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羊の短編集。

冬の図書室で君は。

作者: シュレディンガーの羊
掲載日:2012/01/14





青空に浮かぶ入道雲と蝉の鳴き声。

グラウンドで走り回る運動部。

太陽を見上げて咲く向日葵。

煌めく喧騒と眩しい風景。

全部、外の世界の話し。





誰が言いだしたのかは、わからない。

噂とはそういうものだと思う。

確証も何もない。

誰も責任を持たない言葉。

それを信じるかどうかは、その人自身に委ねられる。

迷信だと笑うのは勝手。

でも、私はそんな誰かが笑う迷信を、信じたかった。

違う。

なんでもいいから、縋りたかった。





階段を駆け降りる。

リズミカルに靴の踵が鳴る。

心が弾む。

図書室に伝わる古い噂話。

友達に聞いて、直ぐさま飛びついた。

いつもなら鼻で笑うようなジンクス。

肩にかけた鞄が、階段を一段下りるたびに跳ねる。

それを抑え込みつつ、緩む口元に手を当てた。

この高校の図書室は基本的に利用者が少ない。

私だって、一度本を借りたきりだ。

その理由の一つは、すぐ近くに市立図書館があること。

それに加え、本を借りる時には紙の図書カードに名前を記入しなければいけない。

パソコンで管理された図書館とは大違い。

でも、だからこそ私は今、図書室に向かっているわけだけれど。

たどり着いたドアの前で一つ深呼吸。

夏独特の太陽を思わせる匂いを、胸一杯に吸い込む。

それから急かす鼓動を、焦らすようにゆっくりとドアを開けた。

その途端、空気がかわった。

踏み込んで、後ろ手に図書室唯一の扉を閉める。

エアコンが利いた涼しい空間。

閉め切られた窓が風を、そこに被さる深緑の厚いカーテンが光と熱を遮断する。

外の音が遠い。

立ち込める埃と、古い紙の匂い。

人工的な照明が白々と本棚を照らし出す。

それが妙に、冷え冷えと目に映った。

生き物の気配がない、静寂で塗り固められた部屋。

――――――死んだような世界。

そんな自分の想像を追い払うように、頭を振る。

私は頑張るんだ。

自分にもう何度も言い聞かせた言葉。

使い古されたからこそ、大切な言葉。

勉強するには、持って来いの場所だろう。

涼しくて、静かで、人気がなくて。

私は奥へと足を踏み入れる。

目的の席は一番奥の席。

本棚の角を曲がって、思わず息を呑んだ。

人がいた。

確かに人がいたのには驚いたけれど、それ以上に彼の纏う空気に呼吸を忘れた。

色素の薄い茶色の髪に、揃いの茶色い瞳。

華奢で白い手足。

猫を思わせる顔の造形。

彼は片膝を椅子の上で、抱え込みカーテンの閉められた窓を見ていた。

無表情と言っても差し支えのない表情だけど、それが綺麗だと思う。

溜め息を零した所で、気づいた。

彼の座っている席――――――噂のあの席だ。

頭を抱えたくなった。

一人しか利用者がいないのは、好都合。

でも、どうしてその一人があの席に座っているの。

それでも、私は彼の斜め前の席に腰を下ろした。

彼は私に目もくれず、いや、気づいていないのか窓を見続けている。

まさか、毎日来ている訳ではないだろうし、ここを自分専用席にしている訳でもないだろう。

とりあえず、今日はこの席で我慢しよう。

私はそう結論を出すと、勉強道具を机に広げた。





困ったことになった。

息を切らせて、走り込んだ図書室で私は肩を落とした。

あれから、1週間。

今だに、私はあの席に座れていない。

理由は簡単。

彼があの席をいつも、私より先に占拠しているからだ。

