入。
「じゃあ、俺なんかどう?」
「えー、あんた金ないじゃん。」
「それじゃあ藤田があまりにも惨めだぞ。」なんていう声も飛んだりして、そのやりとりに全員が爆笑。
「そういえば」
みんな笑いながら、口を開いた店長を見る。
「立花はいつ式挙げるのか、もう決まったのか?」
私の中から笑いが消えた。
なにそれ…。立花さん、結婚するの…?
「そういえば、婚約してたんだよね。」
藤田さんの声。
立花さんがちらっと私を見たような気がした。
でも私は、立花さんを見ることが出来ない。みんなが楽しそうに立花さんに詰め寄る。その雰囲気に耐えられなくて…!
「ちょっとトイレ行ってきますね。」
無理やり笑顔を作って市川さんに告げた。市川さんが何か言いたげにしてたような気がしたけど、足早にみんなから離れる。
急いで個室に入ると、涙が流れた。
とにかくショックで、何も考えられなくて。感じるのは、胸の痛みと、悲しみ…怒り…。
どうして?
頭の中でただそれだけ繰り返す。
でも、いつまでもここでこうしてる訳にはいかない。
みんなにおかしく思われる。
あの場所に戻りたくない。けど、戻らない訳にはいかない。
何とか涙を止めて、メイクを直す。
ここが薄暗い雰囲気の居酒屋で良かった。明るくない分、泣いたの、分かりにくいよね…。
「大丈夫?」
席に戻ると、市川さんの心配そうな顔。
「大丈夫ですよ。ちょっと暑くて…風にあたってきました。」
無理やり笑顔を作る。
「それより、飲みましょうよ!」
立花さんがこっちを見てる。わかってるけど、目を合わせられない。
ひたすらお酒を飲んで、から笑いしながら、どうでもいい話をして。そうやって、さっき聞いたことを、全て忘れてしまいたい…!
二次会に行く人たちから離れて駅へと急ぐ。
早くひとりになりたい。早く…。
いきなり後ろから腕を掴まれて振り返る。
息を切らした立花さんがいた。
「ちょっと話せないかな。」
話なんか聞きたくない。でも、立花さんの口から、本当の話を聞きたい。
掴まれた手を振りほどけず、返事もしないまま立花さんに付いていく。
連れて行かれたのは、あの日の公園。あの時とは全てが違う。はしゃいでたあの日が、今はただ懐かしくて、切なくなる。
「…ごめん。」
最初に口を開いたのは、立花さんだった。
涙が込み上げてくる。
たったその一言で、さっきの話が本当だったんだとわかって。
「…どうして、言ってくれなかったの?」
必死で出した言葉と同時に、涙がこぼれる。
他の人たちにしてみれば『だだ言わなかった』で済むだろう。でも、私は違う。それとも、そう思っているのは私だけで、立花さんにしてみれば、私も他の人も同じなのだろうか…。
「ごめん。」
二度目の謝罪の言葉に
「あやまって欲しいわけじゃない!」
思わず声を荒げる。
じゃあ、どうしてほしいのか…自分でもわからない。『あの話は嘘だよ』そう言われたかったのか…。それとも…。
「言いだせなかった…。」
怒りが込み上げる。
私にどうしろというんだろう。泣き喚いて、責めてほしいのか…、それとも、最初から彼女がいるのは知ってたし、平気だとでも言ってほしいんだろうか…。
私は、どうしたいんだろう。立花さんが他のひとと結婚すると知って、私はどうすればいいんだろう…。
立花さんが憎らしくて…。それでも好きで。でも、本当に望んでいる言葉は、きっと永遠にもらえない。それでもいいからと、この関係を続けるのか、それとも終わりにするのか…。
「…ひとつ、聞いてもいいですか。」
ずっと聞きたかったこと。
「立花さんにとって、私って何?ただの遊び…?」
うざい質問。わかってるけど、聞かずにいられなかった。
「…遊び、とは、ちょっと違うと思う…。何を言っても信じられないかもしれないけれど、一緒にいて楽しかったし、好きだと思った。」
それならなぜ、結婚なんか出来るのか、わからない。でも、私を好きだと思っていてくれたこと、それが、純粋に嬉しい…。
「なら、もう少しでいいから一緒にいて。これで終わりにするなんて嫌!」
別れられない…。決して正しい選択ではないのだろう。けど、別れたくない!好きだから、一緒にいたい。
立花さんは黙って私を抱き寄せた。
あの日から私達は、以前とあまり変わりなく過ごしていた。
夜のドライブ。
立花さんの車の助手席。
時間も場所も変わらないのに、気持ちだけが以前と違う。
たわいもない話をして、笑って。
でも、ふと言葉が途切れたときの沈黙に、恐怖を感じる。
次にくる言葉はなんなのか。それはもしかしたら、『結婚』の話かもしれないし、別れ話かもしれない。
