冬の図書室で君は。
青空に浮かぶ入道雲と蝉の鳴き声。
グラウンドで走り回る運動部。
太陽を見上げて咲く向日葵。
煌めく喧騒と眩しい風景。
全部、外の世界の話し。
誰が言いだしたのかは、わからない。
噂とはそういうものだと思う。
確証も何もない。
誰も責任を持たない言葉。
それを信じるかどうかは、その人自身に委ねられる。
迷信だと笑うのは勝手。
でも、私はそんな誰かが笑う迷信を、信じたかった。
違う。
なんでもいいから、縋りたかった。
階段を駆け降りる。
リズミカルに靴の踵が鳴る。
心が弾む。
図書室に伝わる古い噂話。
友達に聞いて、直ぐさま飛びついた。
いつもなら鼻で笑うようなジンクス。
肩にかけた鞄が、階段を一段下りるたびに跳ねる。
それを抑え込みつつ、緩む口元に手を当てた。
この高校の図書室は基本的に利用者が少ない。
私だって、一度本を借りたきりだ。
その理由の一つは、すぐ近くに市立図書館があること。
それに加え、本を借りる時には紙の図書カードに名前を記入しなければいけない。
パソコンで管理された図書館とは大違い。
でも、だからこそ私は今、図書室に向かっているわけだけれど。
たどり着いたドアの前で一つ深呼吸。
夏独特の太陽を思わせる匂いを、胸一杯に吸い込む。
それから急かす鼓動を、焦らすようにゆっくりとドアを開けた。
その途端、空気がかわった。
踏み込んで、後ろ手に図書室唯一の扉を閉める。
エアコンが利いた涼しい空間。
閉め切られた窓が風を、そこに被さる深緑の厚いカーテンが光と熱を遮断する。
外の音が遠い。
立ち込める埃と、古い紙の匂い。
人工的な照明が白々と本棚を照らし出す。
それが妙に、冷え冷えと目に映った。
生き物の気配がない、静寂で塗り固められた部屋。
――――――死んだような世界。
そんな自分の想像を追い払うように、頭を振る。
私は頑張るんだ。
自分にもう何度も言い聞かせた言葉。
使い古されたからこそ、大切な言葉。
勉強するには、持って来いの場所だろう。
涼しくて、静かで、人気がなくて。
私は奥へと足を踏み入れる。
目的の席は一番奥の席。
本棚の角を曲がって、思わず息を呑んだ。
人がいた。
確かに人がいたのには驚いたけれど、それ以上に彼の纏う空気に呼吸を忘れた。
色素の薄い茶色の髪に、揃いの茶色い瞳。
華奢で白い手足。
猫を思わせる顔の造形。
彼は片膝を椅子の上で、抱え込みカーテンの閉められた窓を見ていた。
無表情と言っても差し支えのない表情だけど、それが綺麗だと思う。
溜め息を零した所で、気づいた。
彼の座っている席――――――噂のあの席だ。
頭を抱えたくなった。
一人しか利用者がいないのは、好都合。
でも、どうしてその一人があの席に座っているの。
それでも、私は彼の斜め前の席に腰を下ろした。
彼は私に目もくれず、いや、気づいていないのか窓を見続けている。
まさか、毎日来ている訳ではないだろうし、ここを自分専用席にしている訳でもないだろう。
とりあえず、今日はこの席で我慢しよう。
私はそう結論を出すと、勉強道具を机に広げた。
困ったことになった。
息を切らせて、走り込んだ図書室で私は肩を落とした。
あれから、1週間。
今だに、私はあの席に座れていない。
理由は簡単。
彼があの席をいつも、私より先に占拠しているからだ。
私だって教室からは全速力で走って来るし、うちのクラスは帰りのSHRが短いので有名なのに。
なのに、私が息を切らせて図書室に滑り込むと、きまって彼は当然のようにそこにいる。
いつもながらに、表情の欠落した顔で窓を見て。
そして、今日も。
しかもこの1週間、彼は勉強をするでもなく、本を読むそぶりさえ見せない。
