もう止まらない物語 6
「チッ、生きてたか」
「やっぱり殺す気だったにゃーね……」
舌打ち混じりの契の台詞に、シークは本気で引いていた。殴った瞬間の異常な破砕音から大体察していたが、どうやら契は本気で高椋を殴り殺すつもりだったらしい。それを裏付けるように、舗装された道路は攻撃の際に生じた衝撃だけで何十メートルにもわたり深く粉々に砕けてしまっている。その拳の威力たるや、想像するだけでも全身から血の気が引く。
もっとも、これは契とある程度の付き合いがある風紀委員会の三人には予測できたことでもあるのだが。なぜなら、キレた契に手加減は不可能だから。そして、キレた契が全力を出せばそこら辺の高層ビルの一本や二本くらいは簡単に倒壊させられてしまうのだ。シークや氷もやろうと思えばできることだが、彼のように素手ではできない。
そのことを知っているからこそ、彼らが驚いたのはむしろ、高椋が両足で地面の上に立っていることだった。
もちろん無傷では済んでいない。右手で押さえて止血を試みている側頭部は押さえた指の間からもおびただしい量の血液が流れだしているし、左腕は肩と肘の間が奇妙なねじれ方をしている。黒を基調とした軽装は無残にも引き裂かれ、露わになった肉体にも抉れたような傷が確認できた。
「生きてるのが奇跡にゃー。ハルハル、怖すぎにゃ」
「うっせぇ。首にナイフ刺してコンクリ砕く道化や、人間を軽く何十メートルも吹き飛ばす黒猫に言われたくねぇよ」
ごもっとも、とシークは肩をすくめる。契が頼りになりすぎるから本気は出さないが、道化と黒猫の名を冠する二人にしても、その気になれば同じようなことは簡単にできる。灯はさすがにできないけれども。
と、今はそんなことよりも、
「で、まあ見ての通り敵はハルハルの本気を食らって生きてるわけだけど……何をしたのにゃー?」
「多分だが、風を操って防御壁を作りやがった。季蜜の結界と比べりゃ遥かに脆いが、意外と応用性はある能力みてぇだな」
「にゃるほど……それは厄介にゃー」
顎に手を当てシークは一応考え込む。とは言っても、頭の中では大して真面目に考え込んだりしていない。高椋は契の一撃であの重傷だし、この四人で引き続き戦えば風の防御壁があったって捕縛は比較的楽に可能だろう。なにも本気で殺す必要なんてものはないわけだし―
そんな油断と慢心が生んだ隙は、どうしようもなく致命的だった。
ぱき、と硝子の破片を踏んでしまったような音にシークが気付いた直後、全身を覆うほどに身につけられていた回復能力を持つEランクが、一つ残らず一斉に弾けた。
「にゃ―ッ!?」
驚愕に目を見開くシークだが、その原因を突き止める間もなく、全身に次から次へと刀で斬られたような裂傷が生まれる。無数に刻まれた傷はその一つ一つが深く、しかしあまりにも素早く刻まれたせいか、痛みは感じないし血も流れない。
目の前の現実を見直すように、シークはゆっくりと瞬きをする。
それを合図にしたように、全身の傷口から鮮血が噴き出した。
「てめぇ―ッ!?」
急激な状況の展開に硬直してしまっていた契も、この段階に至って高椋の方を振り返った。が、遅い。振り返ると同時に、彼のデカい図体が袈裟懸けに斬り捨てられる。
ほんの数分前まで圧勝していたはずの、風紀委員会のリーダー的存在は、いとも容易く陥落した。
その代わりとでも言うかのように、高椋が立ち上がり、吼える。
「おれの……邪魔を、するなあああああああッッ!!」
折れているはずの左腕の痛みも無視して、黒い手袋で覆った両手の平をばぁん! と打ちあわせ、
「斬り伏せろ。〝拷鎌鼬〟!!」
途端に、突風が吹き荒れた。
高椋の打ち合わされた両手を中心に発生する風は台風や嵐などというレベルではない。その程度はそよ風でしかないと言わんばかりに、狂ったように吹き荒れるそれは、まさしく高椋の内心そのものを示しているのだろうか。重傷を負ったせいか余裕を失った表情は鬼という表現がぴったりと当てはまる。飛び出さんばかりに見開かれた眼球は瞳が赤いのではないかと見間違うほどに血走り、食い縛った歯の間からも血が流れている。全身が出血で染まっているその姿は、少なくとも現実感が欠片もなかった。
「もう少しで! もう少しで目的は達せられるのだ! 餓鬼如きが俺の前に立つな、俺の行く道を塞ぐなぁ!!」
先ほどまでの冷静で落ち着いた雰囲気など微塵もない。感情をさらけ出し、喚き散らす彼の感情の波をそのまま攻撃に変えているかのように、暴力的な風が風紀委員たちを殴りつける。
どうやら、高椋は契よりもさらに、キレると手が付けられない性格らしい。
「季蜜さん!」
ほとんど悲鳴に近い灯の声に呼ばれるよりも早く、氷は既に動き出していた。
斬り伏せられた契とシークの側に瞬間的に移動し、両腕を上空に大きく広げる。自分の周囲五メートル四方ほどを囲む立方体をイメージ。確定。直後、結界制御が発動して見えない壁が暴風の攻撃から三人の姿を守る。
ギイイイィィィィィ―ッ!!
