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01-01:発端/終焉【白き少女は深雪の如く】

新作です。新作投稿です。

予備校生活も忙しく、小説を書こうというモチベーションが低下している中、他の小説をほっぽりだして「書きたいものを書きたいように書いてしまえ!」という無茶苦茶な理論のもと設定を作り上げた小説になります。


ですので、これはあくまでも実験作であり、予告なく削除する可能性があります。その点はご了承いただければと思います。


それでは、明星夜暗の中の黒い部分と厨二な部分を思う存分出した小説、スタートです。

 あの出会いを覚えている。

 今でも、鮮明に脳裏に甦るほどに。

 忘れるはずがない。

 忘れられるわけがない。

 あの時、あの瞬間、あの刹那を。

 決して、忘れられるはずがない。



 僕の周囲を覆い隠す、漆黒の闇の帳の中で。

 一際眩い輝きを放つ、一人の小柄な、真っ白な少女。

 両腕から延びる、二筋の光の刃。彼女を讃えるが如く、その姿を照らし出す。

 風に流されて揺れる、彼女の身体を包むパーカー。ライトグレーのシンプルなデザインのそれは、夜の闇の中で聖骸布のようにすら見えた。その右手首には、拳大の真珠のごとき宝石のあしらわれたブレスレットが、穏やかな光を投げかけている。胸元まで引き上げられたファスナーのすぐ上にあるのは、ミルク色のすべすべとしたのどだ。

 少年じみたショートカットの髪は、そこだけが墨を垂らしたように純粋な漆黒。細く繊細なそれは、首元で無造作に切り裂かれている。だが、そこからは一切のがさつさは感じ取れない。まるで計算し尽くされたように流麗に、夜風の中で舞い踊っていた。緩やかに揺れる純黒のそれは、驚くほどに白い肌と美麗なコントラストを描き出している。

 身長は、かなり小柄で。子猫のように。子犬のように。子鳥のように。どこか、澄み切ったガラスのように砕けそうな脆さと儚さを背負っている。

 けれどもその華奢な肢体からは。まるで自らの抱く儚さに抗うが如く、頑強な力強さが溢れ出していた。

 ――ふぅ、危なかったね。キミ、大丈夫?

 彼女は振り返りもせずに、横目で僕を見る。

 可愛らしくも凛々しい、得意気な笑みを浮かべながら。


 白い、少女。



 ハク。相生覇紅。

 それが、彼女との出会いだった。




 ――そして。

 拳を強く握り込む。鎧の手甲の下で、剣の柄が金属質な音を響かせる。まるで閃光で編み上げられたような、深紅の刃がぎこちなく揺れた。その切っ先が向かうのは、一人の少女の喉元だ。

 鋭い痛み。僕の頬から、血が滴った。

 僕の体を満たす深紅の液体が、少しずつ溢れ出してゆく。

 こちらを真っ直ぐに見つめ、少女は嘲笑った。かなり小柄な背丈にも、ボーイッシュであどけない顔立ちにも、今にも折れそうな華奢で未成熟な体つきにも似合わぬ、扇情的で陰湿で凄惨で妖艶な笑みが、僕の方へ向けられた。

 小さな舌が、唇を舐める。桜色の、可愛らしい舌が、僕の血液を啜るように、艶やかな唇の上を走る。

 彼女は二本の刃を扇のように広げ、徐に此方へと歩み寄る。


 ――危なかったねぇ。キミの幸運は相変わらず、ってことかぁ。


 ハク。相生覇紅。

 僕の知る彼女は、もうそこにはいない。




 だから。

 僕は彼女を、殺すことに決めた。

 殺さなければ、ならなかった。

 いくら悲しくとも、苦しくとも。

 彼女だからこそ。

 ハクだからこそ。


 僕の好きな、大好きな、女の子だからこそ。


 幾度となくハクの手を握ってきた、僕のこの手で。

 僕は、彼女の命を屠る。



 彼女の心は二律背反。

 僕の大好きなハクは、もう戻ってはこない。


 思い出す。

 あの出会いを。

 あの瞬間を。

 そして、僕がハクと歩んできた道のりを。


 僕は。

 彼女への想いを胸に、彼女へと、その刃を振るうのだ。




 誰だって知っている、もはや陳腐と言っても過言ではない台詞だが――


 出会いがあれば、別れがある。


 ただ、僕たちにはその別れがいつやってくるかを知る術はない。


 それは十年後かもしれないし、六ヶ月後かもしれないし、二週間後かもしれないし、四日後かもしれない。

 そして、


 それは、僅か数分後かもしれないのだ。




 そして、それが不可避である以上、僕たちは受け入れねばならない。

 たとえそれが、いくら悲しいことであっても。




 その人との思い出を、それで終わらせたくないのなら――。










 "自分"とは、何が規定するのだろうか。何が自分を"自分"たらしめるのだろうか。

 生まれ育った環境、であろうか。確かに生育した場所やその地域の生活風俗は、人格形成に多大なる貢献を果たす。

 家族関係、であろうか。独り立ちするまでは最も頻繁に顔を合わせ、言葉を交わし、同一の生活リズムで生活する人間たち。それはきっと、その人間の人格の根底を形成する苗床と呼んでも過言ではないだろう。

 友人関係、であろうか。幼年期に形成されていた人格は、思春期が迫るにつれ、大きなパラダイムシフトの時を迎える。彼と同じ高校二年生になるころには、恐らく最も大きな関わりを持つ人々は家族から友人へと変化しているだろう。たとえそれが現実の存在であろうと、それともインターネットを跨いだ関係であったとしても、極論、自らの脳内のみの存在であっても、"友人"という存在は、思春期の人間の日々に大きな影響をもたらす。それは同時期に起こるパラダイムシフトにおいても例外ではない。人格の概形が完成する時に、そこで大きな役割を果たすのは友人たちの存在であろう。それとも、自分自身の思考回路そのもの、であろうか。外部からいかなる情報の入力があったとしても、人間はそれを「自分の思考」というフィルターを通してしか認識することができない。環境も、家族も、友人も、全て自分という幕を通した姿しか認識することは不可能なのである。よって、自分に入力されうる情報というものは、全て自分自身という枷の中に捕らわれている、と言

っても過言ではないのである。それならば、最終的に外部情報を人格形成へ昇華させるのは自分自身の思考回路だというのも、強ち間違った考え方であるとは言えないのではないだろうか。

 しかし。

 最終的に自分自身を形成しているのは、そのどれでもなく、故にそれ全てを含有するもの、ひとえに"記憶"なのではないか――少なくとも、相生(あいおい)直留(なおと)はそう考えていた。

 記憶がなければ、容易に人格は崩壊する。当然だ。外部から入力されていた情報が、すべて損失させられてしまうのだから。元来持っていた人格すら、全て失われてしまう。それを構成していた情報が失われているのだから、組み立てられていた人格も、その支えを失うのだ。基部を失っても、達磨落としのように上部がそのままの形で残る、などという事は、その上部の構造が複雑であれば複雑であるほど難しくなる。そして、一度崩れたものを組み直すのは、やはりその構造が複雑であれば複雑であるほど至難の技だ。一度崩れた人格は、用意には元に戻らない。


 直留自身の存在が、その証左だ。


 たとえ"失った記憶"が戻ってきたところで、失われた"自分自身"は戻ってはこない。自分自身が何者であるのか、自分自身ですら理解できない。自らの規定は失われてしまった。今の相生直留は、かつての相生直留ではない。



 もし、そうでないのなら。

 何故、こんなにも"過去の自分"というものが遠くに感じられるのだろう。



 「――と、くん?」

 不意に、どこからか声がかけられる。

 「直留くん、ちょっと」

 誰の声だろうか。少なくとも女子だ。自分のクラスにこんなに声の高い男子はいない。直留は自分の頭の中にある、"記憶"という名のデータベースを参照し、そう結論づけた。この声のパターン。綺麗に澄んでいて、少し細い。イメージが与えるカラーリングとしては水色から青といったところであろうか。透き通った寒色系の声色。しかし、それがもたらすのは冷たさというよりは清廉さだ。確か、この声は――

 「なーおーとー、くんっ!」

 「うわあっ!?」

 いきなり声のボリュームが数十倍に跳ね上がった。鼓膜が苦痛を覚えるレベルで振動する。条件反射で大きく身を引いてしまったにもかかわらず、かなり椅子を引いていた直留の下半身は動くことができない。結果として無様に体が捻られ、椅子に座ったまま上半身だけを床に打ち付ける。とっさに手で庇っていなければ、今頃顔面を床に叩きつけていただろう。

 「そ、そんなに驚くことないじゃない」

 声をかけてきた女子生徒が机を回ってきて、奇妙な格好で床に倒れ込んでいる直留の顔をのぞき込んでくる。

 セミロング、というのだろうか。普段は肩甲骨の辺りまで垂れ下がっている黒髪が今は下向きへ枝垂れかかり、鍾乳洞じみた幕を下ろしている。その中で、驚愕と心配を同時に浮かべた顔がこちらを見つめていた。美少女、というほどではないにしろ、小綺麗に整った顔立ちである。はっきりした眉は細く滑らかにカーブしているし、黒目がちな瞳が輝く彼女の目は、そこそこ大きめだ。鼻梁はすらりと高く、薄い唇は形も上品だ。

 訂正。彼女――高灘(たかなだ)(なぎ)はなかなかの美人だ。知的で大人びた顔立ちだが、どこか活発さを感じさせる。

 「大丈夫?」

 「あっははは、平気平気」

 小さく苦笑いして、直留は体を起こす。

 正直、両手はかなり痛かった。ひりひりとした痛みはまだ抜けておらず、手のひらが軽く痺れている。じんわりと腕の方まで響いてきた。その痺れを無視して机に手を突き、体をひょいと持ち上げると、直留は椅子に座り直す。