ただ、カーテンから少し除く外を見ている。
始めは良かったのだ。
神秘的な少年が、死んだような空間にいる。
物語みたいだと、少し楽しかった。
けれど、自分が走ってでも手に入れたい場所に、平然と存在する彼。
今日が我慢の限界だった。
「ただ座ってるぐらいなら、その席、私に譲りなさいよっ」
彼の目の前で叫ぶ。
緩慢に振り返った彼の瞳が、私を映す。
透明度の高い茶色が私を見る。
表情が死んだ目に、生気が灯る。
開かれた口から、見た目通りの澄んだ声が零れた。
「毎日」
綺麗なボーイソプラノ。
「毎日」
口の端が、静かに上がる。
「俺の斜め前に座るから、てっきり俺に惚れてるのかと思った」
綺麗な顔が、シニカルに笑みを作る。
聞いた言葉がよく分からなかった。
「はい?」
「なぁんだ、この席が狙いだったのか」
ハズレた――――――肩を竦めて見せる。
理解の追いついた頭が、沸騰する音を聞いた。
「こ」
「こ? 何それ、ニワトリ?」
首を傾げた彼に、手に持っていたものを投げつけた。
それをひょいと避けた彼にさらに、頭に血が上って叫んだ。
「この詐欺師ーっ!」
顔がこんなに綺麗で、性悪なんて詐欺だ。
ずっと心の中で私を笑ってたんだから。
耐え切れなくて、そのまま踵を反して図書室を走り出た。
いろんなことが悔しい。
その日はそのまま、家に帰って寝た。
ベッドの中で、あれが無表情以外の始めて見た表情なんだと思った。
それに気づいて、何故か少し悲しくなった。
その日は、よく覚えていないけど、とても悲しい夢を見た気がする。
翌日の放課後、図書室に入ると彼が先にこちらに気づいた。
「もう、来ないかと思った」
大きな目をさらに見開いて、彼は呆然と呟いた。
その視線に晒されるのが耐えられなくて、私は目をそらして彼の斜め前の席に腰を下ろす。
「昨日は、悪かったわ」
目を見れず、照れからぶっきらぼうになった言葉。
本当は、素直に頭を下げるつもりだったのに。
「ものを投げるほどぢゃなかったし」
「柚葉」
「え?」
不意に遮られた台詞を、聞き返す。
「ちなみに俺は、日向 葵」
冗談めかした笑い。
「なんで、私の名前知って……」
「昨日、これ俺に向かって投げたろ」
放られたのは、私の生徒手帳。
昨日、投げつけたのは生徒手帳だったのかと今やっと気づく。
「今時、生徒手帳に個人情報しっかり書き込んであると危ないよ」
「み、見たわねっ」
笑いを噛み殺せずにいる葵が、私を指差して言う。
「望月 柚葉。高校3年、17歳。誕生日は9月4日。A型。身長164cm。体重は」
「言うな、言うな、言うなーっ」
私は慌てて、葵の口を塞ごうとする。
葵は悪戯っぽく笑った。
「言わない、言わない」
その瞳が一瞬、淋しげに見えて瞬きする。
でも、また開いた目に映るのは変わらない笑顔だった。
「ところで柚葉はなんで、俺の特等席を狙ってんのさ?」
名前の呼び捨てに戸惑いながら好奇心の質問に、私は平静を装って勉強道具を机に広げなから答える。
「その席には、噂があるのよ」
私は葵を見据えると、友達から聞いた噂を話しはじめた。
この高校には守護霊がいる。
その守護霊は本を愛していて、図書室によくいるらしい。
特に一番奥の席がお気に入り。
だから、その席に座って願いごとをすると守護霊が叶えてくれる。
守護霊はこの高校を愛し、生徒を愛しているから。
簡単にまとめた噂に、葵は少し目を細めて笑った。
「つまり、柚葉は願いごとを叶えてもらいにきたの?」
「違うわよ」
首を振って、否定する。
「私、そういうのに頼るのあんまり好きぢゃないの。だから、手助けのつもり」