それが怖くて、言葉がなるべく途切れないよう、必死で会話を続ける。多分、そんな私に、立花さんも気付いているだろう。でも、何も言わない。お互いただ『今』を、必死で繋いでいるような、そんな日々が続いた。
「みやびちゃん、最近疲れてない?」
市川さんの心配したような顔。
一瞬戸惑うけど
「そんなことないですよ。」
と笑顔で返した。
それでも心配そうにしている市川さんに、全部話してしまえば楽なのかなという気持ちがよぎる。
でも、決してそれはできない。それをしてしまたっら、いろんな意味で私達が終わってしまうような気がして…。
「今日二人で飲みにでもいかない?」
市川さんの誘いを、断る理由も見つからず受ける。
市川さんは、本当に素敵な先輩だ。仕事面だけではなくプライベートでも、何かと私を心配してくれる。
そんな人にさえ打ち明けられない恋。
軽蔑されてもおかしくないのかもしれない。
それでも、私は本当にあの人が好きで。例え誰に何を言われてもそれは変わらないし、『好き』という気持ちが偽りだと思わない。
でも、他の人から見たら、きっと止めるべき恋なんだろう。『遊ばれてるんだよ』そう言われてもおかしくないかもしれない。
でも、この気持ちが、そして、今の二人が、偽りじゃないって信じたい。
市川さんが連れて来てくれた、小さいけれどお洒落なバー。
「こういうお店、よく来るんですか?」
「素敵なお店探すの、趣味なのよ。」
お酒もすごくおいしくて、何杯でも飲めてしまいそう。
いい感じに酔って、二人で仕事のグチやバイト仲間の話で盛り上がる。
笑いすぎて、ふと一息ついた時、市川さんが真面目な顔で私を見た。
「みやびちゃん、あのさ…。」
急に表情が変わった市川さんの、次に続く言葉が怖くて、思わず身構える。
市川さんは、カクテルを一口飲んで、少し間を置き微笑んだ。
「全然関係ない話なんだけど、私、昔不倫してたことがあるんだよね。」
ドキッとする。
「あそこのカップル見てたら思い出しちゃった。」
市川さんの視線の先を見ると、確かになんだか意味深な二人。
でも、どうして急にそんなことを。本当にあのカップルを見たからだけなのだろうか。
「私、本当に相手のことが好きだったんだ。」
市川さんが話はじめる。
「勿論最初は、相手が結婚してるなんて知らなかった。でも、それを知った時には、もうどうしようもなく好きで、自分の気持ちを止めることが出来なかったの。」
…わかる。今の私がそうだ。
「一緒にいる時は、すごく幸せで。でも、やっぱり辛いことも色々あったな。それでもやっぱり一緒にいたくて、必死だった。…結局別れたけどね。」
「なんで、別れたんですか?」
そんなに好きだったのに、なんで別れたのか。その理由が知りたい。
「…やっぱり、傷つくからかな。自分は勿論、相手も、周りも。」
胸が痛む。わかってはいたけど、考えないようにしてた事。
私達は、今はまだ不倫という関係ではない。でもこのまま関係を続けていれば、いずれはそうなる。いや、今の状態だって、不倫とたいして変わらない。
市川さんは私を見たあと、再びあのカップルに視線を移した。
「自分がそういう経験してるから、相手がいる人を好きになる気持ちはよくわかる。だから、そんな恋愛しないほうがいいとは言えない。むしろ、自分が納得するまで頑張ってみればいいんじゃないかなって思うよ。でも、みんなが少なからず傷つくんだってことだけは、覚悟してほしい。」
市川さんは、私達の事、気付いてるんだと感じた。
この言葉は、あのカップルに向けたものではなく、私に向けたものなのだろう。
なのに、知らないふりをして、こんなふうに話してくれるんだ…。
涙がこぼれそうになる。
「ごめん、なんかしんみりしちゃったね。今日は、とことん飲もうか。」
笑顔でグラスを差し出す市川さん。
「はい」
私も、出来る限りの笑顔で、それに答えた。
市川さんの話を聞いたあの日から、もう何日が過ぎただろう。私達が一緒にいることは、決して幸せになれることではないのだろうと再認識した夜。正直、周りはどうでもよかった。彼女と別れてしまえばいいとさえ思う。でもそれは、立花さんにとっては…。
どんなに悩んでも、会いたいという気持ちは変わることがなく、時間を合わせては、立花さんと会っていた。そして、帰ったら必ず襲ってくる淋しさや苛立ち。
何度も繰り返すうちに、ようやく解ったことがある。そして、決断を下す為に、私は今までどうしても口に出来ないでいた言葉を、立花さんに投げ掛けた。
「彼女と別れてほしい…って言ったらどうします?」
「それは……。」
立花さんは私から目をそらして黙り込んだ。
それだけで理解した。
立花さんは彼女と別れることは出来ないんだ。