 「それで、何?」

 首をこくん、と傾けながら問いかける。我ながら似合わない動作であるとは自覚しているが、癖である以上仕方がない。

 「あ、そうそう、小竹先生から伝言。『補習は四時から』だってさ」

 「ん、了解。ありがとね」

 軽く会釈する。

 「ううん、わたしクラス委員だし。これくらいのことはやっておかなくちゃ。直留くんだって補習大変だもんね……。直留くん、ほんとは勉強できるのに」

 凪は僅かに表情を曇らせた。少し身を乗り出して、心配そうな顔を近づけてくる。

 「……まあ、これについては仕方ないことだと思ってるからさ、甘んじて受け入れざるを得ないよ……なんてね」

 そう直留は苦笑する。そんな彼の顔をしばらく見つめてから、凪は穏やかに破顔した。

 「――じゃあさ、わたしも付きっ切りで勉強教えてあげよっか」

 「別に気にしなくていいよ」

 「そんなぁ、教えさせてよ」


 直留の机に頬杖を付き、にこやかに首を傾ける。凪の大人っぽい顔立ちが笑顔によって幼げに変化し、実にかわいらしい表情を作り上げる。偏った細い黒髪が右肩にしだれかかり、前髪が分かれて白い額が顔を出した。

 思春期の男子ならば誰もが少々くらりとしてしまうような表情だが、直留は既にその手の妄想を抱くことがどれほど無意味であるかを知っている。

 高灘凪。直留と同じ高校の、同じクラスの女子生徒。学級委員を勤め、学業成績は優秀、運動神経も中の上程度。高校生にしては大人びた顔立ちで、スタイルもよい。更に性格も温厚かつ控えめで、まさに付き合うならば理想の女子と言っても過言ではないだろう。実際、クラスのアイドルとまでは言わずとも、直留の友人の(けい)のように、凪に惚れている男子は少なくないだろう。


 ――付き合うならば、であるが。

 「いいじゃない。別に直留くんは困んないでしょ?」

 「いいって、迷惑かけるわけにもいかないし」

 愛想笑いを浮かべながらも、直留は申し出を辞退する。一見女の子の好意を無碍にする行動に見えるが、高灘凪という少女を知っている者ならばそう考える者はほぼゼロへと減少するだろう。

 なぜなら。

 彼女にそういった類の希望を抱くこと自体が、大いなる間違いであるのだから。

 彼女の人気の理由は、何よりもまずはその距離感の近さにあると言える。

 普段こそ物静かで口数も少ないが、いざ親しくすごそうと彼女が思い立った瞬間、凪はまるで人と人との距離を感じさせないほど親密に振る舞うのだ。休み時間に話しかける、などは当然のこと。顔を十数センチまで近づけて話したり、一緒に下校しようと誘ってくることも少なくない。クラスメイトの話によれば、少し熱っぽいと話しただけで額同士を触れさせて体温を測ろうとしたことすらあるらしい。しかも凪のこの行動は、不特定の生徒誰にでも隔てなく、屈託なく行われている。そのため、彼女が高校に入学した直後には勘違いする男子生徒が続出し――そしてその全てがにべもなく振られたのである。

 更に言えば、こういった行動をとる女子生徒は大抵他の女子に嫌われるものだが、凪は当然のようにそんな女子にも近い距離感で接し、皮肉を浴びせかけられたとしてもどこ吹く風で親しげに接し、話しかけた。まるでそれが当然であるかのように。

 要は。

 彼女にとっては、クラスメイトへの「一般的な接し方」がそうであったに過ぎないのであった。男子だろうと女子だろうと関係なく、まるで親友のように、恋人のように、とても親しげに接し、親身になって会話し、心から嬉しそうに笑いかける。それが、高灘凪という少女の自然体であり、常識であったのだ。

 そして今や全てのクラスメイトにその認識は共有され、"そんな女子なのだ"という位置づけにおかれていた。気の迷い程度で彼女に惚れていた男子は直ぐに冷め、森一のように本気で好きになってしまった男子は叶わぬものと半ば諦め、凪を不快に思っていた女子もまた、最早彼女に対してはどんな態度をとったところで無駄であると気づき、他の生徒たちと同列に扱うようになった。


 "頭の中の情報が、高灘凪という少女について、直留にそんな認識をもたらす"。

 

 「本当にいいの?」

 確認をとられるが、直留はあくまでも申し出を辞退した。別に付き合ってもらっても彼女にできることはまずないだろうことは容易に推測ができるし、それに凪はきっぱりと断っても気を悪くしない人間だ。


 "頭の中の認識が、直留にそんな判断を下させる"。


 「――そう。うん、分かった」

 直留の辞退の意志に、凪はさわやかな笑顔で頷いた。明るく、可愛らしく。

 そして彼女は、直留が自分自身に抱いている印象を体現するが如く、辞退した申し出には微塵も執着を残さずに、直留に明るく笑いかけると、他のクラスメイトの方へ向かって歩いていった。ポニーテールの女子生徒の肩を叩くと、親しげに話しながら去ってゆく。半ば抱きつくようにして、親しげに。


 半年前に見ていた、知っていた、記憶しついた、高灘凪の行動パターンと何ら変わらずに。

 初めてだが、知っている。




 「――ふう」

 そんな凪の背中を見送りながら、直留は小さく息を吐き出した。小さく肩を落とす。頭の中で、嫌悪感が煙のように燻った。凪の行為に由来するものではない。自分自身の、こんな人間の捉え方に嫌気が差していたのである。

 まるでプログラムを見るような、設定書きを読むような、未体験ではあるけれども、既知であるような知識の扱い方に。

 相生直留が、そんな目で世界を見ていることに。





 相生直留という少年は、かつて記憶喪失であった。

 それはあくまでも一時的なものであり、既に全ての記憶は戻ってきている。明確な後遺症もない。故に、現在の彼は「かつて記憶喪失であった人間」ではあっても、「現在進行形で記憶喪失である人間」であるとは呼べない。記憶を取り戻す、何か衝撃的なきっかけがあったわけでもなく、病院での治療の成果として、相生直留は記憶を取り戻している。

 取り戻している、はずなのだ。

 少なくとも、常識的には。

 しかし、何かが、まだ戻ってきていない。 些細な、けれども決定的な何かが。



 記憶喪失の直接的な原因は、半年前に直留が遭遇した、空前絶後の大事故にある。

 "辺要起(べあき)山高速道路崩落事件"。去年の暮れに発生した、原因不明の大惨事。

 開通したばかりの区間、辺要起(べあき)山IC〜定城(ていじょう)あさひJTC間の高速道路の高架が、何の予兆もなく突如として崩落した。不幸なことに丁度年末のUターンラッシュによって路線は酷く渋滞していたため、崩落した区間に停車していた乗用車、トラック、オートバイを含む47台あまりの車両が谷底へと落下。当時中学生と高校生であった二人の兄妹を除き、乗車していた100人あまりは全員が死亡した。後に国土交通省と道路公団、ネクスコが共同して調査が行われたが、結局その理由が判明することはなかった。噂によれば、谷底に残されていた瓦礫の量は、高架を構成していた鉄筋コンクリートの重量よりも明らかに少なかったらしい。直ぐに謝罪会見が行われたが、原因の解明には至らなかった事が伝えられ、そして半年が過ぎた現在でも事故の発生理由は判明していない。初めは様々な憶測を交えて報道していたマスコミも、今は半ば迷宮入り事件として稀に触れられる程度となった。これを期に高速道路の精密点検

と設備補強が全国で行われたが、それを除けば事件自体は既に完全に過去のものとなっている。


 ――そして、この事故で唯一生き残ったのが、相生直留とその妹・相生明以(めい)の兄妹であったのだ。


 そんな悲惨な大事故に遭遇したのにも関わらず、直留が負った肉体的損傷はごく小さなものだった。両腕と、右足首の骨折。大怪我であることには変わりがないが、事故の規模や死者数から考えれば奇跡だといっても過言ではないほどに、直留の負った怪我は軽度なものであった。まるで階段から転げ落ちただけだというような、まるで軽く車にぶつけられただけというような、そんな事故の規模に似合わぬほどの軽度な負傷。死亡した彼らの両親だけではなく、半年が過ぎても未だに入院中で退院の兆しもない明以と比較しても、あまりにも軽度すぎるという幸運。実際、怪我自体は二ヶ月足らずでほぼ完治した。後遺症も、今のところは一切ない。


 ただ、その代償として、なのか。

 直留は一度、記憶を全て失った。


 そして。

 記憶は、残った。

 しかしまだ――何かが、戻ってこない。





 「あ、相生くん」

 補習の教室である第二多目的教室の扉を開けると、穏やかな声が直留に投げかけられた。それと同時に、スーツに身を包みライトブラウンに染めた長い髪を簡素に纏めた、二十台後半くらいの女性教師がこちらを向いて手を振っているのが目に入る。

 「お願いします、小竹(こたけ)先生」

 軽く会釈して教室に入る。

 英語の担当教諭、小竹理子(りこ)。新任と呼ぶには年齢を積みすぎているが、一方でベテランまでには至らない、中途半端な年齢の(本人曰く「"若手"と言いなさい、"若手"と!」だそうだ)教師である。なお、直留のクラスである二年一組の担任を務めてもいる、朗らかで人格者な、いわゆる"いい先生"である。真面目で、生徒想いで、ノリもよい。生徒の人気も高く、クラスメイトの大半が、小竹が担任でよかったと心から思っている。右の頬骨の上の黒子が印象的な薄く整った顔立ちが、後頭部で茶髪を纏めた髪型によく似合っており、ルックスも悪くはない。……そっちの気が無い直留にとっては、別に良くもないのだが。