自分は自分で精一杯頑張るの――――――広げた問題集に目を落とす。
私の願いは第一志望の大学に進学することだから。
数学の問題を解きはじめながら、そういえばと、思い出し笑いをする。
「初めて、図書室に来た時は葵が守護霊かもって思ったけど」
「あ、何、俺の美少年さに嫉妬した?」
「そういうこと、自分で言わない」
おどけたような台詞に、思わず苦笑する。
美少年で、性格は俺様なんて、個性的な人だと思う。
それに、これまでのあの無表情は何処にいったのかと云う笑いぶり。
途切れた会話に、問題集を解くふりをしつつ顔を盗み見る。
変わらなかった。
カーテンから、わずかに除く夏を見ているその顔に笑みはない。
近くから、見て気づいたこと。
淋しい目をしている。
どことなく影のある瞳。
胸が痛い。
距離は近くなったはずなのに、遠い人。
そう感じた。
図書室はやっぱり少し淋しい。
それから、私は毎日飽きもせずに図書室に通った。
相変わらず、私が図書室に来ると葵は、あの席を占拠していて。
でも、始めの1週間とは違う。
葵は私を見つけると、笑って手を振ってくれる。
私は勉強をして、その合間に葵と他愛もない話しをするのが日課になった。
葵といえば、私と話す以外はやっぱり変わらない。
窓の外を眺めている。
「夏、好きなの?」
一度だけ尋ねてみた。
冬を感じさせる図書室。
夏の煌めきから隔離された場所。
喧騒も、蝉時雨も遠い音となって耳に届く。
静かと言うには、あまりに淋しすぎる空間で外を見つめ続けるから。
「いや、賑やかくて鮮やか過ぎて苦手」
へらっと笑った顔が、その時は嘘つきに見えた。
少しむきになる。
「私は好きだな。ひまわり、好きだし」
「ひまわりは余計に苦手」
「なんで?」
「前向きってか、上向きだから」
冗談のように、肩を竦める。
葵の話し方は、いつも大切なところがすっぽり抜けているみたいな気がする。
でも、私は何故かそれ以上踏み込めなかった。
踏み込んではいけない気がした。
「せっかく図書室にいるなら、本ぐらい読みなよ」
「俺、本はあんまり好きぢゃないんだな」
「じゃあ、葵って何が好きなの?」
何を言っても、かわされるようでむすっとして聞く。
葵は少し考えてから、ひらひらと目の前で手を振った。
「ないよ」
「は?」
「好きなもの」
「ひとつも?」
「あ、自分のことは好き」
「ナルシストかっ」
私がツッコむと、楽しそうにけらけら笑った。
葵を見ると、悲しくなる。
何故か分からないけど、悲しくなる。
彼が笑うたびに、何かが軋む音を聞く。
その音が何を示すのか、私は分からない。
葵と図書室で話すようになって、3週間が経った。
「明々後日は終業式だね」
古文の問題集を閉じて、息を吐く。
もう、随分いろんな話しをした。
「柚葉」
「何?」
「将来、何になりたいの?」
唐突な質問。
緊張で背筋が伸びる。
「わ、笑わない?」
「笑わない、多分」
堂々としたその物言いに、緊張が解ける。
ひとつ深呼吸をして、迷いなく口を開く。
「医者になりたい」
その時の葵の表情。
一瞬のタイムラグ。
「なら、俺が重病になったら診察させてやるよ」
一瞬の違和感を消し去るような、見事な俺様っぷり。
私は笑って、聞き返した。
「葵は?」
「この図書室の守護霊」
「うわっ。私が前に言ったこと、まだ根に持ってるの?」
笑い混じりの言葉に、葵は目を細めて微笑むだけで答えない。
「でも、それ生まれ変わらなきゃ無理だよ」
「もし、なれたら特別に柚葉の願いごと一番に叶えてやるよ」
葵が歯を見せて満面の笑みを見せる。
つられて、私も顔が綻ぶ。
「ありがとう」
「感謝しとけ」
