もう止まらない物語 7
例えばの話。
例えば、自分に娘がいたとして。妻は娘を産むのと同時に死んでしまって。まだ五歳の娘を男手一つで育てて。苦労することは多くても、可愛い娘のことだから頑張れて。でも、子育てと仕事を一人で両立させるには無理があって。収入は目に見えて減っていって、それにつれて生活は苦しくなっていって。それでも、頑張って。一人娘を不安にさせないように、頑張って。
頑張って、頑張って、頑張って。
そんな時に、幼い娘は病気になってしまって。
重たい病気で、治すことはできるけど、そのためには目の眩むような大金が必要で。そんなもの、どう足搔いたって用意できるはずがなくて。それでも、どうしても救いたくて。
だから、他の誰を傷つけてでも、殺してでも、自分がどうなってでも、金を手に入れるためだけに突き進む。
そんな架空の物語の中にしか存在しないような、それでも実際に起こってしまった現実を動機に罪に手を汚す人間を、果たして嫌悪できるのか。
「無理です」「無理だろ」「無理にゃ」「……無理」
通信機を介しての城島の問いに、風紀委員会の四人はほとんど同時に即答した。
『だろ? だから僕としても、そこそこ複雑な心境だったんだぞ』
「つぅかなんだその美談。あの野郎、そんな雰囲気皆無じゃねぇか」
『元から無愛想な奴なんだ。気にしない方がいいぞ』
「それよりもキジ先生の開き直った態度の方がミーは気ににゃるにゃー」
『僕も僕で結構なことをやらかしてるからな。もう開き直るしかない』
でもほら、彩花に関してはちゃんと仕上げておいたぞ、という言い訳が続くが、風紀委員一同でそこは無視する。何も知らされずに利用されていたというのは、やはりどうあっても気分の良いものではない。
『安心してくれ。全部終わったら僕も自首するつもりでいる』
「……馬鹿じゃねぇのか。それのどこが安心できるんだよ」
吐き捨てるような契の言葉に、ははは、と苦笑する。なんだからしくないその雰囲気を振り払うように、今度は灯が疑問を発した。
「ところで、真藤くんはその、高椋さんの動機のことを知っているんですか?」
『ああ、もちろん。だから僕は彩花に、高椋を救ってやってくれって頼んだんだぞ』
「あの野郎を救う、ね……」
高椋を救うという台詞にも、彼の動機を知った今となっては納得できる。その話が真実ならば、誰かを助けるためとは言え罪を犯して別の誰かを傷つけるような行為はかなりの苦痛だろう。高椋を被害者とするつもりは欠片もないが、救いたい―止めてやりたいと思う気持ちは十分に理解できるし共有もできる。
ただ、
「大丈夫なのかよ。あんまり頼りのねぇイメージだぜ、あいつ」
『本当にそう思っているなら見る目がないぞ、契。今の彩花が本気でそう見えるか?』
「……氷は見えない、です。さっきの彩花くん、すごく大きく見えました」
「にゃー。珍しくこの集団の中で意見した季蜜ちゃんに同感にゃー」
おどおどした態度ながらも遠慮がちに手を挙げて言った氷に続き、シークもはいはーいとか言いながらふざけたように賛同する。手は挙げないが灯のにこにことした笑顔も案に賛成の意を示していて、契はがりがりと頭を掻いた。
「別に俺だって認めてねぇわけじゃねぇよ。ただ、やっぱ不安が残るってだけだ」
『ま、僕もすぐにそっちに行くし大丈夫だろ。何かあったらよろしく頼むぞ』
「てめぇ、どう考えても共犯者とかの態度じゃねぇだろ……」
いつの間にかちょっと距離を取って話し込んでいる風紀委員たちの声を背に、彩花は一歩ずつ着実に高椋に接近していった。二人の距離はもう五メートルもないだろうか。視線は一時も外れることなく、火花が散るほどに睨み合い続けている。
一歩、また一歩と両者の距離は縮み―
「〝黒栄式〟!!」
「〝拷鎌鼬〟!!」
能力の発動はまったく同時。示し合わせたわけでもないにも関わらず、二人は同じタイミングで自らの未現体の名を呼んでいた。
