16 .キッチョムのいない夜-6-
長く伸びる塀に沿ってレイジーは息荒く走っていた。蹄の音は鈍く響いている。グレスフォード家の屋敷の塀を横目に、まるでブーツを履かされてるような気持ち悪さを感じながら石畳を叩いている。この日はやけに寄進品が重く背中にのしかかっていた。
やがて、レイジーの眼にあのグレスフォードの門が見え始めた。
キッチョムの手綱を握る手に微かに力がこもり、レイジーの首を引き上げようとした。レイジーは足を緩め門の前に歩み寄った。彼はなんとなくキッチョムが考えていることを感じ取っていた。キッチョムは背中から降りてグレスフォードの屋敷に入っていくだろう、彼はそんなことを考えていた。
門の前でレイジーは足を止めた。どうやらキッチョムは屋敷の中をじっと眺めているらしかった。
「レイジー……」微かに息を切らしたようなよわよわしい声が聞こえた「行こう……、今日は、やめにしておこう……血が出てるんだ…、服にも……、こんな姿で会いにいったらアレーネ・グレスフォードはどう思うだろう……、それに……それに…」
レイジーは鼻を鳴らし、首を振った。キッチョムの様子が気にならずにいられなかった。彼の声はいままでにないほどに、寂しげで悲痛だったからだ。
「……ねえ、レイジー、君も気づいているだろう?今日の寄進品は僕の手首が折れてしまうくらい重いんだ……。なにが入ってるんだろう……、ハハハ……僕には何が見えてると思う?ディヴィの笑ってる顔さ、耳にはスタンの笑い声が聞こえる……きっとみんなお腹をすかせてまってるに決まってるんだ……」
レイジーはふと首を持ち上げ耳をキッチョムへ向けた。
キッチョムはマントの中に手を入れ、肩に触れた。胸にまで傷は達していた。ひどく痛む傷に触れると生暖かい血が手についた。血の付いた手を眺め、その手を握りしめる。
「レイジー……、傷がひどく痛むんだ…、体がすごく熱い……。いそいでソルマウントに帰ろう……」
デスブーツが思い出された。スタンやディヴィの笑い声、みんなの声が聞こえていた。まるで幻影を追うようにキッチョムは顔を上げた。しかし、視線は自然とグレスフォードの屋敷へと向けられた。いくつかの窓に暖かそうな明かりが灯っていた。屋敷をぼんやりと眺めるキッチョムの脳裏に、あの少年の涙で濡らした瞳がよぎる。その瞳はキッチョムを睨み付けていた。
キッチョムはそれらの幻影を頭から振り払うように瞳をきつく閉じ、手綱を握りしめた。
「お願いだ、レイジー……、僕はソルマウントに帰りたいんだ……。お願いだ、レイジー走って……全速力だ…」
そういうとキッチョムはアブミに力を込めた。手綱を引き、アブミを蹴り上げる。レイジーは頭を振るい走り出した。グレスフォードの長い壁は流れさっていく。キッチョムは振り返り遠く離れ行く門を見つめた。その眼を閉じ顔を前に向ける。痛む傷をこらえ歯を食いしばると手綱から手を離し暖かく微かに汗をかくレイジーの首筋に触れた。
「……レイジー、急ごう…。みんなが待ってる。みんな寄進品の中を見たらなんていうだろう……きっと……おいしいものがたくさん入ってるんだ……」
レイジーはキッチョムのそのよわよわしい声を聴くとかぶりを振った「そんなわけないさ、ごちそうなんて……、キッチョム、どうしちゃったのさ!?」
レイジーの首筋に触れていたキッチョムの腕が滑り落ち、彼の上半身が重くレイジーの首筋にのしかかってきた。レイジーの体が震えた。冷たい悪寒が体を駆け巡る。
「キッチョムが!!キッチョムが死んでしまう!!」
心臓が高鳴ると同時に激しく石畳を叩いた。首を振るい、重たい足を高くあげて風を巻き起こし、その風を追い越していく。
冷たい風が頬を撫でていた。熱く火照る体に冷たい風がしみ込んでいる。キッチョムは微かに眼を開き、首を上げた。流れゆく景色に目を向け、石畳の連なりに目を向けた。それはどこまでも道の先まで続いていく。
「……!!レイジィィィー!!」
キッチョムは声を絞りだし、手綱に手を伸ばそうとした。しかし彼の体はいまや宙を舞おうとしていた。手綱は握ることができず、遠く流れていく。
石畳に巧みに隠された太い荒縄が引き上げられ、レイジーの足元に絡まろうとしていた。彼の眼は確実にそれをとらえることができた。しかしどうすることもできなかった。荒縄はさらに数を増やし、レイジーの首までもとらえようとしていた。足を取られたレイジーの体は吹き飛ばされ地面にたたきつけられた。