私は腕時計を見て、勉強道具を片付け始める。
全ての問題集と参考書を鞄に詰め込むと立ち上がる。
「もう7時半だから帰るね」
「あぁ」
葵は7時半に私を見送ってくれるけど、自分はいつも何時に帰るのだろう。
今日、始めてそれを謎に思う。
背を向けようとした途端、葵に呼び止められた。
「柚葉」
振り返れば、葵が立ち上がる。
少しだけの空白。
「何?」
私はその沈黙に、首を傾げる。
葵は破顔して言った。
「この席、明日から柚葉にやるよ」
「え、本当!?」
「本当」
人工的な明かりが、葵の白い肌を浮かび上がらせる。
前より、腕が少し細くなった気がした。
「少し早い、誕生日プレゼント」
「嬉しいっ。ありがとう」
「あぁ、じゃ」
さよなら――――――葵が手を上げる。
白い照明が、葵の表情を曖昧にさせる。
少し嫌な予感がした。
「うん、じゃ」
でも、その不安を振り払うように明るく笑って手を振った。
葵もいつもより、元気に手を振ってくれた。
図書室から出ると、少し肌寒かった。
昼間の様子からは、想像のつかない静けさの廊下。
暗い靴箱を通過して、あっと思う。
私、葵の誕生日を知らない。
いや、誕生日だけぢゃない。
血液型も、学年も、クラスも。
それはひどく今更のことだった。
私、葵のこと全然知らないんだ。
知らず知らずに、後ろを振り返る。
図書室は見えない。
背後に広がるのは、暗い夜の廊下だけ。
でも、いいや。
明日、質問攻めにしてやろう。
そう考えると、少し楽しくなった。
何を聞こう、こう質問したら何て答えるんだろう。
そんなことを思うと、心が弾んだ。
明日が、楽しみでスキップしそうになったけど、転びそうだし、恥ずかしいから止めた。
「近頃、楽しそうだね」
クラスの友達が卵焼きをほうばって、嬉しそうに言った。
葵への質問で頭がいっぱいだった私は、お弁当の蓋を持ったまま、ぎこちなく首を傾ける。
「そ、そうかな?」
「好きな人でも出来た?」
意地悪く笑う彼女に、全力で否定する。
「違うよ。葵はそんなんじゃ」
「葵?」
私の発した言葉に、今度は彼女の表情が変わる。
その反応にあれ、と思う。
「知ってるの?」
「日向 葵? あの2年で病気の?」
次の瞬間、頭が真っ白になった。
世界が途端に色をなくす。
「え……?」
自分の声がひどく遠い。
次の友達の台詞に、今度は目の前が真っ暗になる。
「知らない? 夏休み前に、手術するって有名だよ」
「葵っ」
あの後、授業が全く頭に入らなかった。
最終の授業終了同時に、教室を走り出た。
背中越しに友達が、私を呼んだ気がしたけど振り返れなかった。
図書室のドアを、乱暴に開ける。
物を大切に、なんて今はどうでもいい。
「葵っ」
病気なんて嘘でしょう。
手術なんて冗談でしょう。
いつもみたいに、笑って否定してよ。
「あお」
続くはずの言葉は続かなかった。
葵はいなかった。
一番奥の席は無人だった。
葵がいなかった。
いつもなら、笑って私を迎えてくれた。
頭の中で、鐘が鳴り響く。
頭が痛い。
思考が正常に機能しない。
空回りする。
「隠れてるんでしょ? 悪い冗談止めてよ」
声が裏返る。
本棚の間を歩き回る。
「昨日、あの席くれるって言ったから?なら、いらないよ。あの席はずっと葵の席でいいよ」
本当は分かってる。
「ねぇ、今日は葵に聞きたいことが沢山あるの。誕生日にプレゼント、欲しいでしょ」
零れ落ちる意味のない言葉。
それでも、溢れ出す言葉は止まらない。
物分かりなんて、良くなくていい。
認めたくない。
「ねぇ、葵。出て来てよ」
本当は分かってる。
「葵っ」
ここに葵はいない。
もう、いない。
「葵……っ!」
