25.敗走
運河は白波を押し流し、船着き場に定着する小舟をゆらした。小舟が激しく揺れ互いにぶつかり合い、激しい音を立てた。階段状に運河に姿を消していく石畳に水が覆いかぶさってくる。
建物の影から二つの眼が船着き場に目を向ける。耳をふりながらそこから現れたのは黒毛の馬ロシュフォール・レックスだった。いぶかしげに水面を眺めながら船乗り場に足を踏み入れる。
耳を水面に向け固定したとき、ロシュの瞳に黒い影が浮き上がってくるのが見えた。
船着き場の端に音を立てて見慣れた鉤棒が現れ、まるで人の腕のように木の板を掴んだ。ゆっくりとその影は浮かび上がる。ロシュが鼻を鉤棒に近づける。黒い塊の中から腕が現れると石畳にその姿を現した。倒れ込むように石畳に寄りかかり、動く気配はない。
白い煙を立ち昇らせ、焦げ付くにおいをあたりに放っていた。ロシュにはそれがスタンリー・ベルフォードだということがすぐにわかった。彼を包み込んでいたのはハカモリのマントだ。
ロシュが鼻を近づけ、彼の息遣いを確認しようとすると、スタンはうめき声をあげ顔をあげた。その顔は皮膚がはげ落ちていた。目を上げる瞳の上に瞼はなく片方の目玉が露出している。
「デスダストを……キッチョム……キッチョムのもとへ連れてってくれ……」
ロシュは微かな吐息に混じる言葉を聞くと階段状の石畳を駆け下りるようにして運河に飛び込んだ。首を水中に落としスタンの体を持ち上げると、彼のたてがみをしっかりと握り絞めるスタンの腕の力が感じられた。
スタンの体を背中にのせ、ロシュは勢いよく水しぶきをあげ、運河から飛び出した。暗い路地を駆け抜け、月の下に姿を現すやいなや、石畳に激しい蹄の音を響かせる。彼のつややかな毛並みからふるい落とされるように滴が横なりに流れ落ちていった。
ロシュはスタンの何度となくつぶやく声を聞きながら、ひたすら夜の闇をにらみ続け走り続けた。
――――デスタストを……、デスダストを……。
キッチョムのところへ……、頼むいそいでくれ……――――――