 ――そんな"情報"が、小竹理子の姿を見た瞬間に、直留の頭を駆けめぐる。つい先ほど高灘凪と会話したときと同じ、味気なく血の通わない無機質なデータが、相生直留の思考回路を疾走した。何も変わらない。小竹についてもまた、直留の脳は凪同様に、世界に存在する一つの駒として捉えてしまう。


 一年の時も、記憶を失う前にも、小竹理子は相生直留の担任であったはずなのに、直留にはどうしてもその事を信じ切ることができない。


 小竹に勧められるがままに、教室の中央の一番前の席に着く。一対一の補習なのだから、それ以外の席に着くというのは不自然なものだ。スクールバッグから教科書類を取り出しながら、彼は再び世界の捉え方に嫌悪感を覚える。この嫌悪感は常に、相生直留という一人の少年へとつきまとう。


 未だ、直留は小竹理子を「一年生の時も担任だった、僕のことをよく知っている小竹先生」と見ることができない。彼の頭の中には、ただ「自分の担任教師・小竹理子」が浮かんでいるだけに過ぎないのだ。


 小竹の容姿、性格、行動理念、エピソード。その認識が正確であるかを考慮に入れなければ、直留はそれらを理解し、知っている。しかし、そうであっても、直留にとって未だ彼女は自らに近しい存在ではなかった。

 知っているのに、知らない人間だった。


 「大変でしょ、毎日補習ばっかりで」

 ふと小竹は黒板にチョークを走らせる手を止め、直留にそう問いかけた。白いチョークが黒板を掠り、小さな音を立てる。部活動の主な練習場所であるグラウンドや音楽室は校舎のちょうど反対側に位置しているためか、部活動をする生徒たちが発する音の類いは全く聞こえてこない。教室は、そのチョークの音を除いて周囲は全くの無音だった。

 「いえ、先生にわざわざ時間を取っていただいて、本当に感謝しています」

 直留は穏やかに会釈を返す。実際、この補習自体が崩落事故で四ヶ月もの間学校を休んでいた直留が、それでも二年に進級させてもらう条件として、小竹がわざわざ校長に提言して企画してくれたものなのだ。入院中もきちんと学習し、足りない部分は退院後の補習でカバーする。それを交換条件として、直留は単位が足りないにも関わらず、二年に進級することを――まあ、公にすることはできないのだが――許可されたのである。ひとえに彼の学校が私立であったからこそ為せる業だった。当然、事故に遭う前の直留の学業成績がそこそこ優秀であったのも大きな働きをしたのだが、やはり一番頑張ってくれたのは小竹先生であったことに揺るぎはない。

 そのことについて、直留は絶大な恩義を感じていた。

 「僕なんかのためにわざわざ……本当にありがとうございま――」


 だが、直留はその言葉が終わらぬ内に小竹の表情が曇ったのに気がついた。直留の頬から微笑が消え、語尾も溶けるようにして消えてしまう。

 「あの……?」

 「相生くん」

 小竹の唇が再び笑みの形を浮かべる。否、それは間違いなく本物の笑みだった。痛みを堪えるような、悲しげな笑み。心から自分のことを考えてくれているのが分かる。彼女はそういう人間だ。直留はそれを知っている。


 「やっぱり、駄目なの……?」


 ――"知識"、で。

 「はい……すみません」

 直留はうつむいた。何が"駄目"なのか、それは察するまでもない。たった今も、"その感覚"に苛まれていたところだった。直留は俯き、けれど絞り出すようにして言葉を繋ぐ。それを、自分の事を心から考えてくれている教師に告げるのは、

 「やっぱり……僕にはまだ、無理みたいです」

 まだ、無理なのだ。

 まだ、還ってこない。


 「まだ、先生と知り合いであるという"感覚"は戻ってきていません……」





 記憶喪失と同時に、直留が失ったもの。

 それはひどく曖昧なもので、中にはそれを失った事を気にしない者もいるかもしれない。日常生活には何ら問題は及ぼさず、病院の医師もそれが戻らなかったとしても「完治した」と断言してしかるべきだというもの。


 "過去"というものの、現実感――。

 自分はこの過去を過ごしてきたのだという、実感――。

 目の前の人間が知り合いであるという、感覚――。

 自分自身が相生直留だという、その証明――。


 端的に言えば、「意識」にあって「記憶」にないもの。データではない、感情。認識。理論では説明できない、直感的な感覚。現実感。実在感。

 記憶喪失とともに、直留はそんな感覚を完全に失ってしまった。自分のことは、相手のことは、彼のことは、彼女のことは、みな16年あまりの人生が十分すぎるほどの知識を与えてくれる。名前、容姿、声色、性格、体面、行動、過去、思想。そんな類の知識は、別に人間観察のようなことを日常的に行っていなくとも容易に認識され、脳内に蓄積されてゆく。

 だが、いくら彼はこんな性格だ、彼女はこんな過去を持っている、などという知識を持っていたとしても、そこに相手と暮らした実感が伴わなければ、昔と同じように立ち振る舞うことは不可能なのだ。

 わかりやすく言えば、直留は非常に沢山の知識を有している物語の中へ投げ込まれてしまっているようなものだ。「シンデレラ」という物語を読んだことがあれば、その登場人物であるシンデレラやその継母がどんな性格をしているか、どんな行動をとったことがあるか、それを知ることは可能だ。だが、たとえそんな知識を有していたとして、もし自らがシンデレラとしてその物語に投げ込まれた際、人間はその継母に対し本当の継母であるかのように扱う事が果たして可能だろうか。

 直留が置かれている環境とは、要はそういったものなのである。


 故に、退院した後の直留の周りの世界は、微妙に彼から遊離していた。周囲の景色が、人々が、自然が、街が、かつて自分の暮らしていたものと同一であるように思えない。街並みも家の形も友達の顔も、全てが記憶通りであるのにも関わらず、それは直留にとって「よく知っている見知らぬナニカ」に過ぎなかった。世界そのものに疎外感を感じてしまう直留は、そう感じるが故にどこか心の奥底に冷めたものがあるのを感じていた。なるべく表に出さぬよう心がけてはいたが、今の小竹の反応を見るに顔に出てしまっていたのだろう。仕方がないとはいえ、どこか申し訳ないような気持ちが沸々と沸き上がり、自己嫌悪が更に強くなる。


 "現実感"とはどういうものであったか。今の直留には、それすらはっきりしないものとなっていた。


 とはいえ、現在では生活に不便となるような"知識"の欠如は一切ない。自分の名前や生い立ちから、近所のスーパーのタイムセールの時間帯まで、事故の前に保持していた記憶は全て思い出した。半年弱入院していた間の変化は当然追えなかったが、四月中旬に退院し、今はもうゴールデンウイーク直前だ。既にこんな生活には慣れつつある。初めはぎこちなかった人とのつきあいも、今は円滑に交わすことができるようになった。それこそつい先ほどのようについ心に秘めた感情を表に出してしまうこともないわけではないが、それも含めて受け入れてゆく他ないだろう、と直留は半ば諦念に近い考えを抱いていた。


 だからこそ、今の小竹のように自分を心配されると、自らの失ったものが何であるかを強く意識させられる。


 この世界から断絶させられている、とまで言う必要はなきにしろ、直留はどこか自分が世界から浮いた存在であることを感じていたのである。



 非常に贅沢なことだが――直留は、自らを気遣ってくれる友達や友人がいるのにも関わらず、どこまでも孤独だった。





 「ありがとうございました」

 小竹に一言お礼を言って、直留は第二多目的教室を後にした。既に時刻は五時半を回り、六時にほど近い。流石にゴールデンウイーク直前とはいえ、これくらいの時刻になれば空は黄昏の紅から夜の帳の藍色へ色合いを移ろい始める頃合いである。内履きを下駄箱の中にしまい、スニーカーに履き替えて生徒玄関を出る頃には、空は赤みがかった紫色に顔色を変えていた。この角度からでは、沈みゆく夕陽を視ることはかなわない。ガラス張りの引き戸の奥にはどこまでも長いような校舎の影が伸びている。直留の影は、その薄暗いカタマリに飲み込まれ、認識することはできなかった。とぼとぼと引き戸を開き、学校を後にする。見上げると、正面に建っている高層マンションは学校よりも背が高いためか、橙色の光に染まって輝いていた。綺麗に磨かれた窓が反射する光が偶然直留の瞳の中へ飛び込んでくる。思わず目を細めた。

 眩しかった。

 影の中から感じる、夕陽の輝きは。

 その光が、自分を照らしていないのだと意識している分だけ。




 しばらく歩いたところで、直留はふとあることを思い出した。スクールバッグの中から財布をとりだして、中身をのぞき込む。所持金、7328円也。明以の入院費とは別に、伯父一家から二人分の生活費を仕送りしてもらっている上、そこそこ倹約した生活を送っているので、お金には余裕がある。そろそろ冷蔵庫の中身も尽きてくる頃だったはずなので、スーパーに寄ってから帰ることにした。普段通学に使っている道のりからは少々外れるが、品揃えのよい大きな店が近くにあるのだ。中にある教科書類を、バッグの脇についている小さなポケットへと無理矢理押し込むことによって、手提げを簡易的なエコバッグへと変貌させる。夕食のメニューは――回鍋肉(ホイコーロー)なんてどうだろうか。それならば必要になるのは、薄切りの豚肉、キャベツ、ピーマン、玉ねぎ、調味料などなど。それから牛乳と、朝食用の食パンを一斤。後、歯磨き粉と洗濯洗剤。それから麦茶のティーバッグも買っておきたい。基本的に直留はものぐさな質なので、買い置きできるものは買い置き