途端、金属同士を擦り合わせるような不快な高音が氷の耳に突き刺さる。氷の結界は鉄壁の防御力を誇るものの、二つの能力がせめぎ合うこの音は明らかにまずい。この状態が長く続けば恐らく押し負けてしまう。
背筋に冷たい汗が流れるのを感じる氷だが、だからと言ってどうすることもできなかった。彼女の持つ〝気紛れ野良〟は能力こそ三つもあるものの、それらを同時に発動させることはできないのだ。高椋を止めるために結界制御を解いて行動してしまうと倒れている二人が本当に殺されてしまう可能性すらあるので、彼女は防御に徹するばかりで反撃に転じることができない。
「赤星先輩、風紀委員の増援を……っ!」
結界が異常な損傷を受けていることで両腕に圧し掛かってくる擬似的な荷重に苦しげに表情を歪ませながら、この場で唯一ダメージを受けない灯にそう請求するのだが、
「…………」
彼女は虚空の一点を見つめていて、氷の要求は完全に無視された。
「赤星先輩……? ……赤星先輩!」
聞こえていないのかと思って声を張り上げると、灯はようやく視線をこちらに向ける。どこを見ているのかよく分からないその目は、彼女が作り出した幻を通じて別の場所を見ている時の特徴だ。
「真藤くん……?」
「え……?」
何の脈絡もなく灯が呟いたその名前に氷が疑問符を発した瞬間、気を緩めてしまったせいか限界間近の結界に亀裂が走った。立て直す暇もなく亀裂はみるみる広がり、ものの数秒で氷たちを守っていた防御壁は砕け散る。
それに続いて怒り心頭の高椋が放つ風の攻撃が、大気の揺らぎが凄まじい速度で迫る。助からない。直感的にそう感じた。上半身と下半身が真っ二つに切断されるような明確なヴィジョンが脳裏に浮かび、反射的に強く目を閉じる。
数秒後には来るであろう終わりの恐怖に唇を噛み―
「―黒ノ衝動!!」
何かが、風と氷の間に割って入った。
その何かは目を閉じていても気配で分かるほどにどす黒く、目前まで迫っていた恐怖すらも蹂躙するほど禍々しい。明確な殺意を含有して迫っていた狂風は、突如として現れたその存在の力によって、断末魔を残すこともなく霧散した。
ほんの数秒か、それとも数分か、辺りを静寂が包み―
「……季蜜、大丈夫か?」
投げかけられたのは、氷のことを心配する優しい声だった。少年にしては高く、少女にしてはやや低いその声には聞き覚えがある。入学試験の日に、迫る試験開始時刻を気にもせずに彼女のことを助けてくれた優しい少年の声だ。
それでも、閉じた視界の中で感じる恐ろしいオーラが彼のものだとはにわかに信じられず、恐々と氷は目を開いた。
果たして、そこにいたのは、
「彩花……くん……?」
「ああ、そうだよ。ようやく全部取り戻したから、ここまで来た」
紛れもない、少女寄りの中性的な顔立ちや柔らかい態度は、真藤彩花そのものだった。
「城島先生もこっちに向かってるし、手負いの審査団も今さらだけど動き出したって言ってた。もう大丈夫だ」
いや、正確に言えば今までの彩花とはほんの少しだけ違う。今の彩花は、入学試験の前に初めて会った時の彼と同じ。あの時の彼に、忘れた記憶を思い出した彩花は無事戻ることができたのだ。
厳密な違いがあるわけではない。外見に関しては何も変わっていないし、内面にしたって性格が真逆になったわけでもない。だけど、確かに変わっている。いや、戻っている。言葉で表現しようとするならば、瞳に光が宿っている、とでも言うべきか。