先手を打ったのは高椋の操る風。速度の上限がない攻撃は、空を裂いて一直線に彩花に向かう。揺らぎの大きさを見ても、彼の華奢な体格では一撃で真っ二つに切り裂かれてしまうのは分かりきった規模だ。
しかし、彩花は動じない。
彼はおもむろに右手を持ち上げると、両目を閉じて、そこだけに意識を集中させる。
イメージとしては衣服を纏うようなことと変わらない。ただ、それは形がないから少しだけ調整が必要だ。細部まで定義する必要はない。ただ放出するためだけに纏う、いわば装填。
彩花の脳内でイメージが定めっていくに従い、持ち上げられた右腕を中心に変化が広がる。胸にぶら下げられた黒い正八面体から黒い霧のような何かが凄まじい速度で染み出し、右腕を呑み込もうとするかのように覆っていく。滲み出たどす黒い霧は最終的に彩花の右腕を完全に覆い、隠してしまった。
そして彩花は迫りくる風の刃に拳を構え、
「―黒ノ衝動!!」
全力で振り抜いた。
目前まで迫っていた風刃と彩花の拳が衝突し、腕に纏われた黒い霧が激しく前方に放出される。霧は支配者の腕から離れた途端にとてつもなく太く黒い奔流と化し、嵐を呑み込み、通過地点の道を砕き、高椋に迫った。
だが、彩花が能力を制御しきれていないのか、それともそうなるようにしているのか、黒い奔流は敵を呑み込む直前で爆散し、耳障りな反響だけを残して空間に溶け消えた。その攻撃は、名前の通り衝動と呼ぶに相応しい。
さらに、彩花はそこで止まらない。既に新たな黒い霧上の何かを両腕に纏い、高椋に向かって駆け出している。両者の距離はもう長くない。数秒で一跳びに数メートルを走り抜け、再び高椋に向かって拳を放つ。放つのは衝動。今度は至近距離から凶悪な黒い奔流を撃つ。
「―ッ!! 俺の風に、敗北はない!!」
一方、眼前に迫った彩花の行動を悟った高椋は両手を突き出し、そこに風を集中させた。即座に、契の一撃必殺すら防いだ風の防壁が展開される。危害を加えようと触れようものなら逆に斬り伏せられてしまいそうな危険を孕んだ防壁だが、彩花は躊躇わない。
「―黒ノ衝動!!」
人体を布切れのように切断してしまうほどに渦巻く風壁に向かい、黒い何かを纏った拳を放つ。二人の能力が衝突した瞬間、吹き荒れる風と吹き出す黒い激流が周辺を覆った。地面を、建造物を、近くにあったありとあらゆるものを破壊し、荒々しい能力同士が一帯を蹂躙していく。粉塵が数メートルの範囲を包み込み姿が見えなくなっても、その中心にいる二人の強力な気配だけは肌に突き刺さるような感覚と共に感じることができた。
やがて外からは窺い知ることのできない衝突は収まり、ぱらぱらと瓦礫の崩れる音以外は何も聞こえなくなる。風紀委員会の四人は敢えて粉塵の中に進むことはせずに、外から様子を見守っている。
そして、その時が来る。
ぶつかり合った二人を覆い隠していた粉塵が薄れ、一人分のシルエットが浮かび上がる。
シルエットはだんだんと明確な人の姿へと変わり―
粉塵の中、一人立っていたのは高椋鋭利だった。
感情を映さない虚ろな瞳は、既に彩花ではなく契たち風紀委員会に向けられていた。
「ちぃ……っ! 結局、即興じゃ戦力にはならねぇか!」
舌打ち交じりに、契が素早く拳を構える。彩花がどうなったのか詳しいことは分からないが、高椋の足元に倒れている朧なシルエットが恐らく彼だろう。確かに〝黒栄式〟は強力な未現体だが、ついさっき扱えるようになったばかりでは本物の犯罪者には敵わなかったのだ。
未熟な彩花に戦闘を任せてしまった自身の迂闊さを呪いながらも、契は高椋に突っ込もうとして、
「大丈夫だぞ、契」
背後から投げかけられたのは、聞き慣れた頼りない教師の声。
契は勢いよく振り返ると、鬼気迫る表情でその声の主に怒鳴った。
「何が大丈夫なんだ、てめぇはこの状況が見えてんのかよ! 城島ァ!!」