私だって教室からは全速力で走って来るし、うちのクラスは帰りのSHRが短いので有名なのに。

なのに、私が息を切らせて図書室に滑り込むと、きまって彼は当然のようにそこにいる。

いつもながらに、表情の欠落した顔で窓を見て。

そして、今日も。

しかもこの1週間、彼は勉強をするでもなく、本を読むそぶりさえ見せない。

ただ、カーテンから少し除く外を見ている。

始めは良かったのだ。

神秘的な少年が、死んだような空間にいる。

物語みたいだと、少し楽しかった。

けれど、自分が走ってでも手に入れたい場所に、平然と存在する彼。

今日が我慢の限界だった。


「ただ座ってるぐらいなら、その席、私に譲りなさいよっ」


彼の目の前で叫ぶ。

緩慢に振り返った彼の瞳が、私を映す。

透明度の高い茶色が私を見る。

表情が死んだ目に、生気が灯る。

開かれた口から、見た目通りの澄んだ声が零れた。


「毎日」


綺麗なボーイソプラノ。


「毎日」


口の端が、静かに上がる。


「俺の斜め前に座るから、てっきり俺に惚れてるのかと思った」


綺麗な顔が、シニカルに笑みを作る。

聞いた言葉がよく分からなかった。


「はい?」

「なぁんだ、この席が狙いだったのか」


ハズレた――――――肩を竦めて見せる。

理解の追いついた頭が、沸騰する音を聞いた。


「こ」

「こ? 何それ、ニワトリ?」


首を傾げた彼に、手に持っていたものを投げつけた。

それをひょいと避けた彼にさらに、頭に血が上って叫んだ。


「この詐欺師ーっ!」


顔がこんなに綺麗で、性悪なんて詐欺だ。

ずっと心の中で私を笑ってたんだから。

耐え切れなくて、そのまま踵を反して図書室を走り出た。

いろんなことが悔しい。

その日はそのまま、家に帰って寝た。

ベッドの中で、あれが無表情以外の始めて見た表情なんだと思った。

それに気づいて、何故か少し悲しくなった。

その日は、よく覚えていないけど、とても悲しい夢を見た気がする。





翌日の放課後、図書室に入ると彼が先にこちらに気づいた。


「もう、来ないかと思った」


大きな目をさらに見開いて、彼は呆然と呟いた。

その視線に晒されるのが耐えられなくて、私は目をそらして彼の斜め前の席に腰を下ろす。


「昨日は、悪かったわ」


目を見れず、照れからぶっきらぼうになった言葉。

本当は、素直に頭を下げるつもりだったのに。


「ものを投げるほどぢゃなかったし」

「柚葉」

「え?」


不意に遮られた台詞を、聞き返す。


「ちなみに俺は、日向 葵」


冗談めかした笑い。


「なんで、私の名前知って……」

「昨日、これ俺に向かって投げたろ」


放られたのは、私の生徒手帳。

昨日、投げつけたのは生徒手帳だったのかと今やっと気づく。


「今時、生徒手帳に個人情報しっかり書き込んであると危ないよ」

「み、見たわねっ」


笑いを噛み殺せずにいる葵が、私を指差して言う。


「望月 柚葉。高校3年、17歳。誕生日は9月4日。A型。身長164cm。体重は」

「言うな、言うな、言うなーっ」


私は慌てて、葵の口を塞ごうとする。

葵は悪戯っぽく笑った。


「言わない、言わない」


その瞳が一瞬、淋しげに見えて瞬きする。

でも、また開いた目に映るのは変わらない笑顔だった。


「ところで柚葉はなんで、俺の特等席を狙ってんのさ?」


名前の呼び捨てに戸惑いながら好奇心の質問に、私は平静を装って勉強道具を机に広げなから答える。


「その席には、噂があるのよ」


私は葵を見据えると、友達から聞いた噂を話しはじめた。