私は立花さんと一緒にいても、本当に欲しい幸せは得られないんだ。
「…俺は」
「なんて、ちょっと言ってみたかっただけだから、気にしないで。」
立花さんの言葉を遮り、出来るだけ明るく振る舞う。
言葉にされてしまったら、泣き喚いてしまうかもしれないから。
もう解ったから。
このバイトを始めて、1年半近くの月日が経とうとしていた。いつもより少し早くバイト先へと向かう。ある決心を胸に。
立花さんと一緒にいても幸せになれないことは、もうわかりすぎるくらいわかっていた。なのに、声を聞くと、姿を見ると、どうしても一緒にいたい気持ちが溢れてくる。
近くにいたら、別れられない…。
店長室に行き、辞める意志を伝える。理由は『就職活動の為』。
この楽しい職場を離れるのは淋しい。恋愛の為に仕事を辞めるなんてバカかもしれないと思うけど、今の私には、こうすることしか出来なかった。
市川さんに辞めることを伝える。何とも言えない淋しそうな顔をされて私も淋しくなるけど、辞めてからも連絡取りましょうねと約束する。
立花さんも、もう聞いただろうか。でも今は忙しくて連絡もする暇がないことを知っていた。
家に帰ると、メールが来た。立花さんからだ。
『辞める前に一度会おう』
それだけの、短いメール。
そして、その日が来た。
いつも座っていた、立花さんの車の助手席。この場所も今日で最後。
別れの決意をしてきたくせに、いざとなると辛くて、泣きそうになる。
「本当に辞めるの?」
立花さんの言葉に、頑張って笑顔を作る。
「はい。もう大学3年だし、いい加減、就職活動のこと考えないといけないから。」
「そうか。」
やっぱり一緒にいたいという気持ちが込み上げてくる。
まだこんなに好きなのに、なんで別れなくちゃいけないんだろう。
決心が揺らぐ。
でも、このまま続けても、お互いの為にならない。
辛い未来が待っているだけ…。
「だから」
胸が張り裂けそうな想いで、口を開く。
「二人で会うのも、これで最後ですね。」
立花さんが、私を見つめる。どんな顔をしているのかわからない。唇を咬み、今にもこぼれ落ちそうな涙を必死でおさえる。
「辛い思いさせてごめん。」
そんなこと言わないで…。
楽しかった思い出が、走馬灯のように蘇る。
本当に本当に大好きだった。一緒にいられて幸せだった…。
まだ泣くな。
立花さんの心のなかに、少しでもいい女として残りたい。
だから、笑顔で別れたい。
「立花さんといられて、本当に楽しかった。ありがとう。さよなら。」
それだけ言って、車を降りる。
立花さんは、そのまま車を停めて、動かない。
早く行って…!じゃないと決心が鈍ってしまうから。『やっぱり一緒にいたい』と言ってしまいそうになるから…。
家に入る手前で、車のエンジン音が聞こえた。耐え切れず振り向く。
去っていく車。
おさえていた涙が一気に溢れ出す。
そして、子供のように、声をあげていつまでも泣いた。
2年後。
私は無事就職も決まり、慌ただしい日々を過ごしていた。
今日の仕事も無事に終え、彼氏との待ち合わせ場所に向かう。
彼とは半年前、友人の紹介で知り合い、付き合い始めた。喧嘩もするけど、楽しく幸せな日々を過ごしている。
2年前のあの頃は、もう人を好きになるのが怖いと思っていた。2度と恋などできないんじゃないか、と。でも今こうしてまた人を好きになっている。人間って案外しぶとい。傷を作っても、またこうやって次の幸せに向けて歩きだすことが出来る。
この時間の街は、仕事終わりの人達で賑わっていて、ぶつからないように気を付けて歩く。
ふと前方に見覚えのある顔を見つけ、足を止める。
…胸が締め付けられる。相手も私に気付き、足を止めた。
「久しぶり。」
あの日以来、初めて会う立花さんは、以前とほとんど変わっていなくて。一瞬あの時の気持ちが蘇る。
「就職したんだな。」
スーツ姿の私を見て、立花さんが話し掛ける。
「はい。この近くの会社に。」
立花さんの左手に光るリング。
「結婚、したんですね。」
「ああ」
ちょっと気まずそうに、左手を後ろに隠す。
立花さんと別れた後、私は毎日のように泣いた。どうして私がこんな想いをしなきゃいけないんだろうと恨んだ。不幸せになってしまえばいいのに…、そう思った時もあった。
でも、今は素直に言える。
「幸せになってください。」
立花さんは、私の言葉に一瞬戸惑った顔をしたけど、すぐに笑顔になって言った。
「おまえもな。」
出会った頃と同じ笑顔。
挨拶を交して、去っていく立花さんの後ろ姿をしばらく見送る。
立花さんと出会えて良かった。あの時間は無駄じゃなかったんだ。心からそう思える。
彼が待つ場所へ向かう為、歩きだす。
真っ直ぐ前を向いて。