声の主―城島は、しかし契の怒声を受けてなお、にこにこといつも通りの無邪気な子どもらしい笑顔を崩さなかった。その笑顔が、高椋との共犯関係を開き直って忘れてでもいるのではないかと思わせ、さらに苛立ちを募らせる。
だが、続けようとした怒声は城島の笑顔での言葉に打ち消された。
「よく見ろ、契。たまに冷静さを欠くのはお前の悪い癖だぞ」
たった今到着したくせに戦況を完全に把握しきっているかのようなその物言いに、殴りかかりたくなる衝動を抑えながら、言われた通りに契は気持ちを落ち着かせる。深く呼吸を繰り返しても城島の笑顔を見るだけでまた感情が昂ぶるので、目の前にいる優男のことは視界から外す。
そうしてから視線を高椋の方に戻すと、奇妙なことに気がついた。
なぜか、高椋が頭を抱えて苦しんでいる。
「あぁ……ぐっ……っ、がぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああッッ!!」
変化の少ない表情を苦痛に歪め、抱えた頭を振り乱し、人の喉から発せられてるとは思えない絶叫を響かせ、今にも発狂せんばかりに高椋は苦しんでいた。
さらに、
「いっつ……どんな風してるんだよ……」
高椋の足元に転がっていた彩花が、全くなんでもなかったようにむくりと起き上がった。てっきり斬り伏せられたものとばかり思っていたのに、その様子を見る限りでは無傷のようだ。いや、無傷というのなら高椋もそうか。
ただ、高椋だけが異常に苦しんでいるだけだ。
「貴様っ……俺に何をしたアッ!!」
その高椋が表情を歪めたまま吼え、腕を高く掲げると、それを中心に発生させた小規模かつ
脅威的な速度で渦巻く竜巻ごと足元の彩花に叩きつける。直前で大きく跳び退いた彩花はぎりぎりで被害を免れたものの、その下の地面は重機で砕いたかのように粉々に破壊された。
一撃で致命傷の攻撃を避けた彩花は、しかし動じることなくまっすぐに立ちあがった。
「何って言うほどのことじゃないさ。俺は〝黒栄式〟の能力でお前の心を攻撃しただけだ」
「心……だと……?」
「そうだ。〝黒栄式〟には身体じゃなくて精神を攻撃するっていう特性がある。だから目に見える傷を負うことはないよ。……その代わり、かなり苦しいと思うけどな」
この特性は数多の罪人の負の感情に触れ続け、罪に侵され続けてきた〝黒栄式〟ならではのものだ。痛みを感じさせない代わりに精神的な苦痛を与えるこれは、彩花からすればかなり意地と性格の悪い特性だが、犯罪者を相手に遠慮はしない。
纏う黒霧は言うなれば具現化した罪悪。長い年月を経て遂には形を持った罪こそが、この未現体をAランクまでに押し上げたのだ。
「ふざ……けるなァッ!!」
ごう!! と空間すら斬り裂く鎌鼬が無数に発生し、彩花に襲い掛かる。
「俺の能力は速度も距離も方向も数も威力も形も―勝利さえも制限されない!! 俺の能力に、限界はない!!」
全方位から迫る不可視の死神の刃に、彩花は避けるような動きを見せない。ただその場に立ったまま、右腕を体の前に突き出した。
その腕は、可視化した罪を纏っている。
「お前の能力がどれだけ強力でも関係ないんだよ。風に限界がないって言うなら、罪には際限がないさ」
それに、と彩花は続ける。
善という言葉を誰よりも体現している彼だからこそできる、厳しい視線で告げる。
「例えどれだけの意志が、目的が、能力があっても―罪は罪だ」
伸ばした右腕を、地面と水平に振るう。
「―黒ノ断罪」
それだけで、無数の鎌鼬がねじ伏せられた。
振るわれた腕から放たれた黒い罪が鞭のようにしなり、周囲の風を片っ端から薙ぎ払う。不公平なまでの強さを秘めた能力を、罪の塊は平等に屠っていった。
「安心しろよ、別に殺そうってわけじゃないんだ。素直に投降してくれるならこれ以上の戦いは必要ない」
「ふざ、けるな……っ! 俺は、まだ……っ!」
圧倒的な能力差を見せつけられ、それでもなお高椋は両腕を構えた。彼の抱えている事情を考えれば諦めきれない心情は理解できるが、いくらなんでももうまともな力が残っているとは思えない。
