もう止まらない物語 3
―英雄になれるか。
その問いかけは、決して大袈裟なものではない。彩花だって警備隊のことは英雄視しているし、そこを目指すということは、自分だってそういう風に見られるということだ。普通の警察官になるのとは意味が違う。未現体を使って犯罪者と戦う警備隊は、いつだって人々の憧れの的なのだ。
しかし、彩花にはコンプレックスがある。トラウマと言ってもいい。少女めいた外見を理由に、半ばいじめにも近い嫌がらせを受け続けてきた心の傷が。幸いそれで家に引きこもってしまうようなことにはならなかったものの、そのことが原因で今の彼はちょっと目立ってしまうだけでも取り乱してしまうこともある。
英雄など、もっての外。
そのはずだが、
「俺は目指しますよ。……英雄を」
力強く、彩花はそう答えていた。
その瞬間、頭が割れるような頭痛が、頂点に達する。
「―ッ!! あ……ァアッッ!!」
脳を直接切り刻まれるような、未だかつてない激しい痛みと例えようのない不快感が神経に直接流れ込んでくる。腹の底から胃液が込み上げて来て、気持ちの悪い嘔吐感を必死になって堪える。立っていられずに膝を地面につく。上半身を起こしていることもできずに体が折り曲がり頭を地面に擦りつけることになるが、それを気にする余裕もない。
痛みはほんの数秒で通り過ぎたものの、余韻はそのまま頭の奥に残った。
いや、残ったものはもう一つ。
「これが……俺の失くした記憶……」
のろのろと緩慢な動作で顔を上げ、震えた声で彩花は呟く。通り抜けた痛みのせいか目の端に涙が浮かんでいたが、それにすら気づいていないようだった。
彩花の中には、失くしたはずの記憶が戻ってきていた。
♪♪♪ ―確かにあった物語―
これは、当事者以外は誰も知らない、しかし確実に存在した物語。
まだ若く、どこか頼りない、第一印象としては卒業したばかりの大学生のような男性。
初めて訪れた学園で彩花が出会ったのは、城島と名乗るそんな人物だった。
「例えば彩花、お前が超努力しさえすれば救えるものがあるなら、どうする」
そして城島が初対面の彩花にいきなり放った問いが、それだった。
「なんですか、いきなり? ていうか誰ですか?」
対する彩花の態度は、恐らく模範的なものだっただろう。初めて会ったばかりの男がいきなり名乗ってきて、しかも訳の分からない問いを投げかけられたら、警戒するなというのは無理な話だ。
「……直感だけどな。お前なら適合する気がするんだ」
眉を寄せる彩花の様子を気にする風でもなく、城島は独り言のように言葉を続ける。正直、不審者感全開だ。
「いや、済まない。これじゃ怪しい奴だな。ただ、教えてほしいんだ」
どうやら自覚はあったらしい。無自覚よりはマシかもしれないが、それはそれでたちの悪いことこの上ない。できればさっさとこの場から逃れたいが、城島の眼も何やら真剣だし、無視していくのも後味が悪そうだ。
なので、せめて質問には答えていくことにしてちょっと考える素振りを見せ―すぐに、考える必要もないことに気がついた。こんなの、わざわざ訊かれるまでもないことだ。だから、怪しい雰囲気全開の城島からちょっと距離を取りつつも、彩花ははっきりと答えた。
「俺なら……ていうか誰でもそうだと思いますけど、超努力しますよ。救えるものっていうのが何なのか知らないけど、救うことが悪いことだとも思えませんし」
むしろその返答に、城島の方が熟考するような表情になった。
「そうか……。うん、見ず知らずの女子生徒を、受験の時間が迫っているにもかかわらず手助けするような奴なら、きっとそう言ってくれると思ってたぞ」
しばらくすると、まるで幼い子供のように無邪気な笑顔を浮かべ、城島は去っていった。嵐のように突然現れて、いきなり姿を消してしまうその様子には、さすがに彩花も首を傾げるしかない。
「ていうか、さっきから見てたのか……?」
城島が最後に言っていたのは、季蜜氷のことだろう。ついさっき失くしものを探すのを手助けした女子生徒だが、人見知りなのか気弱なのか―恐らく両方だろうが―会話をするにも苦労した。連絡先などを聞いたわけでもないが、灰城学園の中等部の生徒だと言っていたし、友達にもなったのだから彩花の受験が成功すればまた会えるだろう。
