6.白い霧の中で-鉄の爪-
長く伸びる煙突の影の中に姿を隠していたスプリング・ヒールド・ジャックは月の光のもとへ歩み出る。通りは揺れる霧が漂い流れて川のようである。屋根を踵で踏みつけると一足とびにタムズの家の窓の下へ飛んできた。壁に両手をつけてまるで蛙のように張り付いている。
突き出た屋根の上を音もなく動きながら窓のそばにやってくると中を覗き見る。アルトの部屋だった。
アルトの部屋には誰もおらず。乱れたベットがあり、窓のすぐそばにテーブルがあった。ドアが開け放たれており薄暗い廊下が見える。スプリング・ヒールド・ジャックの赤い視野にもそれがしっかりと見てとれる。
廊下が微かに色を変えた。ランプのほの暗い明かりが近づいてきていた。スプリング・ヒールド・ジャックは一度身を隠すとこんどは慎重に中を覗き込む。ランプを持った女がドアの前でふと足を止めた。スプリング・ヒールド・ジャックはその身を引いた。ドアが閉じる音が聞こえた…。
それと同時につま先をたてるとドアの前を通り過ぎる。片手で体を支えながらも素早い動きだ。壁づたいに進む。隣家とタムズの家の暗い隙間に潜り込んだ。そこにも一つ窓があった。真っ暗な部屋だった。スプリング・ヒールド・ジャックの炎の瞳には女がベットの上で眠っているのが見えた。スプリング・ヒールド・ジャックは息を荒くした。そして窓に触れようとした時だ。ランプを持った女が扉を開いた。スプリング・ヒールド・ジャックは壁に背をつけ、息を殺した。
部屋に入ったアルトはマルゴーを見た。寝息が聞こえてこない、ほんとうに眠っているのだろうか…。ランプをテーブルに置くとベットの傍の椅子に腰かける。あるとはマルゴーの胸に手をあててみた。たしかに胸が上下して呼吸している。胸から手を離すと口元を抑え、嗚咽が漏れるのを防ぐ。目から涙があふれ出ていた。涙はどうしても止めることができなかった。
マルゴーの顔は包帯で隠されて全く見えなかった。美しい艶を放っていた鼻筋がいまは異様に低くなっていた。口元にかすかに隙間がありそこから息をしているようだった。包帯は赤い血が全体ににじみ出ており、ところどころ乾いて黒く変色している。
ふとアルトは目を上げた、そこにタムズが立っていた。タムズは黙ってアルトのもとへ歩み寄る。タムズの体に顔をうずめ肩を揺らしてアルトは泣き始めた。
スプリング・ヒールド・ジャックはドアの傍で喉を掻きむしりくぐもった低い声を出し始めた。喉が苦しいのだ。頭を抱え天を仰いだ。口から白い煙が立ち上り始めていた。まるで逃げるように暗い路地へと姿を消した。
スカートを激しく揺らし女は家路を急いでいた。広い通りに漂う霧を足で蹴るように歩を進めた。夫が夜遅く出て行ったことをいいことに、子供を急いで寝かしつけると自分は男の家へとしけこんだのだ。若い男はいつになく彼女を引き留めた。まさかこんなに遅くなるなんて思ってもいなかった。楽しい時間はすぐに過ぎ去るものなのだ。
大変なことが起こったと夫はいっていた。夫は自分の仕事の傍ら町の自警団をしていた。大変なこと…。もしかしたら、夫は朝まで帰ってこないかもしれない…。女はそう期待しつつも必死に言い訳を考えていた。
しかし、そんなことを考える必要はなかった。女の耳にはあの鉄の音が響き始めていたのだから。
スプリング・ヒールド・ジャックは屋根を捨てると女の前に降り立ち行く手を阻んだ。女に背を向け地面にかがみこんでいる男が手元で何かいじくっている。鉄の音…女は地面にかがみこんでいるその男が大きな知恵の輪で遊んでいるように見えた。男が小さくなにか言ってるのが聞こえた「アイアン……アイアン…」
アイ…アン…?声をかけようにも言葉が思い浮かばない。小さな男だ。子供のいたずらだろうか…。