しておきたいタイプである。歯磨き粉や洗剤の類は幾つかまとめ買いをしておいてもよいだろう。取りあえず携帯のメモ帳機能を開き、頭の中に浮かんできた品物を次々と打ち込んでゆく。買い物に行くときは買うものをきちんとメモして覚えておかなければ、つい買いすぎたり買うものを忘れてしまったりするのだ。明以と二人きりになってから――厳密に言えば明以は入院したきりなので、退院して一人暮らしになってから――の二週間の間に盛大に失敗した経験から身につけた知識である。"買うものを忘れる"方だったのでお金を無駄にしてしまったわけではないが、先々週は毎回毎回買うものを一つや二つ忘れてしまい、二日に一回は買い物に行かなければならない事態に陥ってしまったのである。実害が出なかったのがせめてもの救いだった。

 メモをし終わると、歩きながら今度は携帯をインターネットへ接続させる。当然、回鍋肉の作り方を検索するためである。両親がいなくなってしまう(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)前から少し料理を嗜んではいたものの、その手つきや味はまだ家庭科の調理実習の域を出ない。友達と苦労して作ったのならばその補正がかかり美味しさもひとしおであろうが、高校生男子が独りきりで作った料理を自分で食べたところで、美味しいわけがない。ただ焦げの苦さと失敗した部分が舌を汚してゆくだけである。毎度毎度、母が作ってくれた料理がどれほど美味しいものであったかを実感させられる。家族四人全員で囲む食卓はとても暖かかった。明るくてユーモアのある父、穏やかだがたまにとんでもない発言をする母。その二人には、もう二度と会うことはできない。いつもどこからそんなエネルギーが沸いてくるのか疑問だったほどテンションの高い女の子だった明以も、今は家に帰ってこない。


 ――けれど。


 直留は、そんな環境を寂しいとは思わない。

 なぜなら、彼の頭の中にその記憶はあろうとも、直留の"現実"はほんの二週間前から始まったにすぎないのだから。

 直留は黄昏の道を歩く。

 俯きながら、けれどその顔に、一切の表情を浮かべずに。



 その背後の雑踏の中で、万華鏡にも似た光が煌めいた。





 「――うっそぉ」

 その場所(ヽヽヽヽ)で、直留は小さく呟いた。目線を正面からずらし、視点を右隣の区画へと移す。

 ――『マツダドラッグ』。全国チェーンを展開するドラッグストアの最寄り店。どうやら夏に備えて虫除けスプレーが大特価らしい。

 次いで、左へ。

 ――『滝口ハウス』のショールーム。磨き抜かれたガラス張りの建物の奥で、若い夫婦がシステムキッチンを見ながらあれこれ会話をしている。

 間違いない。

 そして、視線を正面に戻す。

 そこには、本来『スーパー榊原』本店があるはずだ。この地域のみに出店している、スーパーマーケットの小規模チェーン。その本店があるはずなのだ。この界隈では一番大きなスーパーマーケット。地元の主婦の大半は夕方、この店に集まってくるはずだ。食品だけではなく和菓子や薬まで売っており、果てには小規模な書店まで入っている。ベーカリーコーナーのパンは下手なパン屋よりもずっと美味で、直留も気に入っていた。また、手作り弁当の評判が高く、半額にでもなろうものなら争奪戦が起こるほどの人気を有していた。

 その、スーパー榊原が――


 工事現場と化していた。


 「あ、そういえば……」

 四、五日ほど前の新聞の折り込みチラシで、「本日閉店! 最後のセール! 新装開店は七月を予定しています」と書かれたものを目にしていた覚えがあった。あれはスーパー榊原のことを指していたのだろう。ろくに目を通さずに捨ててしまっていたのが運の尽きだったというわけだ。

 流石に一時閉店して一週間も経っていないこともあり、金属製の足場に覆われたその建物が元々はスーパー榊原であったことがはっきりと見て取れた。まだ形が分からなくなるほど解体や改造をされてはいなかった。片付けを怠ったのか、立てられたままの幟が入り口の角の方にまとめられて置いてあった。そこに書き記されている売り文句からも、やはりこの工事現場がスーパー榊原であったことを思い知らされる。


 溜め息を吐く直留だったが、いつまでも工事現場で立ち尽くしていてもどうにかなるものでもない。時刻も既に六時半を回っており、空の色ももはや紫紺に染まりつつあった。道行く車は白や薄橙のヘッドライトを点灯させ、街灯の無機質な光や電子掲示板のビビッドで華やかな光が、街に広がりつつある。これから家とは反対側にある小さい方のスーパーへ回っても遅くなってしまうだろうし、買い物は諦めた方が良さそうだ。幸いなことに食事関連以外は特に急ぐほどではない。今晩はレトルトカレーか何かで済ませて、また明後日買い物に行くとしよう。本当は明日行きたいところだが、直留は既に病院の明以へお見舞いに行く約束をしているのだ。入院中の妹を無碍にしたくもない。暫く考えた末、結論を出す。

 「帰る……か」

 直留がそう呟いた、その瞬間だった。


 轟音。巨大な旗がはためくような激しい音とともに、直留の全身に強力な負荷が襲いかかってきた。背後から襲い来るその力は、明確な指向性を持っている。背中から巨大な布で押し込まれるような、凄まじい力。不意をつかれた直留はバランスを崩し、前へ二、三歩よろめいた。

 突風、だ。

 強烈な勢いの風が、街の中を吹き荒れている。耳に綿でも詰められたようなくくぐもった轟音が直留の聴覚を占領する。その隙間に、手荷物でも飛ばされたのか、あちこちで発せられた小さな悲鳴が飛び込んでくる。街路樹から緑色の葉っぱが幾つもむしり取られ、風に乗せられてどこかへ飛んでゆく。道路からは無数の砂煙が舞い上がり、制服から露出した手首や首筋にぶつかって弱くも鋭い痛みを残してゆく。視線の端で、マツダドラッグの入り口の幟がばたばたと音を立てながらはためいているのが目に入った。

 強い。風の多いこの街でも、特別に強い強風だ。

 「うわっ」

 直留の癖の強いダークブラウンの髪の毛が風にさらわれ、櫛だけで申し分程度に整えてあった髪型がぐしゃぐしゃに崩れる。こめかみの髪の毛の先端が目をつつき、直留はとっさに顔を覆った。


 刹那。


 自らの手が視界を暗闇に閉ざす、その瞬間――。


 直留は、自らの見ている景色に大きな違和感を覚えた。

 強風の中にある、改装中のスーパー榊原の風景。

 耳には、風にはためく布が発する殴られたような激しい音が鳴り響き続けている。

 それなのに。

 スーパー榊原の、入り口に放置されている幟が。

 建物を覆う、ダークカーキのシートが。


 一切、静止したまま動かない――?








 突風自体は数秒程度で吹き止んだ。夕闇に墜ちる街は再び穏やかな顔を取り戻す。あちこちから突風に対する愚痴が聞こえてきたが、それらは一切直留の頭へは入ってこない。

 直留はただ、ぼうっと目の前の工事現場を見つめ続けていた。

 街路樹の葉が千切れるほどの猛烈な勢いで吹き荒れた突風。

 それに、一切影響を受けない幟とシート。

 あれは、何だったのだろうか。

 丁度その部分だけ、何か他の建物に遮られて風が吹かなかったのだろうか。

 否。それはあり得ない。

 突風は、直留の背後から工事現場の咆哮へ向かって吹き抜けたのだ。少なくとも、あそこは間違いなく風が吹き付けていたはずなのだ。それならば、それに併せて建物を覆うブルーシートや出しっぱなしの幟も強くはためいて然るべきなのではあるまいか。あれだけの強風が吹いたのだ。そうでなければおかしい。

 いや、あれは単なる直留の見間違えだったのではないだろうか。人の見ている世界とは、思いの外その時の精神状況を伴って変化してしまう曖昧なものだ。それは世界から得られる、と思い込んでいる自らのなかに内包していた世界の捉え方のニュアンスによって滑稽なほどに形を変える。相生直留が持ち合わせている願望や思想、過去など数えきれないほどのファクターによって。

 それに。

 端的に言えば、直留は自らの世界の捉え方が人並みに常識的なものであるという自信を持つことが出来ないでいる。記憶が戻った後から、いつもどこか世界に対して感じている解離感、疎外感。それはまるで中学生の痛々しい妄想のように直留が見る世界を不自然に歪めてしまっているのではあるまいか。ここで違和感を感じてしまうこと自体が、直留が異常であることの証左となるのではあるまいか。胸の奥から、そんな声が響いてくる。

 気づけば、直留は工事現場の方へ足を踏み出していた。頭の中では半ば自分の勘違いということで考えが固まりつつあるのにも関わらず、どうしてもあの光景が頭から離れなかったのである。後ろにある二車線の県道を、救急車が通りすぎていった。単調でありながらドップラー効果で高さを変えて行くサイレンが、直留の心の中に不安定なものを残していった。一歩、また一歩と駐車場へ歩みを進めて行く。人を妨げるという用途をまるで果たしていない、パイロンの間に走る白と赤のストライプのバーを跨いで越える。駐車場はそこまで広くない。収容台数は40台といったところだろうか。一般的な店舗としては広いが、スーパー榊原の店舗規模を考えるとかなり狭いのだ。夕方にはよく裏手にある第二駐車場まで埋まっていた光景を、直留の記憶が甦らせる。当然、閉鎖された今は一台も車は止まっていない。一定のパターンに沿って引かれている白いラインを通りながら直留は更に工事現場へ歩いてゆく。背後の道路は人通りが少ないわけでもないはずなのに、堂々と立ち入り禁止

区域を進んで行く直留を咎める者は誰もいない。横目に止めながらも、足を止めることはない。まさかブレザーに身を包んだ直留の姿を工事関係者と勘違いしているはずもないだろうに。興味がわかないのだろうか。ルールが破られていることをなんとも思わないのだろうか。