キッチョムの体は宙に投げ上げられバランスを取ることができないまま地面に落ちていく。彼は通りの路地にいくつもの松明の光がともり始めるのを見逃さなかった。炎が路地を明るく照らし出し、いくつもの大きな影が揺れていた。
キッチョムは地面に転がりうめき声を上げた。胸が激しく痛み息ができない。顔をゆがめながらあたりに目を凝らした。半分落ちた瞼の隙間から叫び声を上げながら襲い掛かってくるいくつもの影をみた。いくつもの顔が松明の光に照らしだされ闇に浮かぶ。迫りくる影の見開かれた目は、堀の深い影の中で炎の光を受けて獣の瞳のように赤く輝いていた。
キッチョムは肘を引き寄せ、歯を食いしばり上半身を起こそうとする。目に留まった鉤棒に手を伸ばしそれを掴む。うずくまるように足を引き寄せ鉤棒を地面に突き立てた。
膝をたてると鉤棒は輝き、光を放ち始める。白銀のヴァルハラの輝きは渦を巻き闇を飲み込んでいく。
キッチョムは体を引き上げられるような感覚に包まれながら、ふらふらと鉤棒を支えに立ち上がった。
「……レイジー……、レイジー……」キッチョムは慌ててあたりを見わたした。自分がどこからどこへ向かっていたのかもわからないほど方向感覚を失っていた。ただ自分を取り囲み駆け寄ってくる人影は一つや二つじゃなかった。キッチョムはその影にすでに取り囲まれていた。
彼の耳にレイジーの嘶きが響きそちらへ顔を向ける。レイジーは地面に倒れ込み、首を持ち上げながら前足を地面に突き立てようとしていた。しかし彼に絡まる荒縄を数人の人影が押さえつけていた。
「レイジィィィ!」
歩みだそうとするキッチョムの耳に恐ろしい叫び声が聞こえる。
「――殺せ―――ハカモリを殺せ――――――」
「―――やつを地獄へ送り返すんだ――――ハカモリを――」
「―袋だたきだ――――殺せ―」
「――――グレスデンに平穏を取り戻すんだ―――ハカモリを―」
「―――――殺せ―――――逃がすんじゃないぞ―――――」
「――――絶対にハカモリを生きて返すな――――」
「――殺せ―――なぶり殺しにしろ――ハカモリを――」
キッチョムの視野が激しく揺れる。グレスデンの人々に取り囲まれ、その殺意が自分に向けられている。我を失っているかのようなキッチョムの視野は歪み、ねじ曲がる。駆け寄る影をどれ一つとしてとらえることができない。
「レイジー……」揺れる世界の中で見失ったレイジーを探す瞳は何一つとらえることができないかに思われた。しかしレイジーの足を見出し、その顔に目を向けようとしたときキッチョムの眼は寄進品の袋にくぎ付けとなった。それは脳裏に焼き付けるかのように目にはっきりと飛び込んできた。
レイジーの背中から振り落とされた寄進品の袋が石畳に散らばり、あるものは口を開き、あるものは敗れその中身を地面にばらまき、それをさらけ出していた。
キッチョムの唇は震え、微かなうめき声をあげた。
寄進品の袋から漏れ出しているのはどれも石や砂だった。そこにはただハカモリに向けられる悪意の塊が転がっているにすぎなかった。
「……どうして……、どうしてこんな……」
『お前はハカモリだろ!!……』……涙で瞳を濡らしながら歯を食いしばってキッチョムを睨み付けるあの少年が思い出された『お前はハカモリだろ!!……ハカモリはハカモリらしくしてろよ!!……どうして追いかけてくるんだよ!!……町に…俺たちにかかわるなよっ!!』
キッチョムの胸は締め付けられ唇は震えた。鉤棒を強く握っていた指から力がうしなわれていく。
「……ああ、僕は……僕は、ハカモリ……なんだ……」キッチョムは強く光を放っている鉤爪に目を向けた「……いったい…、なにと戦えというんだ……僕にはもう、どんな力も…どんな希望も残っていはいないのに……」
震える指先から鉤棒は離れ、地面に吸い寄せられるように落ちていく……。
ヴァルハラの光はまるで煙のように立ち上り夜の闇に吸い上げられていく。鉤爪の白銀の輝きは失われ、灰色の石のように姿を変えた。鉤棒が音をたてて地面に転がると鉤爪には微かにヒビが走り、美しい模様も掻き消えてしまった。
キッチョムの重たく瞳にかかる瞼の隙間から一筋の涙が頬をつたい落ちた。
「―――ああ――そうか――僕は――――ハカモリなんだ――――――」