とにかく困っているオーラが全身から出ていたので声をかけ、何とか会話の端々から困りごとを察して手を貸したわけだが、城島の言い方だとどうやらそれも見ていたらしい。偶然見かけただけのことだとは思うが、不審者じみた印象のせいか不気味にも感じる。
「……って、気にしてる場合じゃないか」
不快感を伴う寒気に身を震わせ、思わず腕を抱いてしまってから、彩花は思い直す。なんだか不可解なことがあって意識の隅の方に追いやられていたが、受験までもう時間がない。
何度も首を振って邪念を追い出し、彩花は学園に向かって駆けだした。
しかし―
一体どういう因果なのか、城島は彩花が入学を希望する学園の教師であり、しかも面接試験の試験官だった。
「それでは、面接を始めます」
先ほどとは打って変わって礼儀正しく丁寧な態度は、面接官としてのマニュアルに則ったものなのだろう。それで正しいのだろうが、かなり白々しい。どうやら城島の方はさっきのことについてはなかった方向で接してくる方針らしい。ていうか何この人。表情が全然ないんだけど。さっきの明るい笑顔は何だったの。
仕方がない。理由はどうあれ、向こうが徹底的に初対面を貫くつもりなら、こちらも合わせるべきだろう。
そう、思っていたのだが――
「先ほどの、努力をすれば、という話なのですが」
いかにも面接試験らしい定番の質問と、それに対応する定型文での受け答えの後、城島はそう切り出した。
「あくまでこちらの私情なのですが―」
そこから先は、電源を切ったように音が消えた。
♪♪♪
ようやく取り戻した記憶は、しかしまだ朧だった。
妙に尾を引く痛みの余韻を、頭を振り払って追い払う。ようやく頭がすっきりとまとまり始めるものの、まだ駄目だ。いや、違う。まだ思い出せないわけじゃない。ここから先は、自力で思い出せるものではないのだ。
まるで周囲に深い霧が立ち込めているかのような、先の見通せない嫌な空気。ここから先にも道はあることが分かっているのに、靄が立ち込めていてその道が見えない。
なんでだ。なんで思い出せない。自分の記憶なのに、誰かが―いや、何かが邪魔をしている。しかし、その何かの正体は見当もつかない。
「どうやら、可能な限りは思い出せたみたいだな」
地面に膝をつき、頭を抱えたまま困惑する彩花を見下すように、城島が声を発した。見下している、というよりも、感情がこもっていない声だ。そこにはわずかな期待が含まれている。そして、彩花がその期待を裏切ってしまった時、城島はどこまでも冷酷になるだろう。
「……可能な限りって、なんですか? 先生は俺の記憶の何を知ってるんですか」
だが、城島が彩花にどのような期待を向けているのか、見当もつかない。下手な返答をすれば目の前の教師が敵になってしまうかもしれない恐怖に耐えながらも、彩花は本心からの問いを投げかける。
「灰城学園で面接試験を受けていた時までの記憶。それが僕の言う、彩花が思い出せる範囲の記憶だぞ」
後の問いには答えず、城島は最初の質問にだけ答えた。その範囲の記憶なら取り戻している。むしろ、それ以外の記憶が戻らずに困惑しているのだ。
「そこから先は無理だろうな。未現体の能力で封印した記憶は、気合でどうにかできるほど甘くない」
彩花の思考を読んだかのように緩く首を振り、城島は右手の平を彼の頭に向けた。今まで気がつかなかったが、中指に指輪が通されている。汚れ一つない澄んだ白色に、金糸で装飾した存在感の強い指輪だ。
「僕の未現体は〝模倣盤〟の名を持つCランクだぞ。一度見ていて能力を理解している未現体に限り、その能力をコピーできる」
「それで、俺の記憶を封印したってことですか……?」
「いや、封印を行ったのは別のEランクだ。記憶を操るその能力は既にコピーしてある」
すぐに全部思い出す、と断言し、城島は白く輝く未現体を嵌めた右手の平を彩花に向けた。
「行くぞ。〝模倣盤〟」