この高校には守護霊がいる。

その守護霊は本を愛していて、図書室によくいるらしい。

特に一番奥の席がお気に入り。

だから、その席に座って願いごとをすると守護霊が叶えてくれる。

守護霊はこの高校を愛し、生徒を愛しているから。




簡単にまとめた噂に、葵は少し目を細めて笑った。


「つまり、柚葉は願いごとを叶えてもらいにきたの?」

「違うわよ」


首を振って、否定する。


「私、そういうのに頼るのあんまり好きぢゃないの。だから、手助けのつもり」


自分は自分で精一杯頑張るの――――――広げた問題集に目を落とす。

私の願いは第一志望の大学に進学することだから。

数学の問題を解きはじめながら、そういえばと、思い出し笑いをする。


「初めて、図書室に来た時は葵が守護霊かもって思ったけど」

「あ、何、俺の美少年さに嫉妬した?」

「そういうこと、自分で言わない」


おどけたような台詞に、思わず苦笑する。

美少年で、性格は俺様なんて、個性的な人だと思う。

それに、これまでのあの無表情は何処にいったのかと云う笑いぶり。

途切れた会話に、問題集を解くふりをしつつ顔を盗み見る。

変わらなかった。

カーテンから、わずかに除く夏を見ているその顔に笑みはない。

近くから、見て気づいたこと。

淋しい目をしている。

どことなく影のある瞳。

胸が痛い。

距離は近くなったはずなのに、遠い人。

そう感じた。

図書室はやっぱり少し淋しい。





それから、私は毎日飽きもせずに図書室に通った。

相変わらず、私が図書室に来ると葵は、あの席を占拠していて。

でも、始めの1週間とは違う。

葵は私を見つけると、笑って手を振ってくれる。

私は勉強をして、その合間に葵と他愛もない話しをするのが日課になった。

葵といえば、私と話す以外はやっぱり変わらない。

窓の外を眺めている。


「夏、好きなの?」


一度だけ尋ねてみた。

冬を感じさせる図書室。

夏の煌めきから隔離された場所。

喧騒も、蝉時雨も遠い音となって耳に届く。

静かと言うには、あまりに淋しすぎる空間で外を見つめ続けるから。


「いや、賑やかくて鮮やか過ぎて苦手」


へらっと笑った顔が、その時は嘘つきに見えた。

少しむきになる。


「私は好きだな。ひまわり、好きだし」

「ひまわりは余計に苦手」

「なんで?」

「前向きってか、上向きだから」


冗談のように、肩を竦める。

葵の話し方は、いつも大切なところがすっぽり抜けているみたいな気がする。

でも、私は何故かそれ以上踏み込めなかった。

踏み込んではいけない気がした。


「せっかく図書室にいるなら、本ぐらい読みなよ」

「俺、本はあんまり好きぢゃないんだな」

「じゃあ、葵って何が好きなの?」


何を言っても、かわされるようでむすっとして聞く。

葵は少し考えてから、ひらひらと目の前で手を振った。


「ないよ」

「は?」

「好きなもの」

「ひとつも?」

「あ、自分のことは好き」

「ナルシストかっ」


私がツッコむと、楽しそうにけらけら笑った。

葵を見ると、悲しくなる。

何故か分からないけど、悲しくなる。

彼が笑うたびに、何かが軋む音を聞く。

その音が何を示すのか、私は分からない。





葵と図書室で話すようになって、3週間が経った。


「明々後日は終業式だね」


古文の問題集を閉じて、息を吐く。

もう、随分いろんな話しをした。


「柚葉」

「何?」

「将来、何になりたいの?」


唐突な質問。

緊張で背筋が伸びる。


「わ、笑わない?」

「笑わない、多分」