いない。
答が出てしまった。
ずるずるとそのまましゃがみ込む。
呆然とする。
何も考えられない。
無意識に、目が葵を探す。
あの席にいつも、片膝を抱えて。
時折、私の視線に気づいて、照れ隠しに毒舌で。
いつも、笑って。
でも、時々、本当に時々、淋しそうな目をして。
いつも、私の話しを意地悪に茶化して。
いつも――――――
立ち上がる。
おぼつかない足どりで、一番奥の席に近づく。
――――――ここに、葵がいて。
途端に涙が溢れた。
関を切ったように、次から次へと頬を伝う。
今、やっと分かった。
私はこの席の為に、図書室に通ったんぢゃない。
ましてや、勉強の為でもない。
葵がここにいたから。
葵がここにいたから、通い続けたんだ。
もう立っていられなかった。
崩れるように椅子に座り込む。
自覚された想いに、胸が痛む。
軋んだ音の正体を理解する。
でも、もう遅い。
両手で顔を覆う。
『脳に腫瘍があるらしいの。まだそんなに大事には至ってないけど、そのままにしとくと死に至るらしくて』
昼休みのやり取りがフラッシュバックされる。
『もしかしたら、今回の手術で』
友達の声で、呪いが囁かれる。
『命を落とすかもしれないらしいよ』
心が音をたてて、壊れていった。
何時間、そうしていただろう。
一番奥の席で机に突っ伏して泣きつづけた。
こんな気持ちで、座る為の席ぢゃなかったのに。
朦朧とした頭が、かろうじて人の気配を捕らえた。
顔を上げる。
涙で視界がぼやける。
机に押し付けていた額が痛い。
その人は、はっとしたようだった。
「もしかして、望月さん……?」
驚く気力も頷く余力もなかった。
涙を拭って、その人をもう一度見る。
図書室教諭の笹本さんだった。
差し出された濡れタオルを、泣き腫らした目に押し当てる。
「日向くんはね、元々不器用な子でね」
音だけになった暗闇の世界に、笹本さんの声が優しく響く。
「腫瘍が見つかって、さらに不器用になってしまって」
困ったように笑う気配に、私は少し落ち着きを取り戻す。
「だから、望月さんのことを初めて話してくれた日は驚いたわ。何かに執着したり、興味を持つ性格ぢゃなかったから」
その日を、思い出したように笹本さんの声が和らいでいく。
私が帰った後、葵は親の車が迎えに来るまで、笹本さんとよく話しをしたらしい。
「あなたが初めて、図書室に来た日は、気になってしょうがなかったって言うの。でも、ああ見えて照れ屋だから、話し掛けられないって。地味な席の取り合いも楽しそうにしてた」
葵は保健室登校をしていたらしい。
でも、保健室の匂いが嫌いで、いつも図書室に逃げてきていたそうだ。
葵のいない図書室で、私の知らない葵の姿が語られていく。
目頭が熱い。
私は葵の何を知った気でいたんだろう。
「初めて話した日ははしゃいでた分、へこんでたなぁ。自分だけ楽しんで怒らせた、明日からこないかもって」
「本当は違うんです」
ぽつりと呟いた。
この人になら、本音を話してもいい気がした。
「席のことで怒ったのは、言い訳です。本当は一度でいいから、私を見て欲しかっただけ」
葵はいつも窓を、浮世離れした瞳で見ていた。
その視界に私はいなかった。
それが本当は悔しかった。
悲しかった。
「でも、見てくれたと思ったら、本音ばかり隠した話し方をするから」
あれが冗談だなんてすぐに分かったし、悪気がないのも分かった。
でも、軽くあしらわれた様でつい怒鳴ってしまった。
「ふふっ。嫌ね、男の子って」
笹本さんが乙女のように、くすくすと笑う。
私もつられて、少し笑った。
「日向くんは、手術を頑張るって言ってたわ。望月さんも頑張ってるからって」