男がその顔を上げた瞬間、女の背筋が凍った。男の顔はこの世の者の顔ではなかった、醜い角が生えていた。赤く光る瞳…。男はまるで女に玩具を見せるようにその手を見せた。指先には鉄の爪がついていた。いたるところ欠けておりまるでのこぎりの刃のようだ。そして錆びついてる…だがそれは錆びついているのではない。黒く乾いた血がこびりついているのだ。
女は悲鳴を上げた。その叫び声は路地に恐ろしいほど響き渡った。
自警団副隊長カールはタムズの家に引き返しているところだった。霧がさらに濃くなっていた。靴の中までじっとりと濡れるほど濃い霧だ。足を止め不快な足元に目を向けた時だった。通りに女の悲鳴が響きわたった。耳を疑うほど恐ろしい悲鳴だった。カールは一瞬身を縮めたが、その悲鳴はずっと続いている。
カールは辺りを見渡した。どの路地からも聞こえてくる気がする。世界がぐるぐると回る。やみくもにカールは走り始めた。悲鳴を耳に聞きながら、激しく高鳴る鼓動を胸に感じながら…。
女の服はズタズタに引き裂かれ道に散らばっていた。霧がゆれるとそのクズきれが霧の隙間に見え隠れする。服を身にまとっていない女の裸体がずるずると霧の中を引きずられ路地裏に消えていく…。髪をつかみ重くなった女の体をスプリング・ヒールド・ジャックは引きずっていた。傷だらけの体から血が流れ出していた。女はもう悲鳴をあげることができなくなっている。すでに女の首は深くえぐられそこからドクドクと音を立てて血が流れ出ていた。
スプリング・ヒールド・ジャックは振り向き女をみた。黒目が上を向き、唇がガタガタを揺れている。その口元から泡のように血が湧き出しはじめた。
スプリング・ヒールド・ジャックは女の髪を離した。力なく女の頭が地面に落ちる。
低いうなり声が路地裏に響いた。頭を抱え込むと口元から恐ろしいほどの煙をスプリング・ヒールド・ジャックは吐き出し始めた。目の炎はさらに明るくひかった。
喉を抑えると口から凄まじい音とともに炎を吐き出した。女の髪は一瞬にして黒く焼け焦げ吹き飛んだ、体がねじれ関節が異様に曲がった。死んでいるはずの体が生き返ったように動いている。
女の体が静かになるとスプリング・ヒールド・ジャックは膝を地に落とした。
うめき声をあげ立ち上がる、壁に手をあて体を支えると踵を地面に激しくたたきつけた。
カールは広い通りにでた。揺れる霧のなか妙な音が聞こえる。何かを引きずる音…。足元の霧の隙間に引き裂かれた布切れが見える。カールは膝をつきその一枚を手に取った。赤い血がついていた。
耳に聞こえる奇妙な音に耳を傾けあたりを見渡した。黒いなにかが少し離れた路地にずるずると入り込んでいく。誰かが腹ばいになり道を這い進んでいるように見えた。膝下の部分だけが見えた。しかし這い進んでいるのではないのはすぐに分かった。つま先が上を向いている。引きずられているのだ、何かが路地裏に人間を引きずり込もうとしているのだった…。
カールはサーベルを鞘から抜くと身構えた。そして息を飲む…。その瞬間、通りが凄まじい炎の音とともに明るく光った。カールは地面に転がったが、いそいで立ち上がると駆け出した。カールの耳に鉄が弾けるような音が響いた。それは頭の上から聞こえてくる。
カールは路地の入口につくと屋根を見た。誰もいない。鉄がはじける音は遠くなりあたりは静寂を取り戻そうとした、そのときカールは足元に恐ろしいものが転がっているのに気付いた。黒焦げになった人だった。男なのか、女なのかもわからなかった。煙を上げ、肉の焼けるにおいを漂わせていた。口を開き関節が曲がっているためかまるでカールに助けを求めているように見える。
腰に力が入らなくなり地面に倒れ込むと目に涙を浮かべながらカールは小さなうめき声を上げる…。
どのくらいそうしていたのだろう…。誰かが来て彼のわきを持ち上げ、助け上げるまでの時間を、そしてそのあとのことを…。ぼんやりと夢をみているだけのような…長い時間だった。