 直留がシートに覆われた建物本体に辿り着くのに、そこまで時間はかからなかった。丁度玄関があったはずの、今は他と同じく目隠しに覆われている部分の前に立つ。別に、何もおかしなところはない。何てことはない、合成繊維で作られた普通の布製シートである。例えばそれが立体映像だということを表すようなノイズも、布に見せかけた硬質プラスチックでできているというような質感も感じられない。視点を少し引いてみると、二、三ヵ所破れている箇所があった。その曖昧な開き具合と、毛羽立った合成繊維に飾られた切り口が眠たげな瞳に見えたのは、間違いなく直留のずれて螺じ曲がった捉え方が原因だろう。


 そして、先程の錯覚も。

 馬鹿馬鹿しい。


 あの怪奇現象の錯覚に何か期待をしていたとでもいうのか。あくまでも自分から乖離したままのこの世界から離れ、新たな、本当に自分に寄り添ってくれる世界の幻想を夢見ていたというのか。嘆かわしい。直留から乖離していない世界は、あの時、あの事故の瞬間共にいた明以と、あとはもう、相生直留自身しか存在しえないのだ。分かっていたはずなのに。直留は、世界の位相からずれているのだ。

 どこか物悲しい気持ちが沸き上がってきた。小さな寂寥感を感じる。早く帰りたい。家へ帰ったとしても独りなのだが、せめて"世界"は感じずにすむ。明以に電話でもしようか。明日のお見舞いに何を持ってきて欲しいか尋ねるとしよう。どうせ彼女のことだ。「にぃのカノジョを連れてこいやぁ!」とでも叫ぶのだろう。そんな妹の姿を思い浮かべながら小さく微笑む。

 ――いいんだ。僕は、この小さな世界の中で生きてゆこう。

 直留を慰めるように、穏やかな風が吹いた。


 風が吹く。

 今度は、穏やかなそよ風が。




 ――だからこそ、直留は気がついてしまった。

 やはり、動かない。

 今度は、見間違いでも、錯覚でも、幻想でもない。

 シートは。

 まるで風など吹いていないのではないかと疑いたくなるほどに、微動だにしない。

 確かに先程の風はとても弱いものであった。厚手のシートである以上、ある程度の勢いがなければ風程度で揺れることはない。

 だが。シートの切り傷から生えている、毛羽立った合成繊維についてはどうだろうか。ごく細い、一般的な縫い糸よりもさらに細い糸屑。たとえそれが硬い合成繊維で出来ていたとして、風を受けて靡かないなどということがありうるだろうか。

 ふ、と弱く息を吹き掛けてみる。

 動かない。

 思い切り息を吹き掛ける。

 やはり、動かない。

 確かにしばらくの入院生活の間に随分体力が落ちてしまったとはいえ、一般的な体格の男子高校生の目一杯の吐息を浴びてピクリともしないのはどう考えても不自然だ。何か特殊な新素材でも使われているのだろうか。気になって、切り口の毛羽だった部分に触れてみる。

 ――?

 何の感覚も得られない。息を吹き掛けてもびくともしないのだ。直留はどちらかといえば「チクリ」や「ゴワゴワ」という感覚を予想していたために、かなり虚を突かれた。まるで毛など存在していないのではないかと錯覚するほどに、柔らかく滑らかな手触りだ。

 ――錯覚?

 再び疑問符が浮かんだ。本当に、何も触っていないように感じられる。果たして現在、相生直留はほつれたシートから溢れる毛に触れているのだろうか。確証が持てなくなる。

 また、これだ。直留は心の中で嘆息した。現実感を取り戻せていないがゆえの弊害。自分が目にするものごとが、自分が感じるものごとが、本当に正しいものなのか確証を持つことが出来ない。自分の担任教師だと名乗っている女は、本当に自分の担任なのだろうか。親しげに話しかけてくるクラスメイトの少女は、本当にかつて親しげに会話していたのだろうか。自分の見ている世界に、確証が持てない。

 それでも、直留には完全に記憶喪失であった期間よりはまだマシだと思えた。あの頃は自らを取り巻く全てのものに対して疑心暗鬼を生じていた。直留が患った記憶喪失とは、いわゆる「エピソード記憶の欠如」というものだったが、それゆえに自分の頭の中に残った多種の記憶とエピソードの不存在が反応を起こし、精神を衰弱させられた。

 そして記憶が戻った後も、未だ戻ってこない"実感"故に、直留は今もよく不安に駆られてしまう。――これこそが、紛れもなく「世界からの乖離感」の招待であり、原因であるのだろう。

 普段ならばここで思い悩んでしまうところだが――幸いなことに、今感じている違和感は、容易に解消することが可能な類いのモノである。目の前にシートが存在していることなど、摘まんでみれば、押してみればすぐに分かる。

 直留は一切感覚を感じない切り口へより深く腕を突っ込むと、シートの向こう側で人差し指を折り曲げる。そして目視で親指との間にダークカーキの布の存在を認めながら、ゆっくりと二本の指を折り曲げ、シートを挟み込む。



 ――何も、感じない。



 直留の頭から血の気が引いた。必死になって指を擦り合わせてみる。だが、感じられるのは、少し湿った反対側の指の感触だけである。おかしい。流石にこれはおかしい。

 そして、直留は決定的な情報を得てしまった。


 焦ったがゆえにずれてしまった親指と人差し指。それがいともたやすく厚手のシートを貫いたのだ。厚手であるはずの布を容易に貫いた直留の指は、しかし一切の触覚も感じていない。その布は、一切の存在感をも彼に与えない。直留が慌てて指を引き戻すと、布は完全に元通りの形状を取り戻した。

 先程まで確かに二本の指に穴を開けられていたはずのシートには、傷ひとつ残っていなかった。

 「嘘……、だろ……?」

 喉から声が漏れる。

 改めてシートを眺める。

 一目見ただけでは、普通の工事現場だ。

 既に日は沈み、駐車場を挟んだ反対側の通りを走る車が、ときおりヘッドライトでこちらを照らす。

 浮かび上がる詳細。

 目の前にある部分だけでなく、あちこちにちぎれたような切り口があった。それに表面は一面が排気ガスで黒くくすんでいる。

 何の辺徹もない、普通の工事現場。

 それは、世界中どこにでもある風景であるはずである。

 しかし。

 もう一度、直留は両手で恐る恐るシートに触れる。

 そして。

 その両腕が、シートの中に――消えた。


 ――ホロ、グラム?

 濃紺のブレザーに覆われた、腕の肘から先。それが、シートに阻まれすっぽりと消滅している。ゆっくりと腕を上下に動かしても、シートに穴が開いたり、その穴が広がったりすることはない。まるでその"空間"に"シートの絵柄"のイラストが投影されているようだ。しかし、当然ながら今の人間社会でこれほどまでの完成度を誇るホログラムを見ることはない。もしかしたら世界のどこか、最先端の研究施設で試作品程度は作られている可能性もあるが、この北国の地方中核都市の、しかも中心部より少し外れた単なるスーパーの工事現場にその技術が用いられているとは到底思えない。

 さらに言えば、このシートの投影映像らしきものには、よくフィクションで描かれるホログラムに生じているようなノイズすら走っていない。その外見は、間違いなくどの工事現場にもかけられているダークカーキのシートにしか見えない。実際、あの突風さえなければ直留も気がつきはしなかったろう。


 ――このホログラムは何のためにあるのか。

 ――そもそも、このシートらしきものは本当にホログラムなのか。


 直留の脳裏に、好奇心の花が咲いた。

 ゴクリ、と石のように硬い唾を飲み込み。

 乾ききった唇を舌で湿らせ。

 彼はシートを突き破るように左足を進め――




 ――その左足は虚空を切り、相生直留は闇の中へと落ちていった。








 あの事故が起こる前に、直留は陸上部に所属していた。4か月にも及ぶ入院生活による運動能力及び筋力の低下と、進級の条件である補修を受けねばならないため、退院後は退部してしまっていた。

 しかし、それでも中学時代から培ってきた空間認識能力はそう簡単に鈍るものではなかったらしい。思いもよらぬ転落にも関わらず、直留はなんとか足から着地することに成功した。しかもあまり高所から落ちたわけではなかったらしく、一度着地してから地面に転がりこむだけで衝撃を押さえ込むことができた。打ちっぱなしのコンクリートに型と頬をぶつけた鈍い痛みと、両足に残存する衝撃の残滓が直留を苛む。

 「いたた……」

 型と頬をさすりながらよろよろと立ち上がると、直留は周囲を見回した。夜の街と比べればかなり暗いが、何も見えないほどではない。既に夜の時間帯でこの程度の明るさを保っているのだから、昼間ならばあまり暗くなることもないだろう。

 目の前にあるのは、なんの加工も施されていない素材のままなコンクリートの壁だ。目算で約3メートル。その上に、外側から見たのと同じシートが降りてきている。だが、それは外側から見たものよりもかなり透けており、ダークカーキの帳越しに中途半端な月齢の月を見上げることができた。あそこまでたどり着くことができれば、ここから出ることもできるだろうが――。

 直留はちらりと自分の足元を見る。今、自分が履いているのは学校指定の人工皮革製の靴、即ちローファーである。もしも直留がスニーカーやスパイクを履いていたのならば靴に壁をグリップさせて無理矢理登ることも不可能ではなかったであろうが、裏側がつるつるのローファーではかなり難しそうだ。他に登れる場所が無いか辺りをもう一度見回す。しかし、少しずつ暗闇に慣れてきた目が捉えるのは、どこもかしこも味気のない暗灰色のコンクリートばかりである。

 どうやら直留が落ちたのは建物の基盤の部分だったようだ。その証拠として、足元には鉄骨が建てられるような大きい正方形の穴がいくつも空いている。元々人が立ち入ることを想定している場所ではなさそうだ。