「私、医者になりたいんです」
「えぇ、聞いたわ」
「葵を傷つけたかもしれません」
あの違和感は、葵の痛みだった。
自分の鈍さに舌打ちしたくなる。
「私は」
笹本さんがゆっくりと言う。
「望月さんに感謝してるわ」
その言葉に、俯き気味の顔を上げる。
目からタオルを引き離す。
淡くぼやけた視界で、笹本さんが笑う。
「だって、生きたいって言ってたもの。日向くんが昨日、またここに帰って来たいって言ったもの」
「葵……」
「望月さんのおかげよ」
包み込むような、温かい声。
泣きたくなった。
でも、それはさっきの涙とは違う。
「あり、がとうこざいます」
泣いてもいいと思った。
明日、笑えるなら、この涙を無駄にしないなら。
「私、葵には何か秘密があるって分かってました。でも、聞けなかった」
笹本さんは何も言わなかった。
その優しさに心の中で一つ感謝する。
「だって、聞いてしまったら葵にはもう会えない気がしたんです」
儚い横顔を思い出す。
夏の生命力に目を細めていた。
「私は怖かったんです。だから、知らないふりをした」
葵のことを知りたいと言いながら、ずっと目を逸らしてきた。
踏み込んでしまったら、もう引き返せないと思った。
「聞いてみれば良かった。葵から聞きたかった。どうして言ってくれなかったの」
いつか葵の方から話してくれるかもしれない。
そんな甘えがあった。
私、そんなに頼りないかな。
手で顔を覆う。
後悔ばかりが溢れていく。
「葵に会いたい……っ」
言葉と共にまた涙が溢れる。
再び泣き出した私が落ち着くまで、笹本さんはそばにいてくれた。
図書室はいつも冬の香りがする。
淋しくて、冷たくて、息を潜めるような静けさがあるから。
葵にはやっぱり、夏より冬が似合う。
だから、葵が夏の日差しの下にいる所なんて想像できなかった。
それでも、冬の図書室から葵はずっと外の夏を見ていた。
遠い世界を見ていた。
どんな気持ちだったの?
羨望、憎悪、愛しさ、悲しみ?
私には分からない。
葵のいない図書室に、淋しさだけが白く降り積もっていく。
夏休みはほとんどを自室か塾で過ごした。
外出は、したくなかった。
夏らしさを見つけるたびに、泣きそうになるから。
必死に勉強した。
何も考えたくなかった。
がむしゃらに問題を解きまくる。
そんな風に夏は過ぎた。
高校最後の夏はそんな風に終わった。
久しぶりの学校は、秋に染まりつつあった。
校庭の向日葵は枯れてあの煌めきも今はない。
疎ましくさえ思っていた蝉の声が、聞きたくなった。
始業式で語られる抱負、大学進学に意気込む同級生。
校長先生お決まりの「未来ある若者」という話し。
いろんな言葉に心が静まっていく。
図書室に行きたいと思った。
行きたくないと思った。
分からなかった。
私はどうしたんだろう?
尋ねても、波紋はすぐに止んだ。
心は揺れなかった。
きっと全部、違った。
始業式が終わると、私は友達に一言告げてから駆け出した。
思い出すのは、他愛のないことばかり。
たくさんの思い出の中を駆け抜けていく。
意地悪く笑う顔。
俺様っぷりな口調。
初めて話した日。
嬉しくて、悔しくかった。
あの日、見た夢はやっぱり思い出せない。
机に広がる問題集。
覗き込んでは潜められる眉。
脈絡のない会話。
重なる笑い声。
微かな夏の香り。
最後に浮かんだのは、別れた日。
「柚葉」
呼び止めたあの時、葵の顔はひどく苦しそうだった。
躊躇うその表情が見ていられなくて、思わず口を挟んでしまった。
もし、と思う。
私があの時、口を挟んでいなければ葵は何を言うつもりだったの?
葵は私に何を伝えようとしてくれたの?