堂々としたその物言いに、緊張が解ける。

ひとつ深呼吸をして、迷いなく口を開く。


「医者になりたい」


その時の葵の表情。

一瞬のタイムラグ。


「なら、俺が重病になったら診察させてやるよ」


一瞬の違和感を消し去るような、見事な俺様っぷり。

私は笑って、聞き返した。


「葵は?」

「この図書室の守護霊」

「うわっ。私が前に言ったこと、まだ根に持ってるの?」


笑い混じりの言葉に、葵は目を細めて微笑むだけで答えない。


「でも、それ生まれ変わらなきゃ無理だよ」

「もし、なれたら特別に柚葉の願いごと一番に叶えてやるよ」


葵が歯を見せて満面の笑みを見せる。

つられて、私も顔が綻ぶ。


「ありがとう」

「感謝しとけ」


私は腕時計を見て、勉強道具を片付け始める。

全ての問題集と参考書を鞄に詰め込むと立ち上がる。


「もう7時半だから帰るね」

「あぁ」


葵は7時半に私を見送ってくれるけど、自分はいつも何時に帰るのだろう。

今日、始めてそれを謎に思う。

背を向けようとした途端、葵に呼び止められた。


「柚葉」


振り返れば、葵が立ち上がる。

少しだけの空白。


「何?」


私はその沈黙に、首を傾げる。

葵は破顔して言った。


「この席、明日から柚葉にやるよ」

「え、本当!?」

「本当」


人工的な明かりが、葵の白い肌を浮かび上がらせる。

前より、腕が少し細くなった気がした。


「少し早い、誕生日プレゼント」

「嬉しいっ。ありがとう」

「あぁ、じゃ」


さよなら――――――葵が手を上げる。

白い照明が、葵の表情を曖昧にさせる。

少し嫌な予感がした。


「うん、じゃ」


でも、その不安を振り払うように明るく笑って手を振った。

葵もいつもより、元気に手を振ってくれた。

図書室から出ると、少し肌寒かった。

昼間の様子からは、想像のつかない静けさの廊下。

暗い靴箱を通過して、あっと思う。

私、葵の誕生日を知らない。

いや、誕生日だけぢゃない。

血液型も、学年も、クラスも。

それはひどく今更のことだった。

私、葵のこと全然知らないんだ。

知らず知らずに、後ろを振り返る。

図書室は見えない。

背後に広がるのは、暗い夜の廊下だけ。

でも、いいや。

明日、質問攻めにしてやろう。

そう考えると、少し楽しくなった。

何を聞こう、こう質問したら何て答えるんだろう。

そんなことを思うと、心が弾んだ。

明日が、楽しみでスキップしそうになったけど、転びそうだし、恥ずかしいから止めた。





「近頃、楽しそうだね」


クラスの友達が卵焼きをほうばって、嬉しそうに言った。

葵への質問で頭がいっぱいだった私は、お弁当の蓋を持ったまま、ぎこちなく首を傾ける。


「そ、そうかな?」

「好きな人でも出来た?」


意地悪く笑う彼女に、全力で否定する。


「違うよ。葵はそんなんじゃ」

「葵?」


私の発した言葉に、今度は彼女の表情が変わる。

その反応にあれ、と思う。


「知ってるの?」

「日向 葵? あの2年で病気の?」


次の瞬間、頭が真っ白になった。

世界が途端に色をなくす。


「え……?」


自分の声がひどく遠い。

次の友達の台詞に、今度は目の前が真っ暗になる。


「知らない? 夏休み前に、手術するって有名だよ」





「葵っ」


あの後、授業が全く頭に入らなかった。

最終の授業終了同時に、教室を走り出た。

背中越しに友達が、私を呼んだ気がしたけど振り返れなかった。

図書室のドアを、乱暴に開ける。

物を大切に、なんて今はどうでもいい。


「葵っ」


病気なんて嘘でしょう。