「……高椋、諦めろ」
そんな彩花の思考を代弁するかのように、いつの間にか彩花の隣まで歩み寄っていた城島が言った。
「たった今、審査団から連絡があった。お前以外の不法入島者五十四人は風紀委員会と協力して全員捕縛完了。この一帯の学生も避難させて、今は全員でこちらに向かっている。いくらなんでも、それだけの重傷を負ってこの状況は切り抜けられないぞ」
共犯者に向かって、城島は落ち着いた調子で状況を説明していた。内容は高椋にとってことごとく絶望的なものだが、
「うるさい! 今さら無理だからと言って止まるわけにはいかんのだ! 不可能だろうが、罪悪だろうが、俺には救いたい存在がいるのだ!!」
「……だから、その気持ちを罪とは呼ばないよ」
なおも目的を見失わず叫ぶ高椋に、彩花はぽつりと告げた。
「大切な誰かのために戦えるっていうのは、俺は凄いことだと思ってる。けど、そのために他の誰かを傷つけちゃ駄目だ。お前が子どものことを大切に思うのと同じように、お前が傷つけた審査団員のことを大切に思う人だっているんだよ」
その言葉に、高椋は驚愕したように目を見開いた。きっと、彩花の台詞で自分の行動を再認識してしまったのだろう。人を傷つけることに抵抗を感じないような人物なら、そもそも子どもを助けるために行動しようとは考えない。今まではなんとか心を押し殺していたのだろうが、第三者からの指摘のせいで心を守っていた堤防が崩れてしまったのだ。
崩れた堤防から溢れ出してくるのは罪の意識―罪悪感。
それを振り払うように、高椋は咆哮する。
「それでも、俺は……俺はァ!!」
それを合図にしたように、彩花は全速力で駆けだした。両腕に罪を纏い、高椋に向かって一直線に駆け抜ける。
高椋鋭利を、救うために。
これ以上の罪を、重ねさせないために。
「俺に……敗北は許されないッ!!」
当然、高椋も己の目的のために諦めない。向かってくる彩花を迎撃すべく、彼は両腕に風の奔流を生み出す。
しかし、
「拝借するぞ――〝拷鎌鼬〟!!」
高椋が能力を解き放つよりも速く、彼の未現体のそれと全く同じ能力が、彼自身を襲った。鋭い鎌と化した風が高椋の両手に向かって鋭く襲い掛かる。
能力の発動者は城島だ。〝模倣盤〟によってコピーした高椋の能力を使い、城島が狙ったのは高椋の装備している黒い手袋だった。空気中に発生した風の刃が両手の手袋をたちまち切り裂き、ただの布きれに変えてしまう。
からん、と金属質の音がした。
高椋の足元に落ちたのは紙のように薄い長方形の金属片のようなもの。恐らく手袋の下に忍ばせていたのであろうそれこそが、彼の〝拷鎌鼬〟の正体だ。
「うぅ……ぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
未現体を手放してしまい能力を使用できなくなった高椋は、手袋と一緒に傷を負った血塗れの拳を握り締め、向かってくる彩花に殴りかかった。力を失ってなおその瞳は強い意志を秘めているが、どう考えても無謀な行動でしかない。既に満身創痍の高椋では、彩花にただ殴られただけでも致命傷になりかねなかった。
「……お前の罪を、少しだけ雪いでやる」
それでも、彩花も止まらない。彼にだって、自分に向かってくる高椋を救うという目的がある。彩花は突きつけるような言葉を、高椋に向かって投げつける。
「改心でも何でもして、もう一回やり直せ!!」
めちゃくちゃに突き出された拳を避け、両腕に纏った罪を全力で叩きつける。罪は濁流のように高椋の体を呑み込み、押し流した。
これで身体的な傷を負わせていないとは信じられないほどの激流が手当たり次第に周囲を破壊し、ねじ伏せていく。圧倒的な罪の力が、目の前にあるものをただ蹴散らして、踏み潰して、悪を浄化する。
霧が晴れた時、高椋鋭利は意識を失い倒れ伏していた。