勢いよくドアを開けた。
全ての記憶が花びらのように、散っていった。
その向こうには。
静かな図書室は日差しが弱くなった為か、窓が開いていた。
カーテンが風に膨らみ揺れている。
そして、誰もいなかった。
葵も笹本さんもいなかった。
動揺はなかった。
以前のように泣きわめき、取り乱すこともない。
一番奥の席に腰を下ろす。
懐かしいような、淋しいような気がした。
1ヶ月以上も来なかったのだから、それもそうかと苦笑する。
「葵」
目を閉じて呼び掛けてみる。
まぶたの裏の葵が振り返った。
何、と唇が言葉を形作る。
「待つよ。今度は私が待つよ」
今までは迎えてもらってばかりだった。
だから今度は、私が葵を迎えたい。
ここに帰って来たい。
葵はそう言った。
だから、私は君の帰りを待つよ。
心が澄んでいく。
答はいつだって私の胸の中にあった。
暗闇の中で葵が目を細めて笑う。
頷き返して、私は目を開いた。
足音が聞こえる。
初めて聞く足音が聞こえる。
でも、懐かしいと思った。
ドアが開く音がした。
思っていたよりずっと心は落ち着いていて、私は笑いかけた。
「おかえり、葵」
少しだけ背が伸びて、頭に包帯が巻いてある。
それでも、葵だった。
葵はゆっくりと瞳を瞬く。
言うべき言葉を探すような、見つけるようなそんな沈黙がおちる。
私は口を挟まなかった。
あの日のように、聞き逃したくなかったから。
「俺、柚葉が願いごとのためにその席に座りたいって言った時、正直むっとしたよ」
立ち止まって、距離を縮めずに葵はそう口を開いた。
「他力本願なだけかって。この席に座っても願いは叶わないって言おうとした」
瞳に過ぎる色は淋しく、秋の空気によく似ていた。
「俺は世界がこのままなくなればいいって願ってたし」
悔やむような、嘲笑うような言葉。
窓の外は秋の香りに満ちる。
もう夏は終わってしまった。
今さらに思い知る。
「柚葉が守護神かと思ったって言った時、いいなって思った。柚葉の願いを叶えられるなら、守護神になるのも悪くないかなって」
優しげな眼差しを伏せて、葵はそう言った。
その表情に静かだった心にたくさんの波紋が生まれる。
思考がだんだんと熱くなっていく。
私はポケットから紙を取り出した。
丁寧に出そうとしたのに、手が震えて紙はくしゃくしゃになった。
「馬鹿っ」
くしゃくしゃになってしまった紙を葵に投げつける。
紙は無抵抗の葵に当たることなく手前で床に落ちた。
とたんに目頭が熱を持つ。
それだけでいままで押さえ込んでいたものが溢れ出す。
「私はそんなつもりで言ったんじゃないっ。葵の馬鹿っ」
葵は驚きで目を見開いている。
その姿に鼻がつんとした。
「葵にっ、叶えてもらわなくても大丈夫なんだからっ」
葵がやっと腰を折って、落ちた紙を拾う。
丁寧にしわを直し、紙を見る。
あの紙は夏休み最後に受けた全国模試の合格判定。
夏休みすべてをそそぎ込んだ結果。
本当は笑って見せてすごいぢゃんと言ってもらうはずだったのに、結局叫びながら投げつけてしまった。
いろんな思いが頭の中で混ざる。
枷が外れて、ぼろぼろと涙が溢れた。
「だから、葵は生きててよ!」
駄々をこねた子供のように言う。
頭が熱くて回らない。
葵は紙から顔を上げる。
泣いている私を見ると、くしゃりと破顔した。
「B判定じゃんか」
「今からまた頑張るからいいのっ」
懐かしい口調に素直に涙が頬を伝う。
情けなさや安堵や淋しかったあの日が、押し固めたいろんなものが、涙と一緒に溶けていく。
「俺、夏もひまわりも本も嫌いになって、でも柚葉が頑張ってるの見て生きたいって思った。柚葉が頑張るなら、俺も頑張りたいって」
「私も葵が頑張るって聞いたから、頑張れた。私は一緒に頑張りたかったからっ」
伝えたかったこと。
同じことを葵も考えていてくれた。
その真実にまた涙が零れる。
「葵」
呼びかける。
「ん?」
首を傾げて、葵が一歩近づく。
秋の風が舞い込む。
あの夏はもう二度と帰ってこない。
悲しいくらいに何度も何度も理解した。
でも、葵は帰ってきた。
約束通り、ここに帰ってきた。
私はただ、それだけで――――――
小さく息を吸ってから、笑って伝える。
「おかえり……っ」
微笑むつもりが泣き笑いになった。
笑った瞬間に涙が一筋、頬を伝う。
葵も笑った。
泣きそうに笑って応えた。
「ただいま、柚葉」
fin