手術なんて冗談でしょう。

いつもみたいに、笑って否定してよ。


「あお」


続くはずの言葉は続かなかった。

葵はいなかった。

一番奥の席は無人だった。

葵がいなかった。

いつもなら、笑って私を迎えてくれた。

頭の中で、鐘が鳴り響く。

頭が痛い。

思考が正常に機能しない。

空回りする。


「隠れてるんでしょ? 悪い冗談止めてよ」


声が裏返る。

本棚の間を歩き回る。


「昨日、あの席くれるって言ったから?なら、いらないよ。あの席はずっと葵の席でいいよ」


本当は分かってる。


「ねぇ、今日は葵に聞きたいことが沢山あるの。誕生日にプレゼント、欲しいでしょ」


零れ落ちる意味のない言葉。

それでも、溢れ出す言葉は止まらない。

物分かりなんて、良くなくていい。

認めたくない。


「ねぇ、葵。出て来てよ」


本当は分かってる。


「葵っ」


ここに葵はいない。

もう、いない。


「葵……っ!」


いない。

答が出てしまった。

ずるずるとそのまましゃがみ込む。

呆然とする。

何も考えられない。

無意識に、目が葵を探す。

あの席にいつも、片膝を抱えて。

時折、私の視線に気づいて、照れ隠しに毒舌で。

いつも、笑って。

でも、時々、本当に時々、淋しそうな目をして。

いつも、私の話しを意地悪に茶化して。

いつも――――――

立ち上がる。

おぼつかない足どりで、一番奥の席に近づく。

――――――ここに、葵がいて。

途端に涙が溢れた。

関を切ったように、次から次へと頬を伝う。

今、やっと分かった。

私はこの席の為に、図書室に通ったんぢゃない。

ましてや、勉強の為でもない。

葵がここにいたから。

葵がここにいたから、通い続けたんだ。

もう立っていられなかった。

崩れるように椅子に座り込む。

自覚された想いに、胸が痛む。

軋んだ音の正体を理解する。

でも、もう遅い。

両手で顔を覆う。


『脳に腫瘍があるらしいの。まだそんなに大事には至ってないけど、そのままにしとくと死に至るらしくて』


昼休みのやり取りがフラッシュバックされる。


『もしかしたら、今回の手術で』


友達の声で、呪いが囁かれる。


『命を落とすかもしれないらしいよ』


心が音をたてて、壊れていった。





何時間、そうしていただろう。

一番奥の席で机に突っ伏して泣きつづけた。

こんな気持ちで、座る為の席ぢゃなかったのに。

朦朧とした頭が、かろうじて人の気配を捕らえた。

顔を上げる。

涙で視界がぼやける。

机に押し付けていた額が痛い。

その人は、はっとしたようだった。


「もしかして、望月さん……?」


驚く気力も頷く余力もなかった。

涙を拭って、その人をもう一度見る。

図書室教諭の笹本さんだった。





差し出された濡れタオルを、泣き腫らした目に押し当てる。


「日向くんはね、元々不器用な子でね」


音だけになった暗闇の世界に、笹本さんの声が優しく響く。


「腫瘍が見つかって、さらに不器用になってしまって」


困ったように笑う気配に、私は少し落ち着きを取り戻す。


「だから、望月さんのことを初めて話してくれた日は驚いたわ。何かに執着したり、興味を持つ性格ぢゃなかったから」


その日を、思い出したように笹本さんの声が和らいでいく。

私が帰った後、葵は親の車が迎えに来るまで、笹本さんとよく話しをしたらしい。


「あなたが初めて、図書室に来た日は、気になってしょうがなかったって言うの。でも、ああ見えて照れ屋だから、話し掛けられないって。地味な席の取り合いも楽しそうにしてた」