 「――どうしよ」

 誰に向けるでもなく、直留はポツリと呟いた。ざっと見ただけでは、この穴から脱出する方法はなさそうだ。

 幸い、スクールバッグは足元に落ちていた。中に入っている携帯電話も特に壊れている様子はない。これを用いて、小竹先生や圭のようなクラスメイトに助けを求めることはできる。しかしさすがに高校生にもなって「興味範囲で立入禁止区域に入ったら穴に落ちて出られなくなりました」ということを伝えるのには抵抗がある。これはあくまでも最終手段として取っておくとして、自分一人で脱出することができないか模索してみるのも無駄骨ではないだろう。もしかしたらどこかに外に出るための梯子が架かっていたり、ロープのようなものが落ちているかもしれない。

 「さて、と」

 両手をパンパンと叩き、それを両腰に置く。

 これで一応、「最終手段」が見つかった。人間、どんな状況であってもそれを打開するための切り札が元から用意されていると少し気が軽くなるものだ。今夜は急ぐわけでもないので、脱出方法を探すために、直留は半ば探険気分で壁沿いに歩き始めた。


 その刹那。


 ――べちょり。


 広い空間に響き渡ったその音に、直留は息を飲んだ。腐った肉か大量のヘドロが地面に落ちるような、どこか生理的嫌悪感を覚える湿った音。それが、彼のいる空間の中を幾度も反響する。

 ――べちょり。べちょり。

 一回だけではない。まるで少しずつ雨が降り始めるように、湿った音は着実に数を増やしていく。

 なんだ、これは。

 近いものも、遠いものもある。右から聞こえるものも、左から聞こえるものもある。すぐ先に壁のある真正面を除いて、あちらこちらから直留を囲みこむように、無数の湿音が不快音のコンチェルトを奏であげた。

 身がすくむ。元来直留は幽霊や妖怪の類いは信じていない人間であったが、あの事故がもたらした世界からの乖離感が、どこかその存在を認めかねない形に動いていた。

 どうする。振り返るべきなのか。今やその音は途切れることなく鼓膜を叩いている。数もまだ増え続けている。それに、一番大きな音の発生源はもう、直留のすぐ後ろに迫っている。

 何も知らずに怯えているなど、馬鹿馬鹿しい。

 意を決して振り返る。


 直留の背中に激しい熱感が溢れたのと、その視界に音の正体を捉えたのはほぼ同時の出来事だった。



 その姿は、大まかに言えば人間に似ていなくもなかった。だが、詳細に目をやる度にその印象はどんどん薄れてゆく。

 全体としての形は、真っ白なヒトガタだった。身長180センチを越える、体格の良い成人男性のように見える。だが、その肌は白く濁り、あちこちが壊死して醜く崩れ落ちていた。

 頭にある不揃い2つの眼窩には眼球が嵌められておらず、黒い空洞の中から腐肉が溢れだしている。鼻梁の類いは存在せず、眼窩よりも大きい2つの鼻の穴が匂いを嗅ぐように震えていた。口に至っては頤が完全に崩れ落ちており、外側に露出した上顎には針のように細く鋭い乱杙歯がびっしりと生え揃っている。それは、大まかに人の形を保っている体も同様であった。あちこちがどろどろと崩れており、左腕に至っては太い骨が露出している。両腕の先には、そこだけ場違いにナイフのような鋭い爪が五本ずつ生えている。そして、そのうち右腕側の二本だけが、鮮やかな紅に染まっている。

 腐乱死体。ゾンビ。ネクロマンシー。現実に存在する概念と、空想上にしか存在しないはずの概念が頭の中に浮かび、混ざりあってゆく。しかし、それは決して理解と呼べる精神活動ではない。

 その混乱した思考をも、身体的に襲ってきた感覚が阻害した。

 遅れてきた燃えるような痛苦に、直留の顔がぐにゃりと歪んだ。背中が、熱い。それに、湿っている。どろりとした液体が下着とシャツを湿らせているのだ。

 ――奴の爪に、引き裂かれた。

 直留に理解できたのはその程度のことだけだった。それ以外のことには、この空間を隠していた奇妙な映像も、今自らの目前に立ち塞がる異形についても、合理的な回答を得られそうにない。

 けれど。

 少なくとも、今すべきことくらいは分かる。

 ――逃げなければ。だが、どちらへ逃げる?真正面は当然、左右も既にこの怪物に囲まれている。背後は先程確認したとおり、何の足場もないのっぺりとしたコンクリートの壁だ。逃げ出す前から行き止まり(デッド・エンド)死を伴う終わり(デッド・エンド)だとは、洒落にもならない。素早く正面にいる怪物の数を数え上げる。第一層として数えられるのは八体。それぞれ崩れ方が異なっている。綺麗に五体満足揃っているもの、右足がちぎれかけているもの、左腕が完全に落ちているもの、両腕の骨が露出しているもの。そして。

 ――ぐちゃり。

 右から三体目の怪物の頭が完全に崩れ落ち、地面に激突して弾けた。

 それをピストルの合図として、直留は真っ直ぐ頭部を失った怪物へ向かって駆ける。他の七体の異形は一斉に彼へ意識を向けたが、その一体だけはぼんやりと立ち尽くしたままだ。反応の遅れたその体を突き飛ばし、第一陣を突破する。

 もし怪物の感覚器官が人間と同様に配置されているならば、視覚・聴覚・嗅覚は頭部に集中しているはず。直留は、その可能性に賭けたのだ。残念ながら思考・活動の中枢を失いすぐに倒れるようなことはなかったが――脳は頭部以外の位置に存在しているのか、もしくは昆虫のように失っても暫くは動けるのだろう――隙をつくことには成功した。

 怪物の腐肉は予想していたほど脆くはなかったようで、怪物を突き飛ばした直留の両手にはぬめりのある粘液がついているだけだった。これでも十分不快だが、あの生ゴミが付着するよりははるかにマシな部類だ。

 当然、第一陣を抜けたところで異形はいくらでも立ち塞がってくる。それどころか背後をも意識せねばならなくなったことで、間をすり抜ける難易度は倍以上に跳ねあがっている。右。右。左。正面。右。左。左。左。正面。必死に頭脳を回転させ、怪物たちの間を走り抜けてゆく。鋭い鉤爪や乱杙歯が時おり直留の頬や肩をかすめ、浅くも鋭い傷を残してゆく。傷口から、血液とともに体力も流れ出る。走り続ける足が、体力を奪ってゆく。必死に働かせる思考が、体力を食い潰してゆく。ただでさえ退院したばかりで低下している体力がどんどん失われてゆく。

 それに――今直留がいるのは、建物を建てるための土台に当たる部分だ。開けた空間にいるのではない。いつまでも避け続けたとして、怪物を降りきったりやり過ごしたりすることはできないのだ。

 ――どうする。どうすればいい。

 刹那、靴先に走る衝撃。視界がぐるりと回り、粘液にまみれたコンクリートが眼前に迫り――そして、激突。ぴちゃりという音と同時に、頬骨に靴先とは比べ物にならないほどの衝撃と痛みが爆発する。建物を支える杭を打つための穴に、ついに蹴躓いたのだ。


 両手をついて起き上がろうとする。ぞくりと背後に寒気が走った。咄嗟にその両腕で地面を斜めに押し、体の位置を横へとずらす。直留の鼻を掠めるようにして、目前のコンクリートに怪物の鉤爪が突き刺さった。力が強いのか爪がそこまで鋭いのか、五センチほどあるはずの鉤爪は根元まで地面に埋まっている。

 まさに、危機一髪。

 怪物にはコンクリートに深々と突き刺さった爪を引き抜くほどの力はないようだった。無理矢理力を込めた直後、ずるりと右腕が肩から外れる。それは直留の体と並ぶように倒れ、ブレザーに腐肉の染みを残した。

 怪物たちは予想外の出来事に困惑したのか、一瞬動きを止めた。立ち上がり、また走り出すには十分すぎるほどの隙だ。これならば、まだ時間を稼げる。この状況から脱するための方法を考えられる。そう思って直留は素早く両手をつき――だが、立ち上がれなかった。

 全身が石のように重い。腕に、まるで力が入らない。肘が、頬が、脛がきりきりと痛い。背中の切り傷がもたらす痛みに、息ができなくなる。この一連の出来事がアドレナリンの作用を弱めてしまったのか。突如として、直留の全身を苦しいほどの疲労と燃えるような苦痛が襲った。あまりに多くの負担が一度にもたれかかってきたためか、一瞬、意識が朦朧とする。

 二つ目の鉤爪が降ってきた。必死で体を右に転がして、迫る凶器の矛先から逃れる。そのままもう一度体を右に転がすと、何か硬いものにぶつかる。壁だ。打ちっぱなしの、コンクリートの壁。腐肉と粘液と煤に汚れたそれに手をつき、全力を振り絞って体を起こす。壁を背もたれにして地べたに座るような体勢になる。だが、もう動けない。長期入院で低下しきっていた体力が、完全に底をついている。

 またしても、粘土の代わりに腐肉で形作られた不格好なヒトガタに取り囲まれる。改めて見ても、酷い姿だ。小学校低学年の図工でも、こんな不格好な作品を作る児童はいないだろう。


 自分は――ここで死ぬのだ。


 胸の奥から諦念が染み出してくる。いや、本当はとっくの昔から染み出してきていたのだ。あのとき、病院のベッドで目を覚ました、その瞬間から。あの事故を生き残ったのが自分と明以だと聞いた、その瞬間から。記憶が戻り、今まで得てきた知識の意味を知った、その瞬間から。

