15.ダブル フェイトフル エンカウンター-7-
赤い鮮血がほとばしった。キッチョムは身を逸らし怪物の爪をかわそうとしたが鉤棒を握られていたためよけ切ることができなかったのだ。胸から肩にかけてざっくりと掻き切られキッチョムは唸り声を上げた。
『おっと!!あと少しだったな、カスパー!!そら、突き落しちまえよ、お前の自慢のバネを使うんだ。やつの隙だらけの腹に一発見舞ってやれ!!』
キッチョムは体を逸らしながら足元を見た。片足が浮いていた。背後に四頭の馬の激しく揺れる背中が見える。彼は鉤棒を握り怪物になかば支えられていた。怪物の手が鉤棒から離れた。開かれた手のひらがまるでさよならを言っているかのようだ。にやりと笑みをみせて軽く飛び上がるとキッチョムの腹部に渾身の蹴りを入れた。キッチョムの腹部でバネが軋んだ。全身を引き裂くように振動が走りキッチョムは吹き飛ばされた。
『ハハハハ、実に爽快だ!!お前のバネの力を見せつけてやった!俺たちがなんて呼ばれてるか知ってるか!?カカトにバネを持つ男!スプリング・ヒールド・ジャック様だ!!ああ……、カスパー…、俺はお前が口が聞けないことをこれほど残念に思ったことはない……俺の叫びを町中の奴らに聞かせられないのが残念だ……、っとこうしちゃいられない、そろそろ馬車をとめるとしようじゃないか!!』
キッチョムは馬の背中にぶち当たり、地面に落ちようとするところを馬車の革紐とロープが絡まり、地面にたたきつけられようとするキッチョムの体を引き留めていた。キッチョムは口からおびただしい血を吐き出すとうめき声を上げた。顔を上げ馬車の屋根を見上げる。そこに怪物の影は見当たらなかった。視野がぼんやりと揺れ、今にも頭を落としてしまいそうだった。意識が次第に遠くなっていく。鉤棒の輝きが落ちていく瞼を引き留めた。キッチョムはその輝きを見つめた。
「ま、負けるもんか……、この馬車はグレスフォードの馬車だ……。アレーネが…、彼女が乗ってる…。僕の未来がかかってるんだ……」
キッチョムはロープを掴んだ。腕に力を込め体を引き起こす。歯を食いしばると揺れるロープの上でバランスをとる。運転台に這い上がり、立ち上がった。肩の痛みに顔をゆがめながら屋根の上に這い上がる。
しかし、そこに怪物の影はなかった。
キッチョムはあたりに鉄の音が響き渡っていることに気が付いた。バネの音だけではなかった。途切れることなく聞こえる鉄を削るような音が響き渡っている。
屋根に鉤棒をつき体を支え、音のする方向を見下ろした。スプリング・ヒールド・ジャックは馬車に並行し車輪の軸を破壊しようと手を突っ込んでいた。回転する主軸から勢いよく火花が散っている。音を立てて回転する車輪が少しづつぶれ始めていた。
レイジーの影を探し、指笛を鳴らした。そばを走っていたレイジーの影が見える。
キッチョムは激しく傷む体に鞭うち残る力を振り絞り飛び上がる。体を反転させながら鉤棒を振るった。
『ハハハ、バカの一つ覚えか!?そう何度も同じ手が通じるものか!!』
スプリング・ヒールド・ジャックは難なく光る鉤爪を交わすと馬車の影に姿を隠した。
何とかレイジーの鞍に飛び乗るとキッチョムは体の痛みに顔をゆがめた。
その時、馬車の扉が勢いよく開かれた。
リディア・グレスフォードは馬車の軋みや屋根の上を踏み荒らす激しい足音に、耳を傾けながら錆びついたサーベルを持ち身構えていた。肩は縮み上がり、腕は震えていた。小刻みに震えるサーベルを睨み付け、恐怖と戦っていた。車輪の激しく傷つく音を聞き、指笛の音を聞くと意を決したように目を上げた。
扉を蹴り開け赤さびたサーベルを手に身構える。
風が馬車の車内を駆け巡り彼女のブロンドの髪が激しく揺れる。前髪が風に吹き上げられた。彼女の眼は石のように動かなくなった。目の前に墓守がいた。馬の背に揺られ、輝く鉤棒を手にとても苦しそうに息をしている。口元からおびただしい血が流れ出ていた。
彼女は我を忘れ、手にしていたサーベルをおろし、ただ墓守を見つめた。
あの時の少年は大人になっていた。鼻筋に微かに残るそばかす…、優しくまっすぐな瞳……。しかし、血を流し苦しそうに馬にもたれかかる彼の姿にリディアは胸を締め付けられた。体が震え、胸が熱くなり喉がきつく締め付けられる。リディアの脳裏に悍ましい記憶が駆け巡っていた。血だらけになり、白目を向き意識を失う少年の姿が思い出される……。
「わたし……、わたし…」微かにリディアは口を開いた。
「扉を閉めて!!出てこないで!!」キッチョムは叫んだ。体中が痛むのを必死でこらえながら声を振り絞っていた。馬車の中でうずくまるルッベ少年の姿が見えた。アレーネの姿は見当たらなかった。目の前にたつ見覚えのない女性の眼を見つめた。赤さびたサーベルを持ち呆けたように自分のことを見つめている。無理もなかった、目の前に墓守がいるのだから……、キッチョムはその目を逸らすと声を振り絞った。
「お願いだ!!扉を閉めて出てこないでくれ!!」
リディアは我に返ったようにキッチョムを見つめた。声を上げようとしたその時、すでにキッチョムはドアに鉤棒をひっかけて扉を引いていた。扉は激しい音をたて閉められた。
「待って!!……わたし…」リディアはきつく閉じられた扉に触れた「わたしは……バカだ…」馬車は激しく揺れた。扉のツガイが壊れ扉が傾いた。リディアはバランスを失うと馬車の中に倒れ込んだ「わたしは馬鹿だ……あなたを救えなかった…、恨まれて当然なの……わたしはあなたを救いたかったのに……あの時、声を上げることさえできなかった!!」彼女は赤さびたサーベルに手を伸ばした。手が恐ろしく震えている。リディアはその手をもう一方の腕で掴み強く握りしめた「……どうして震えているの!なんで怯えているの!!…わたしはどうして……!!」リディアの頬に涙がつたい床に黒いしみを作る。
「リディア…!!リディア!!」
リディアは顔を上げ、我に返った。ルッベが腰をあげ手を伸ばしていた。
「だ、大丈夫よ……!!」リディアはその手を取り引き寄せるとルッベを強く抱きしめた。
その時だった。二人の耳に恐ろしい炎の轟音が響き、屋根が木端微塵に吹き飛んだ。