16 .キッチョムのいない夜-4-
マルゴーはベットに横になると廊下を力なく去っていくアルトの足音に耳を傾けた。それほど長くはない廊下をアルトはそうとうな時間をかけ自室へ戻ったようだった。ズルズルと壁に身を引きずるようにして進むアルトの去っていく音を聞きながら彼女はようやく安堵し、闇に身をおくようにベッドに横になった。
闇の中、遠くから二つの炎がちらちらと瞬きながら彼女に近づいてくるのが見えた。彼女はいぶかしげにその二つの炎を見つめていると微かに笑い声が聞こえ始めてきた。彼女の神経は鋭敏になり、その炎を注視しているとだんだんとはっきりと声が聞こえ始めた。
『……マルゴー…マルゴー…美しき肉屋の娘……、ステファーニ・ハウザーの生き写し……』
「……?ステファーニ・ハウザー……?知らないわ……誰のこと?」
『……わかっているさ、お前はマルゴーだ。美しき肉屋の娘、仏頂面で肉を切り売りする女だ!』
マルゴーは慌てて上半身を起こした。声が現実の中でしっかりと聞こえた。すぐそばで声がしているのだ。
『じつのところ、お前は本当にステファーニそっくりだ、いや、そっくりだった!!』そういうと声は楽しげに笑い声をあげた。
「あなたはなにをいっているの?わたしはそんな人知らないし……、あなたが私の闇に土足で入り込んでいいわけないでしょう」
『……マルゴー…狼狽するのを忘れてやしないか?恐怖におののくことを忘れているぞ?俺がなにものか、わからないわけではなかろうに!』
マルゴーの手に力がこもり、布団を強く握りしめた。彼女にとってそれが何者かなどどうでもいいことだ。しかし、思い出された。赤い炎を吐き出したあの怪物を。
マルゴーがいぶかしげに首をかしげながら店の扉を開いたとき、そこに人の姿はなかった。しかし開いた扉の裏側に気配を感じ取った。彼女は扉を閉じて暗い影に目を向けた。
大きな醜い豚の看板はすでにそこにはなく黒い影が足元にうずくまっていた。
その影は顔をあげマルゴーを見つめた。
醜い顔をした鬼だった。鉄の仮面をつけ、醜い角が生えている。一本はへし折れたらしく断面にヒビが入っていた。
『まさにその瞬間だ!お前の顔を見て驚いたのさ!運命などと、そんなケチなもんじゃない、これこそまさに我々が求めていた因縁というやつさ!』
マルゴーの膝は震えていた。目の前の怪物は喉を鳴らし、マルゴーの顔をじっと見つめているばかりだった。彼女の体は石のように固まっていたが、微かに震える手をドアへと伸ばした。隙を見て店の中に駆け込むしかない。そして大声で叫ぶのだ。マルゴーの頭の中はそのことで頭がいっぱいだった。
怪物は肩を揺らした。そして腕を上げると彼女の顔を指さしたのだ。鉄の爪がガタガタと音をたてている。微かに怪物の指先が震えている。
『残念なことにカスパーのやつときたらお前の顔をまったくもって覚えていなかったのだ!!まるで呆けた顔でだからなに?とでもいっているようなものだった。地獄の鬼としてこの劇的なまでの再会に花を添えることができなかったのは、まさに不覚といっていいだろう!!だからだ!だからこそ!お前の顔を焼いたのだ!』
怪物の口がゆっくりと開き始めていた。マルゴーの背中が冷たい汗でじっとりと濡れた。口の中に真っ赤な炎が渦巻いているのだ。彼女は叫び声を上げた。体は石のように動かなかった。すべての力を声を上げることだけに集中させたことを後悔する暇などなかった。炎は彼女の顔を焼き、喉をも焼いた。耳に聞こえる轟音がだけが残り、瞳を失った世界は闇に包まれた。
『カスパー・ハウザーに思い出させてやったのさ!母親の顔がどんなだったか、赤く焼けただれた肉塊を見せつけてやったんだっ!!そしたらどうだカスパーの奴お前の虜になっちまいやがった!!じつにいい気分だ!!闇の世界に閉じこもっていても何も変わりはしないぞ、年老いて屍になっちまう前に世界を変えてやろうじゃないか!!お前に新たな目玉をくれてやろう!赤い炎渦巻く世界は地獄の様相をもってお前をむかえいれてくれるだろうよ!!』
二つの炎が闇の中から消え去ると、マルゴーは鉄を引きずる足音を聞いた。
スプリング・ヒールド・ジャックは部屋の中に忍び込んでいた。窓は開かれカーテンが夜の涼しげな風を部屋に招き入れるように揺れていた。マルゴーの頬を風がなでる。
彼の手にはクルミほどの大きさの鉄球が二つ握られていたそれは微かに中心がぼんやりと赤く光、熱を持っていた。片方の手のひらの中でそれをくるくる回しもて遊ぶと、ガチャガチャと鉄球は音をたてた。
スプリング・ヒールド・ジャックは軽く飛び上がるとベットに横たわるマルゴーに馬乗りになった。爪でマルゴーの包帯を引き裂く。その焼けただれた顔を見ると彼の眼の炎は強く光を放ち、激しく揺れた。
「ダ…、ダニヲズルノ……?」マルゴーが微かに声を出した。
マルゴーとスプリング・ヒールド・ジャックの耳にあの恐ろしい声が響き渡った。
『決まっているだろう!!お前に新しい目玉をくれてやるんだっ!!』
スプリング・ヒールド・ジャックは手のひらに一つずつ鉄球をのせるとマルゴーの顔に両手を押し付けた。彼の肩が盛り上がり、腕に恐ろしい力がこもった。
「ギャアアアアアアアアァァァァ…」
頭蓋骨を砕く音とともにマルゴーの喉から恐ろしいほどの悲鳴が発せられた。
マルゴーの頭の中で炎が渦巻く、その音は彼女の闇の世界にどこまでも広がり、彼女の悲鳴を飲み込んだ。うずたかく立ち上る炎が目の前を駆け昇っていく。
『さあ、お前の失った世界を取り戻したぞ!ハハハ…!!亡者どもをその炎の瞳に捕らえて一人残らず地獄へ送り込んでやるんだ!!お前の世界を、俺たちの世界を奴らにみせつけてやれ!!』