 自分に生きている価値があるのか、と。

 自分が生き残った意味があるのか、と。

 本当は死んでいるべきなのではないか、と。


 生きることに対する虚無感。

 生き続けることに対する諦念。

 自分の存在価値に対する疑問。


 否、問題はより単純だ。


 自分自身の存在の意味。

 生き残った理由。


 そんなもの、僅か二週間で見いだせるはずがなかった。


 だから。


 ここで死ぬことも。

 この、元来自分から乖離している世界に別れを告げることも。


 何の感慨も感じない。

 先程逃げ惑っていた頃の生存反応は鳴りを潜め。

 目前に迫る"死"に、しかし胸中に去来するものは何もない。


 別に、自ら望んで死にたいとは思わないが。

 別に、自ら望んで生きたいとも思わない。



 ――ああ、そうか。

 自らの目の前にいる異形。

 これこそが、"死"なのか。

 だからこそここまで醜く、ここまで邪悪なのか。

 "死"の姿が、もしもこんなに歪んだものなのなら。

 確かに、人々が死を畏怖し恐怖する理由も理解できなくはない。


 だが、自分は別に、恐ろしくなんともない。

 あまりにも、鮮烈さに欠ける。




 脳裏に浮かび上がるのは、あの事故の直後の記憶。その風景の映像。過去とともに戻ってきた、惨状の記録。


 甦る。








 布はちぎれていた。草は倒れていた。岩は砕けていた。大地はひび割れていた。木は折れていた。金属は曲がっていた。炎は揺れていた。綿は溢れていた。辺りは静まり返っていた。

 服はちぎれていた。人は倒れていた。骨は砕けていた。頭蓋はひび割れていた。首は折れていた。手足は曲がっていた。髪は揺れていた。血は溢れていた。辺りは静まり返っていた。

 声は、なにも聞こえない。

 薄く雪が積もった山間部で。

 骨と雪の白と、血て炎の赤によるコントラストが、痛いほどに鮮明だった。

 他は、全てが灰色。

 くすんだ色の草。くすんだ色の枯れ木。くすんだ色のコンクリート。くすんだ色の岩。くすんだ色の瓦礫。くすんだ色のちぎれたシート。くすんだ色の割れたハンドル。

 うめき声が聞こえた。

 明以の声だった。

 すぐ隣に座っていたはずの妹は、何故か自分の頭上にいた。

 14年間見続けてきた顔の半分が、見たこともない赤に染まっていた。中学生になってから1度も見たことのなかった胸板が露出して、そこで真っ赤な切り傷がぱっくりと口を開けていた。幼い頃は幾度もつかんであげた腕が、4ヵ所で曲がっていた。それなのに、肘は真っ直ぐのびていた。

 明以、と呼ぼうとした。

 声が出なかった。

 掠れたうめき声しか出なかった。

 もう一度、明以のうめき声。

 ガソリンが燃える音。

 遠巻きに聞こえる、エンジンの爆発音。

 激しい耳鳴り。

 自分のうめき声。

 両親の姿は見えない。

 明以の血にまみれた唇が動く。


 ――ナ、オ。


 明以は自分のことをそう呼んでいた。

 聞こえる音はそれだけ。

 人の声も、虫の声も、鳥の声も、ラジオも、テレビも、サイレンも、何もない。


 そしてやがて世界が暗くなり。


 聞こえる音は何もなくなった。







 明以は死ななかった。

 直留は死ななかった。

 けれど、他は全てが死んでしまった。



 結局、あのとき色づいていたものだけしか、残らなかった。








 そう、"恐怖"とは、"死"とは、ああいうものであるはずだ。

 訳の分からない怪物に殺されるのは、恐怖でも何でもない。



 それに。

 相生直留は、もしかしたらあの事故で既に死んでいたのかもしれない。

 だからこそ世界から乖離していて。

 この世界を捉えられなかったのかもしれない。

 4ヶ月ほども遅れて、やっと迎えが来たということなのか。

 ならば、それでいい。

 別に、この世界に望むものなどないのだから。

 唯一、明以を遺してゆくことだけが心に引っ掛かるが――彼女は、直留がいなくとも大丈夫だろう。見た目だって可愛らしいし、頭もよい。そして何より、明以は直留の知る誰よりもしたたかだ。一人になっても、たくましく生き延びてゆくだろう。

 無責任かもしれない。

 不適当かもしれない。

 そんなことどうでもいい。


 目前に死が迫っている。

 逃れられる手段などありはしない。

 足掻くことに何の意味がある?

 悔やむことに何の意味がある?

 泣き叫ぶことに何の意味がある?

 抗うことに何の意味がある?


 諦念が直留の全身を包みこんだ。


 怪物は自分をどう殺すのだろう。

 その爪で心臓を貫くのだろうか。

 腹を切り裂くのだろうか。

 手足を引きちぎるのだろうか。

 背中から開くのだろうか。

 首を断ち切るのだろうか。

 喉を引き裂くのだろうか。

 頤を切り落とすのだろうか。

 眼窩を抉るのだろうか。

 眉間に朝を開けるのだろうか。

 頭蓋を砕くのだろうか。

 体全てを食らうのだろうか。

 痛いだろうか。

 苦しいだろうか。


 考えずともよい。

 すぐに分かる。

 ほら、奴らはもう両腕を振り上げている。

 いち、に、さん、し、ご。

 5体の怪物。

 10本の腕。

 50本の鉤爪。

 その化け物たちの背後には、より多数の怪物。

 50、いや60か。

 その殺意が、全て相生直留へ向けられる。


 これで、おしまい。

 ――安らかな、眠りを。







 白と、赤の光。



 それは、直留にあの惨劇を想起させた。





 ――少女が、空から降ってきた。

 そのできごとを一言で表すならば、これが一番ふさわしい。ただしそれは、妖精のようにではなく、稲妻のように。白と赤の雷撃を迸らせながら、その小柄な影は直留の前に降り立った。

 正義のヒーローのように滑らかに、少女は地面に着地する。発するのは小さな靴音のみ。そして、続けて彼女の正面にいた2体の怪物の上半身がぐらりと揺れ、湿った音とともに床へ落ちた。

 切断されていた。糸で粘土を切り裂くように、すっぱりと。かすかに、肉の焦げる匂いが漂った。怪物の切断面が真っ黒に焼け焦げ凝固している。一部はまだ冷めきらず、オレンジ色の光を放っていた。

 高熱による溶解を伴った切断。どうやって。

 少女の両腕から伸びる、二筋の光。右腕は炎のように燃え盛る赤。左腕は雪のように透き通った白。

 二つの、光の刃。

 怪物たちの体が倒れるのを確認してから、少女は見得を切るようにゆっくりと体を起こす。


 驚くほどまでに、小柄だった。

 自分はもちろん、凪よりも、明以よりも小さい。身長は恐らく150――いや、145にも届くまい。まるで小学生のような小柄さだ。

 ボーイッシュに、首筋が見えるほど短く切られた髪は、夜の闇より深く艶やかな漆黒。その黒曜石の如き色合いは、一見無造作に見えるその髪型に意外なほど馴染んでいる。一瞬、本当に少女であるのか自信を失うほどだ。

 服装はかなり簡素で、ライトグレーのフードなしの長袖パーカーに、同じく淡灰色のジーンズを併せている。上下とも同じ色合いの服であるせいか、何となく作業着のような利便性の追求を感じる。お洒落なのか意味があるのか、首には黒いチョーカーを、左腕にはラバーのような材質でできた同じく黒のブレスレットを、そして右腕には拳大の真珠のような石の収まる白いブレスレットを嵌めていた。上に羽織っているパーカーの右袖は何故か、二の腕の終端辺りで引きちぎられている。花のように繊維が舞っている。

 体型も、折れそうなまでに華奢だ。右腕以外の四肢は全て袖やズボンに覆われているのだが、それでも目を疑うほどまでに細い。唯一露出している右腕に目をやると、それは小枝のように細かった。それなのに、どこか鍛え抜かれたアスリートのような力強さも併せ持っている。


 しかし、ひときわ目を引くのは、その肌の白さである。

 水仙のように、雲のように、百合のように、雪のように、白粉のように、綿のように、霧のように、ミルクのように、どこまでも、どこまでも白い。けれどそれは病的な白さではない。どこまでも純粋な白色であるのに、どこか肌の暖かさや体温、心の暖かさを感じさせる。そんな、白い肌。周囲の闇の中で、自らの握る光を反射し、滑らかに輝いている。

 艶やかな、純白の肌。


 その美しさに、一瞬、思考が停止する。



 ――ふぅ、危なかったね。

 背を向けたまま、少女が口を開いた。

 少し舌足らずで、鈴を転がすように可愛らしい声だ。はきはきと快活で、子犬のような無邪気さを感じさせる。しかし、そこには確かに、声色に似合わぬ落ち着きと、気品を感じる響きが混じっていた。幼げな声なのに、幼さを感じさせない。

 どこか、アンバランスだった。


 少女の声にやっと我に返ったのか、元々直留を取り囲んでいた5体のうち三体が、くくぐもった怒声とともに少女へ殺到する。



 再び、白と赤の一閃。

 空気を切り裂く高い音。

 高熱によって生成されたオゾンの臭いが鼻をついた。



 胸に風穴を開け、胴体を輪切りにされ、頭から股まで兜割りにされ、異形たちは地面に倒れ伏す。

 くるりと少女が振り返った。コンクリートに座り込んでいる直留を、見下ろす形になる。あまり見下ろされている気分にならないのは、彼女の背の低さ故か。

 腕と同じ純白の肌に包まれた顔は、身長から想像される通りの、可愛らしくあどけない作りだ。眉は細くくっきりとして、鼻梁もまた低いながらも滑らかだ。唇もかなり薄く、健康的なペールピンク。

 くっきりとした大きな目は、黒々とした瞳孔がよく目立つ。虹彩の色は、不思議な色合いの灰色だった。単に黒を薄めた色ではない。青や緑、紫、黄、橙、黄緑、藍、赤。様々な色が混じりあい溶け合った結果としてできる、多層的構造の灰色だ。ある意味、構造色と呼ぶべきかもしれない。その濃淡は常に揺らめき続けている。

