主人公ですら把握できていない物語 1
と、いうわけで。
「知っておくべきは未現体が暴走した場合のリスク。それくらいの記憶喪失ならマシな方だぞ」
「俺、入学試験からここで目を覚ますまでの記憶がほとんどないんですけど……これでマシなんですか」
「学園に入学しようってくらいだから、勉強しただろ?」
「知識としてですよ、経験としては初めてです」
一時間ほど寝たのに未だに痛みの引ききらない頭を振り、ベッドの上に座り込んでいる彩花は疲れたような息を吐く。ちなみにここが保健室だと知ったのはたった今だ。
灰城学園――通称学園。
通常の学校施設とは比べ物にならない規模を持つ日本最大と言っても過言ではない学園。どうやら彩花はその入学試験に合格したらしい。
どうやら、そこで問題を起こしたようなのだが。
(って、何したのか本当に覚えてないな……)
頭を抱えて悩む彩花の様子がさすがに心配になったのか、話し相手の社会人一年生も不安そうな表情を浮かべる。
「まだ具合が悪いのか? それならもう少し寝ておくことをお勧めするぞ」
「あ、いや、体調は大丈夫です。頭痛も治まってきたし……」
慌てて手を振って否定するが、社会人一年生は不安そうなままだ。どうやら彼は子どもっぽくてお人好しな、純真な少年がそのまま成長したような性格らしい。
「ただ、やっぱり記憶は戻らないんだなあ、と思って……」
「なにせすごい暴走だったからな。まず戻らないと思った方がいいぞ」
その時のことを思い出しているのか、うんうんと納得するように頷く社会人一年生。彩花も彼の立場なら、そうしていたのだろうか。
「もしかして、未現体のことまで忘れてないか?」
「さすがにそれはないです……」
「そうか? じゃあテストだ。未現体について説明せよ、だぞ」
「え? えっと……」
にやり。
考え込む生徒を前にした教師特有の笑みを浮かべる社会人一年生。彩花は覚えていないが、どうやらこの教師が彩花の受験の試験官をしていたらしい。
「これが答えられなかったら合格取り消しかもだぞ」
とりあえず、それなりに意地が悪い一面もあるらしいことは、はっきりした。
未現体――少し前に発見されて世界中で話題になった謎の物質。
鉱石でも粘土でもない、従来の物質のどれにも当てはまらない初めて発見された新物質。数多の研究者の手で解析され続けているが、今でも未知の領域が多い。
未現体の持つ特異な能力が確認されたのはその研究の最中。研究者がその能力についての論文を発表した時には誰もが一笑に付したが、今では誰もが当然の知識として知っているようなことだ。
簡単に言えば、未現体は超能力者を生み出すことができる。
少しだけ詳しく言えば、未現体を身につけた者は超能力者になれる。
何を馬鹿なことをと呆れ返る人間は今の世にはいない。何しろ、今はそのあまりにも特殊すぎる未現体も社会の発展のために広く取り入れられ、さらには未現体について学ぶための学校まであるくらいなのだ。
その中でも最大の規模を誇り、最先端を行くのが灰城学園。彩花がいつの間にか合格していた学園。どうやら彩花は実際に未現体を扱う実技試験で記憶が飛ぶほどのことをやらかしたらしい。社会人一年生は「暴走」と表現したが、本当の所どうなのかは記憶がないので分からない。
もちろんそれだけレベルの高い学校でもあり、合格すること自体が奇跡のようなものなのだが……
「よし、合格だぞ。知識まで消えてなくてよかったな」
にこにこと笑顔を浮かべながら言う社会人一年生だが、彩花としてはあまりいい気持ちではない。
(俺、合格したことも覚えてないんだよな)
理由はそれだ。
彩花は自分が試験のために必死の努力をしたことや試験に受かりたいと本気で持っていたそのこと自体は覚えている。しかし、肝心の試験やその時のことは欠片ほども覚えていないのだ。合格したとはいえ、素直に喜べるものでもない。
しかも、記憶が戻る見込みは限りなく薄いわけで……。
なんだか妙に落ち込んでしまう彩花の様子には気がつかない様子で、社会人一年生はバンバンと彩花の背中を叩く。励ましているようにも見えないことはないが、実際はテンションが高いだけだろう。
元気づけられないこともない……気はした。
「何はともあれ、今日はもう遅いし帰った方がいいぞ。今からだと帰り着くのはかなり遅くなるけどな」
その台詞で、湧いてきたようにも思えた元気はすっかり吹っ飛んだわけだが。
「……や、ヤバい! すっかり忘れてた!! ふ、船ってまだ出てるんですか……!?」
「未現島と日本の往復便はいつでも出てるぞ。昔と違って未現体のお陰で天候や時間、季節に関係なく安全な航行ができるようになったからな」
ただしその技術は秘密だぞ、と人差し指を顔の前に立てる社会人一年生。
「確かここから一番近いのは東区二十番だったか? ちょっと遠いし、車で送ってあげるぞ。それか帰り時間を重視するなら飛行機にしとくか?」
「いえ、船代しか持ってないんですよ。貯金が少ないのが悩みでして」
この二人の会話からある程度察せられるように、彩花がいるのは日本から遠く離れた離島である。
列島からの距離は時間にして船で約六時間。ちなみに未現体を用いて航行速度を引き上げ、従来のそれとは比べ物にならない性能を持った船でその時間だ。島の正式名称は未現体特別研究施設集合島だが、通称は未現島。長くて堅苦しい名前など誰も覚えはしないのだ。島の規模はかなりのものだが、はっきりしたことを知っているのは島の職員くらいのものだろう。
未現島。
未現体を研究するためだけに造られた孤島。あまりにも特殊に出来上がってしまった空間は、日本の領土でありながらまったく別の世界であるかのように扱われる。
その未現島内にある学業施設密集地帯の一角。その中でも最大手なのが、彩花が今回合格した灰城学園というわけだ。
未現島と日本の行き来は基本的に船か飛行機を使うしかない。どちらも相当な時間がかかるが、貴重な研究成果を他に漏らさないためのセキュリティの一環だ。そのため学校施設を利用する学生身分の者は寮に入るかアパートでも借りるかを選択するわけだが、今日が受験だった彩花には当然寮もアパートもない。
なので、急いで船で日本に戻ろうと考えている彩花だが、
「あれ? でも日本の方に帰り着くころには、向こうの終電だって終わってるんじゃないのか?」
「あ……」
社会人一年生の何気ない一言に、思わず間抜けな声を上げてしまっていた。
そう。彩花は失念していたが、未現体の技術が発達しているためにいつでも船を出せるような未現島と違って、日本ではまだそこまで技術が進歩していない。今から六時間かけて戻ったとしても、港から自宅へ帰れないのだ。
「寮か住宅施設はまだ借りてない……よな?」
「今日が受験なのに借りてるわけないじゃないですか! 本当なら今頃家にいるんですよ、俺。合格発表だってまだなんですよ」
「それもそうだな。……それじゃあ、今日は僕の家にでも来いよ。夜の学校に放っておくわけにもいかないからな。保護者の方にはちゃんと連絡しておいてあげるぞ」
ぽん。慰めるように社会人一年生の手が置かれ、彩花はがっくりと肩を落とした。