今の彩花には―自らの意志がある。
まだ彼と短い付き合いしかない氷にでも、それを感じることができた。ついさっき襲ってきた黒い何かの禍々しさや恐ろしさとはまるで真逆。善という幼くて安っぽい言葉をそのまま体現したような、それでいて力強さを感じさせる雰囲気は、初対面の時に氷が感じた彼そのものだ。
彩花は氷に微笑みかけ、彼女の頭に手を乗せた。命の危機に瀕した氷を安心させようとしているのだろう。触れた手の平から暖かさがじんわりと体中に広がっていく。たったそれだけのことで、氷の緊張の糸はあっという間に緩んでしまった。
「少し待っててくれ。これは、俺が城島先生に頼まれたことだから」
優しい微笑を浮かべたまま、彩花は氷から視線を外す。その笑顔を可愛らしく思ってしまったことは、氷にとって最大の秘密になるだろう。
「それと、春神先輩とシーク先輩、赤星先輩もここは任せてくれませんか」
「……えっ!?」
続く彩花のごく自然な台詞に氷はばっ、と後ろを振り返る。するとどういうわけか、逆上した高椋に斬り捨てられたはずの契とシークが当然のように並んで立っている。全身が裂傷だらけだったはずなのに、二人ともちょっとした切り傷が何か所かあるだけだ。
「え、えぇっ!? なんで!? だって、さっき……!?」
「わりぃな、そこの犯罪者にやられたのは赤星の創った幻の俺とシークだ」
「にゃー。ハルハルが道路ぶっ壊して粉塵舞いまくってた時に入れ替わったにゃーよ」
あまりの衝撃的事実にぱくぱくと口を動かすものの、言葉が出てこなかった。ゆっくりと視線を動かすと、灯は二人と違ってかなり気まずそうな顔をしている。
「すいません、ついさっき城島先生から通信機を通した指示がありまして。高椋さんがキレたら隠れて時間を稼げというのが内容なんですけど、咄嗟のことで近くにいた二人を入れ替えるのが精一杯でした」
それを聞いて、氷は微妙に納得した。実は彼女、灯が代わりをしてくれるからということで零時を超えた時には通信機を外してしまっていたのだ。
「つぅか、赤星が自分で創ってる幻想相手に悲鳴あげてるからややこしぃんだろうがよ。しかも、結局俺たちも攻撃を食らっちまってるしよ」
「反省してます……。でも、いきなりの指示だったり、急にこっちに向かってくる真藤君が見えたりで、本当に混乱してたんですよ」
どうやら灯にしても悪意があってのことではないようだが、それではさっきの風と結界の限界ぎりぎりのせめぎ合いは何だったのか。間近まで迫っていた死への恐怖の反動もあり、氷は一気に脱力した。
その光景に安心したようにもう一度微笑んで、彩花は高椋の方に向き直った。全力の攻撃をいとも容易く防がれた不法入島者は、莫大なエネルギーを発した反動か上半身を折り曲げて切れ切れの呻き声を漏らしている。しかし、それでも視線だけは乱入者である彩花を睨みつけている辺り、おぞましいほどの執念を感じられた。
「貴様が……城島の用意した俺への抵抗策か。俺に刃向かうなら容赦はしないが」
暴風をまき散らすだけの余力がなくなってか、その口調は一転して落ち着いている。まともに立っていられるわけもないほどの重傷を負ってなお研ぎ澄まされたナイフのような鋭い口調は、敵でも流石と評すべきか。
自然と、向かい合う彩花の表情も引き締まる。
「策っていうのはやめてくれ。俺はただの英雄志望だ」
高椋に真っ向から対立する声で、彼は宣言する。
「俺は、お前を救いに来た」




