16 .キッチョムのいない夜-3-
闇は深く遠くどこまでも続いているかのように思える。マルゴーは深い自らの呼吸の音を耳に聞きながら闇を見つめ続けていた。いまやなにひとつとして空虚な心に浮かび上がってくる感情はなかった。ただただ漂うように闇の世界に身を落としていた。
やがて彼女の闇に、階段を上がり廊下を歩く足音が響き始めた。
彼女の闇に恐怖と怒りが頭をもたげ始める。その音は彼女にとってもっとも遠ざけておきたい現実という名の足音だったからだ。それがいまやドアの前まで来ていた。
アルトはドアの前に立ちノックする手を引き留め胸に当てていた。姉のマルゴーはまだきっと眠っているに違いない、そう思うと彼女は様子をみるためにドアノブに手をかけ、扉を開いた。ランプの光が部屋へと忍び込んでいく。
微かにマルゴーの吐息が聞こえていた。しかしその吐息は幾分いびきのようなくぐもった低い音が混じっている。その不快な音を耳にしているとアルトの胸は締め付けられ、瞳が涙でぬれ始める。
アルトは部屋に足を踏み入れた。ランプを掲げながら、締め付けられる胸に手をあてベットのそばの椅子の背もたれに触れた。静かに椅子を引き寄せるとランプを小さなテーブルに置き、椅子に腰かけた。ランプの明かりに照らし出されるマルゴーの顔はところどころ黒い血が染み出ている包帯で隠されていた。
微かにマルゴーの呼吸が強くなったようなきがした。胸にかけられている布団のふくらみが大きくなっている。
「姉さん……、姉さん……」
アルトはそのふくらみを確かめるように布団に軽く手を乗せるとマルゴーの手を探し、布団を持ち上げた。微かにマルゴーの指先が動いていた。
「姉さん……!!」
アルトはその指先に手を伸ばした。白く美しい指先に触れたと同時に唸るような音とともにマルゴーの息遣いは荒くなり、獣のように喉が音をたてた。
アルトの手がその指先に触れると、マルゴーは腕をビクンと振るわせた。そしてその手をはげしく振り払い上半身を起こした。
「姉さん!!」アルトは驚き手を引くと叫んだ。そしてすがりつくように彼女の手を取りマルゴーに微笑みを向けようとする。彼女の意識が戻ったことへの喜びから、そしてなによりもマルゴーを安心させる微笑みのはずであった。マルゴーの眼がたとえ見えなくともそれは喉から発せられる声の震えから彼女に伝わるはずだった。
「ハナジ…ナサイ…ゴノ…デヲ……」マルゴーの焼けた喉から微かに、獣のうめき声のような声が発せられる「ハナジ…ダザイ!!ゴノ……デヲ……!!」マルゴーはそういうとアルトの手を振りほどく、彼女の手が勢いのあまりアルトの頬を激しく打ち据えた。アルトは半ば腰をあげていたこともあり床に転がりうめき声を上げた。
アルトの口の中に微かに血の味が広がる。口元に手をやり、指先で唇に触れると赤い血が指先についていた。振り向くとマルゴーはベットから足をおろし立ち上がっていた。しかしマルゴーは顔をあげあらぬ方向をじっとみつめている。包帯で巻かれている口元に赤い血が滲み出ていた。
「姉さん……声をださないで、まだ喉が……」
マルゴーの首が傾きゆっくりと声を発するアルトに向けられた。
「ダマリダザイ……ダニヲワラテイドゥノ…?ワラッデイドゥノデジョウ…!?アダダハ、ワダヂニドゴマデ、アジヲガガゼレバ、キガズムノガジラ……?アダダボ、ドウザンボ、アダヂニアジヲガガゼテ、ザゾガジバンゾグデジョウ……」
「姉さん、何を言っているの……?あたしそんなこと……」
「ゼガイバ、アダヂニアジヲガガゼルダメニ、ゾンザイズルゴドヲ、アダヂガヂラナイトデボ……?ジディグヲ、エガボデギリウディズル、アダダディ、ダディガアガルドイウノ……?ゾノゲガラワジイエガボヲ、アダヂニブゲナイデヂョウダイ!!デデイギダザイ!!デデイギダザイ!!アダヂノダミヲ、オガズナラ、アダダニオダヂオボイヲザセデヤルバ!!」
アルトは後ずさり後ろ手にドアに手を伸ばした。
「姉さん……あたし…」
「ゴエガ、ギゴエドゥワ……、アドゥド……アダヂドイウゴドガ、ディガイデギナガッダドガヂラ……?」そういうとマルゴーはずるずると足を床にすりつけながらアルトに歩み寄る。
アルトは慌てて立ち上がり廊下に出ると扉を閉めた。
悲しみでいっぱいだった胸に重くのしかかってきた恐怖が彼女の喉を締め付けていた。大粒の涙を流しながら廊下に崩れ落ちると自らの震える肩をきつく抱きしめた。