 そして、僅かに、しかし確かに光を放っているように見えた。


 輝く瞳の少女。

 異質だが、不気味ではない。

 ただ、美しい。


 ――「キミ、大丈夫?」


 心から心配そうに話しかけてくる。溌剌とした表情が儚げなものへと変わる。途端、彼女の顔立ちが薄幸そうな影を帯びた。

 「全身、傷だらけだ」とも、「ただ、疲れただけだ」とも言えなかった。彼女から、目が離せない。

 「ケガはしてるみたいだけど、命に別状はなさそうだね……。よかったぁ」

 少女が破顔した。ふうっと息を吐き、安堵の微笑みを浮かべる。まるで難手術が成功し、手術室から出てくる母親を見つけたように、純粋な喜びの笑みを。慈愛に満ちた表情だ。

 だが、その表情はすぐ怒りの表情に変わった。右手首を腰に、左肩で白い方の光の刃を担ぐようにして――実際には肩に触れておらず、担いでいる訳ではないのだが――、彼女は頬を膨らませた。

 「まったく、なに考えてるんだよ!」

 そのまま、感情を表に出す。

 初対面であることを一切考慮していない。非難じみた口調ではなく、痛烈な非難そのものである。けれども、微かに輝く瞳は、それが直留の心配をしたが故の怒りであることを物語っていた。

 「キミ、最後にさ、あいつらの攻撃を受け入れようとしたよね……。なんで、なんでそんなことをしたの!」

 そんな言葉を浴びながら、直留は、よく表情の変わる娘だなどとぼんやりと考えていた。異常なほどに精巧なホログラム、異形の醜悪な怪物、そしていきなり現れた不思議な少女。ただでさえ非現実的。疲労し酸素も足りていない直留の脳では、理解どころか視界に映るものが現実であるか否かすら、はっきりと判断が間に合わない。まるで夢の中にいるようだ――そう思ったところで、ここ二週間は同じようなものだったではないかと自嘲する。自分から乖離した世界は、いつも妄想の中にいるような感覚を直留に与えていた。

 だが一方で、それでもまだ動く直留の脳は思考する。なぜ怪物の攻撃を、鉤爪を受け入れようとしたのか。問われてみても、理由など分からない。いや、そもそも理由など存在しないのだ。死ぬ理由はないが、行き続ける理由もない。それに気がついただけだ。執着がないのに、逆らう理由など存在しない。

 「死を前にしてもあがき続けるのが生き物なのに、何が悟っちゃってるのさ!」

 半ば喚きたてるようにして彼女は叫ぶ。あまりにも唐突な非難ではある。だが、そうでなかったとして、直留は同じ問いに答えられるだろうか。

 「――っ!」

 少女が、はっと我に返ったように口を閉じる。今更ながらに不躾であったことに気づいたのか、顔を赤らめた。白い頬は健康的な血色を驚くほど透過させ、彼女の顔を真っ赤に染め上げる。

 「と、とにかく!」

 左手の白い刃が直留の喉元に突きつけられた。少女自身は指差す代わりのつもりなのだろうが、直留は少々肝を冷やした。刃は高熱を放っているのか、この距離でも微かな熱感を感じる。

 「ボクは自分の命を大切にしない人は嫌いですからね!」


 ボク。

 実は少年だったのだろうか。

 確かに外見はかなりボーイッシュではあるが、声色や顔立ちは少女のものだと思っていたのだが。

 それに口調が敬語になっている。

 普段は初対面では敬語を使うタイプなのだろう。


 直留は余計なことばかりを考える。


 自らが命の危機に陥ったことも、それから助けられたことにも、なんの感慨も抱かなかった。怪物たちに追い詰められていたときと同じように、ただ淡々と現実を受けとるだけだ。

 ――嫌いだと言われても。

 ――僕は、自分が生きていることに価値を見いだせない。

 ――だったら、仕方ないじゃないか。


 視線が合う。

 少女は小さく首をかしげた。口が小さく開いている。実に可愛らしい仕草だ。

 光が揺らめく瞳が美しかった。


 先程の怒りの表情は消えていた。むしろ不思議そうな表情で直留を見つめている。


 「あれ、キミって……?」

 知り合いだっただろうか。しかし記憶を深く探らずとも、こんな浮き世じみた少女を目にした経験はない。


 「ね、もしかしてキミの名前は――くっ!?」

 刹那、少女が言葉を切る。短くも力強い気合とともに、後ろへ向けて腕を振り上げた。何か、降ってきたものを受け止める。あの怪物の腕だった。彼女を引き裂かんと、背後から狙っていたのだ。その鉤爪の部分を巧く外し、内腕部で手首を受け止めていた。

 少女の表情が一瞬にして引き締まる。精悍な青年のように凛々しい表情。

 右腕で相手の攻撃を受け止めたまま、少女は無造作に右足を振った。的確に、怪物の足を払う。もんどりうった異形は、少女の左腕から伸びる白い刃の上に倒れる。肉の焼ける音。右足の付け根から左肩までが両断される。

 袈裟斬りにされた1体が倒れる音を合図に、怪物たちが関を切ったように少女の方へ殺到した。どうやらようやく彼女を最大の脅威と捉え、直留よりも先に駆逐しておこうと考えたようだ。総勢60にも迫る、2メートル弱の怪物たちが一斉に、身長145センチもない少女を屠らんと襲いかかる。

 「あー、もうっ!」

 子供が駄々をこねるような言葉を口にしながらも、少女の動きは冷静そのものだ。両腕に掴む二つの刃は間違いなく怪物を屠るためには最も有用な武器であろうが、彼女はそれだけに頼らない。

 「――らあぁっ!」

 小柄な体格に似合わぬ、いっそ獣のような荒々しい気勢とともに、小柄な体から放つハイキックで怪物の胸を打つ。よろめく怪物を、後ろにいたもう一体共々串刺しにする。刃を引き抜く勢いで、後ろにいた別の個体に肘打ちを食らわせると、振り向きつつ回し蹴りで蹴り倒し、その胸を貫いてとどめをさす。両腕を開いてくるりと回れば光の刃が周囲を一掃し、少女は倒れかかってくる体を足場にして跳躍すると、遠くにいた1体へ頭上から刃を一閃させる。二筋の光を纏って戦う姿は、まるで舞を舞っているように見えた。紅白の光が、繊細な紋様を編み上げてゆく。切り裂かれ貫かれ倒された怪物たちの残骸はみるみるうちにその輪郭を崩れさせ、白濁したゼリーのような塊を残す。まるで死した瞬間に腐敗速度が加速したかのようだ。

 少女はみるみるうちに異形を始末してゆく。凄まじいスピードである。すらりと長い両腕に構えた二振りの光刃による斬撃、刺突。カモシカのようにしなやかな両足を最大限に活かした跳躍や連続蹴り、回し蹴り、ハイキック。小柄な体は、敵の体の間をすり抜け、容易に自らの間合いまで詰めるのに一役買っている。たまに頭や肘、膝なども的確に用いながら怪物たちを切り裂いてゆく。

 真正面から振り下ろされる鉤爪。それをくるりと回って受け流し、そのまま足を払って左後ろへ流す。別の数体を巻き込んで倒れる。赤の刃で倒れた敵を貫きながら、白の刃で背後を一閃。迫っていた二体が、同時に刃の餌食となる。打ち出されたハイキックを乱暴に両腕で捕まれるも、今度はそちらを軸足にして回転。飛び回し蹴りで首を刈る。その体の回転に合わせて廻る白と赤の光が、同時に周囲の怪物を一掃した。

 高く跳躍する。

 海から跳ね出たベルーガのように、大きく背中をそらせ、宙を舞う少女。その光輝く瞳が、直留の視線とぶつかる。一瞬、どこか訝しげな表情。何が引っかかることはあるけれど思い出せない、そんな表情を浮かべていた。だがそれに気がついた次の瞬間には、その小さな体は白い異形の合間へ隠れてしまった。再び、白と赤の光が踊る。



 打ち、斬り、裂き、砕く。

 引き、払い、回し、突く。

 受け、踏み、叩き、貫く。

 



 その姿はただただ鮮烈で。

 そして、美しかった。

 未来永劫、この光景を忘れないだろう。

 そう思った。




 この少女が、やがて彼にとって途方もなく大切な存在になると、今はまだ知らないのだとしても。






 そして、物語は幕を開ける。


 表と裏、夢と現、有と無、真と虚、



 黒と白の、物語が。


キャラクターファイル1

相生(アイオイ) 直留(ナオト)

Age:15

Tall:172

Weight:60


本作の主人公。私立畔城東高等学校二年一組(理数科)。外見が与える第一印象は"無害"。優しげで尖ったところのない顔つきと中肉中背ながらも少し細いという体型、癖の強いダークブラウンの髪の毛、そして穏やかな語り口が、彼に「人畜無害」という印象を与えている。

 昨年の年末に大きな交通事故に遭遇し、一ヶ月ほど前まで記憶を失っていた過去を持つ。退院し学校に通い始めたのはほんの二週間前に過ぎない。その為か、本来は外見どおりであった穏やかな性格が歪んでしまった。消えることのない世界からの乖離感から、今は世界を斜めから捉え、そんな自分に嫌悪感を抱き続ける思考の渦に陥っている。

 また、事故の瞬間の記憶により、人の死、特に自分の死についての恐怖心が欠如してしまっている(生死に関する倫理観を失った訳ではない)。

 ある日の下校途中、彼は奇妙な怪物に襲われる。そんな彼を救った「白い少女」――"ハク"と出会ったことで、彼は大きな変革を迎えることとなる。


……一応、当分あとがきではこの「キャラクターファイル」の項を設け、キャラクター説明をしてゆこうと思います。



第2話の投稿は、現在執筆中の第3話の分のストックが完成した後を予定しています。相変わらずモチベーションが上がらず、遅筆な自分ですが、もしそれに値すると考えてくださるのでしたら、誤字脱字報告や感想を書いていただければ幸いです。



それではまた。あとがき欄で皆様に会えることを願って。

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