葵は保健室登校をしていたらしい。

でも、保健室の匂いが嫌いで、いつも図書室に逃げてきていたそうだ。

葵のいない図書室で、私の知らない葵の姿が語られていく。

目頭が熱い。

私は葵の何を知った気でいたんだろう。


「初めて話した日ははしゃいでた分、へこんでたなぁ。自分だけ楽しんで怒らせた、明日からこないかもって」

「本当は違うんです」


ぽつりと呟いた。

この人になら、本音を話してもいい気がした。


「席のことで怒ったのは、言い訳です。本当は一度でいいから、私を見て欲しかっただけ」


葵はいつも窓を、浮世離れした瞳で見ていた。

その視界に私はいなかった。

それが本当は悔しかった。

悲しかった。


「でも、見てくれたと思ったら、本音ばかり隠した話し方をするから」


あれが冗談だなんてすぐに分かったし、悪気がないのも分かった。

でも、軽くあしらわれた様でつい怒鳴ってしまった。


「ふふっ。嫌ね、男の子って」


笹本さんが乙女のように、くすくすと笑う。

私もつられて、少し笑った。


「日向くんは、手術を頑張るって言ってたわ。望月さんも頑張ってるからって」

「私、医者になりたいんです」

「えぇ、聞いたわ」

「葵を傷つけたかもしれません」


あの違和感は、葵の痛みだった。

自分の鈍さに舌打ちしたくなる。


「私は」


笹本さんがゆっくりと言う。


「望月さんに感謝してるわ」


その言葉に、俯き気味の顔を上げる。

目からタオルを引き離す。

淡くぼやけた視界で、笹本さんが笑う。


「だって、生きたいって言ってたもの。日向くんが昨日、またここに帰って来たいって言ったもの」

「葵……」

「望月さんのおかげよ」


包み込むような、温かい声。

泣きたくなった。

でも、それはさっきの涙とは違う。


「あり、がとうこざいます」


泣いてもいいと思った。

明日、笑えるなら、この涙を無駄にしないなら。


「私、葵には何か秘密があるって分かってました。でも、聞けなかった」


笹本さんは何も言わなかった。

その優しさに心の中で一つ感謝する。


「だって、聞いてしまったら葵にはもう会えない気がしたんです」


儚い横顔を思い出す。

夏の生命力に目を細めていた。


「私は怖かったんです。だから、知らないふりをした」


葵のことを知りたいと言いながら、ずっと目を逸らしてきた。

踏み込んでしまったら、もう引き返せないと思った。


「聞いてみれば良かった。葵から聞きたかった。どうして言ってくれなかったの」


いつか葵の方から話してくれるかもしれない。

そんな甘えがあった。

私、そんなに頼りないかな。

手で顔を覆う。

後悔ばかりが溢れていく。


「葵に会いたい……っ」


言葉と共にまた涙が溢れる。

再び泣き出した私が落ち着くまで、笹本さんはそばにいてくれた。





図書室はいつも冬の香りがする。

淋しくて、冷たくて、息を潜めるような静けさがあるから。

葵にはやっぱり、夏より冬が似合う。

だから、葵が夏の日差しの下にいる所なんて想像できなかった。

それでも、冬の図書室から葵はずっと外の夏を見ていた。

遠い世界を見ていた。

どんな気持ちだったの?

羨望、憎悪、愛しさ、悲しみ?

私には分からない。

葵のいない図書室に、淋しさだけが白く降り積もっていく。





夏休みはほとんどを自室か塾で過ごした。

外出は、したくなかった。

夏らしさを見つけるたびに、泣きそうになるから。

必死に勉強した。

何も考えたくなかった。

がむしゃらに問題を解きまくる。

そんな風に夏は過ぎた。

高校最後の夏はそんな風に終わった。





久しぶりの学校は、秋に染まりつつあった。

校庭の向日葵は枯れてあの煌めきも今はない。

疎ましくさえ思っていた蝉の声が、聞きたくなった。

始業式で語られる抱負、大学進学に意気込む同級生。

校長先生お決まりの「未来ある若者」という話し。

いろんな言葉に心が静まっていく。

図書室に行きたいと思った。

行きたくないと思った。

分からなかった。

私はどうしたんだろう?

尋ねても、波紋はすぐに止んだ。

心は揺れなかった。

きっと全部、違った。

始業式が終わると、私は友達に一言告げてから駆け出した。





思い出すのは、他愛のないことばかり。

たくさんの思い出の中を駆け抜けていく。

意地悪く笑う顔。

俺様っぷりな口調。

初めて話した日。

嬉しくて、悔しくかった。

あの日、見た夢はやっぱり思い出せない。

机に広がる問題集。

覗き込んでは潜められる眉。

脈絡のない会話。

重なる笑い声。

微かな夏の香り。

最後に浮かんだのは、別れた日。


「柚葉」


呼び止めたあの時、葵の顔はひどく苦しそうだった。

躊躇うその表情が見ていられなくて、思わず口を挟んでしまった。

もし、と思う。

私があの時、口を挟んでいなければ葵は何を言うつもりだったの?

葵は私に何を伝えようとしてくれたの?

勢いよくドアを開けた。

全ての記憶が花びらのように、散っていった。

その向こうには。

静かな図書室は日差しが弱くなった為か、窓が開いていた。

カーテンが風に膨らみ揺れている。

そして、誰もいなかった。

葵も笹本さんもいなかった。

動揺はなかった。

以前のように泣きわめき、取り乱すこともない。

一番奥の席に腰を下ろす。

懐かしいような、淋しいような気がした。

1ヶ月以上も来なかったのだから、それもそうかと苦笑する。


「葵」


目を閉じて呼び掛けてみる。

まぶたの裏の葵が振り返った。

何、と唇が言葉を形作る。


「待つよ。今度は私が待つよ」


今までは迎えてもらってばかりだった。

だから今度は、私が葵を迎えたい。

ここに帰って来たい。

葵はそう言った。

だから、私は君の帰りを待つよ。

心が澄んでいく。

答はいつだって私の胸の中にあった。

暗闇の中で葵が目を細めて笑う。

頷き返して、私は目を開いた。

足音が聞こえる。

初めて聞く足音が聞こえる。

でも、懐かしいと思った。

ドアが開く音がした。

思っていたよりずっと心は落ち着いていて、私は笑いかけた。


「おかえり、葵」


少しだけ背が伸びて、頭に包帯が巻いてある。

それでも、葵だった。

葵はゆっくりと瞳を瞬く。

言うべき言葉を探すような、見つけるようなそんな沈黙がおちる。

私は口を挟まなかった。

あの日のように、聞き逃したくなかったから。


「俺、柚葉が願いごとのためにその席に座りたいって言った時、正直むっとしたよ」


立ち止まって、距離を縮めずに葵はそう口を開いた。


「他力本願なだけかって。この席に座っても願いは叶わないって言おうとした」


瞳に過ぎる色は淋しく、秋の空気によく似ていた。


「俺は世界がこのままなくなればいいって願ってたし」


悔やむような、嘲笑うような言葉。

窓の外は秋の香りに満ちる。

もう夏は終わってしまった。

今さらに思い知る。


「柚葉が守護神かと思ったって言った時、いいなって思った。柚葉の願いを叶えられるなら、守護神になるのも悪くないかなって」


優しげな眼差しを伏せて、葵はそう言った。

その表情に静かだった心にたくさんの波紋が生まれる。

思考がだんだんと熱くなっていく。

私はポケットから紙を取り出した。

丁寧に出そうとしたのに、手が震えて紙はくしゃくしゃになった。


「馬鹿っ」


くしゃくしゃになってしまった紙を葵に投げつける。

紙は無抵抗の葵に当たることなく手前で床に落ちた。

とたんに目頭が熱を持つ。

それだけでいままで押さえ込んでいたものが溢れ出す。


「私はそんなつもりで言ったんじゃないっ。葵の馬鹿っ」


葵は驚きで目を見開いている。

その姿に鼻がつんとした。


「葵にっ、叶えてもらわなくても大丈夫なんだからっ」


葵がやっと腰を折って、落ちた紙を拾う。

丁寧にしわを直し、紙を見る。

あの紙は夏休み最後に受けた全国模試の合格判定。

夏休みすべてをそそぎ込んだ結果。

本当は笑って見せてすごいぢゃんと言ってもらうはずだったのに、結局叫びながら投げつけてしまった。

いろんな思いが頭の中で混ざる。

枷が外れて、ぼろぼろと涙が溢れた。


「だから、葵は生きててよ!」


駄々をこねた子供のように言う。

頭が熱くて回らない。

葵は紙から顔を上げる。

泣いている私を見ると、くしゃりと破顔した。


「B判定じゃんか」

「今からまた頑張るからいいのっ」


懐かしい口調に素直に涙が頬を伝う。

情けなさや安堵や淋しかったあの日が、押し固めたいろんなものが、涙と一緒に溶けていく。


「俺、夏もひまわりも本も嫌いになって、でも柚葉が頑張ってるの見て生きたいって思った。柚葉が頑張るなら、俺も頑張りたいって」

「私も葵が頑張るって聞いたから、頑張れた。私は一緒に頑張りたかったからっ」


伝えたかったこと。

同じことを葵も考えていてくれた。

その真実にまた涙が零れる。


「葵」


呼びかける。


「ん?」


首を傾げて、葵が一歩近づく。

秋の風が舞い込む。

あの夏はもう二度と帰ってこない。

悲しいくらいに何度も何度も理解した。

でも、葵は帰ってきた。

約束通り、ここに帰ってきた。

私はただ、それだけで――――――

小さく息を吸ってから、笑って伝える。


「おかえり……っ」


微笑むつもりが泣き笑いになった。

笑った瞬間に涙が一筋、頬を伝う。

葵も笑った。

泣きそうに笑って応えた。


「ただいま、柚葉」





fin




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