13.夕暮れのとき-2-
夕暮れは夜の訪れを告げるかのように冷たく日の光を遠く山の彼方に追いやっていく。ぼんやりとその日が沈むのを見つめていたキッチョムの耳に微かに軽快な馬の蹄の音が響き始めた。
キッチョムは遠くの森に目を凝らす。墓場の向こうに広い草むらがあった。その向こうに森の木々が緩やかに壁を作っていた。道はその壁に沿って緩やかなカーブを描いている。その木々のなか馬車の影がちらりと見えた。
「レイジーとロシュの蹄の音だ…。プライス神父が帰ってきた……」キッチョムは立ちあがり遠くの森に目を凝らした。遠くの木々の切れ目に馬車の姿が見え、モリスが手綱を握っていた。キッチョムは急いで小屋に駆け戻りマントを手に取った。慌てて小屋を飛び出すとマントを羽織りながら駆けだした。
墓場の柵を飛び越えて墓標の間を駆け抜けていく。草むらに足をつけるとまっすぐ森へと駆け込んでいく、木の根を飛び越え、枝葉を交わす。蹄の音が次第に大きくなっていく。
森に軽快な蹄の音が響いていた。モリスは軽く手綱を握って馬たちに道を任せていた。ソルマントはもうすぐそこに見えいていた。お腹を鳴らし夕食のことなどをぼんやりと考えている。彼はそのため馬たちの耳が激しく動いているのを見逃していた。
突然、黒い影が馬車の前に立ちはだかると慌てて手綱を握りしめ目をつむった。
レイジーとロシュは嘶き、両足を高々と上げたがすぐに鼻を鳴らし黒い影に頬を摺り寄せている。
モリスは恐る恐る目を開くと黒い影を見つめ怒鳴り声をあげた。
「キッチョム!!死にたいのか!!」
キッチョムはロシュの鼻を撫でながら笑っていた。レイジーが鼻先をキッチョムの首にあてがい激しく突き当てている。キッチョムは目をモリスに向け、レイジーの鼻先を手で押し戻した。
「あはは、ごめん。でもレイジーやロシュが僕を轢き殺すわけないだろ?」キッチョムは馬車の運転席へ歩み寄った。
モリスは椅子に腰を落ち着け鼻息を荒くした。
「まったく、突然飛び出すやつがあるか!?」
「ははは、ごめん、ごめん」キッチョムは馬車の運転席に上がり、モリスの横に座り手を差し出した。
「ああ…」モリスはその手のひらに手綱を預け肩の力を抜いた。
背後にある木製の覗き窓が開いた。
「キッチョムか?」
「ええ、プライス神父」キッチョムは振り向きのぞき窓の中の優しい大きな瞳を見つめた。目の周りに深くしわが刻みこまれ長く大きな白い眉、柔らかな白い髭が真綿のように揺れている。
「あまり無茶をするな……」そういいながらプライス神父の目が優しく笑っていた。
「無茶だなんて……へへ…」キッチョムは鼻の頭を恥ずかしそうに指先で掻いた。見るととなりでモリスがそれ見たことかとキッチョムを睨み付けていた。
キッチョムは肩をすぼめながら目をそらすと、手綱を振るった。
馬車の車輪が緩やかに音をたてて動き始めた。
「もうソルマントはすぐそこですよ、プライス神父!!ははは…」
「そうか……」
ゆっくりとのぞき窓が閉まる音を背中に聞きながらキッチョムは馬に掛け声をかけ、打綱をさらに振るった。馬車は音をたてて揺れながら灰色の道に轍を残していく。
キッチョムはちらりと横目でモリスを見た。キッチョムに手綱をゆずり渡しほっとしたのか椅子に深く腰をおろして腕を組んでいる。
「あ……、モ、モリス……」キッチョムはちらりと後ろの客席に目を向けのぞき窓がしっかりと閉まっているのを確認すると小声でモリスを呼んだ。
「ん…?」モリスは眠たげな瞳をキッチョムに向けた。
「その…実は、話したいことがあるんだ……」
「なんだ?」
「その……」キッチョムはモリスに手招きし、さらに声を落とした。モリスは体をキッチョムに寄せ耳を傾けた。
「実はその……僕は…」
「ああ!!キッチョム!!」
「……!!え!?まだ何もいってないよ!?」キッチョムはモリスの大きく見開かれた目を見つめた。
「…デスダストだ!!」
「デスダスト!?」
「そうだ!!」モリスはキッチョムの肩をきつく掴むと引き寄せて声を抑えた。
「デ、デスダストなら、ちゃんと作ってるさ……」そういうとキッチョムは仕事場の残り少ないデスダストを思い出しながら目を逸らした。
「そうじゃない!講堂の一件だ!…昨日、講堂がデスダストで汚染されたといっていただろう!?」
「え?!……ははは、ああ、そのことか……」キッチョムはモリスから離れ笑い声を上げた。
「ははは、じゃない!!」
「大丈夫さ、ちゃんともと通りにしたさ」
「ほんとうだろうな…?」
「ほんとだってば、ははは」
「それならいいがな……。いいか…」モリスがまたキッチョムの肩を掴み引き寄せ、ちらりとのぞき窓に目をやると声を抑えた。「神父様ももういい年なんだ、これ以上心労を与えるわけにはいかないんのだ。もとより私の心労もいっぱいいっぱいだ!」
そういうとモリスはキッチョムをつき離した。
「わ、わかってるさ……」キッチョムは目を落とし揺れる馬車にしばらく身をゆだねていたが、意を決したように背筋を伸ばした。唇をきつく結び意を決した。
「モ、モリス!!」
キッチョムはモリスを見つめた。ウトウトしていたのかモリスは目を見開き飛び起きた。
「な…、なんだ?」
「こ、これだけは言わせてほしんだ……。その……僕は…墓守を……」
その時だったモリスの腹が空腹で悲鳴を上げた。悲痛な驚くほど大きな悲鳴だ。
「あ……、あはははは!!いやはや実のところ朝に軽い食事をしていままで何も口にしておらんのだ!!ちなみに神父様もな。キッチョム!急いでくれ、暖かいスープにバターたっぷりのパンが恋しくて仕方ない。空腹は最高の隠し味というからな、はははは!!」
モリスは微かに頬を赤らめ豪快に笑った。
「ううぅ……」キッチョムは隣で深くため息をつくと瞳を閉じた。
目を見開くと体を使い手綱をこれ以上ないほどに力強く振るった。叫び声をあげてレイジーとロシュを煽った。彼らは地面を激しく蹴り上げたてがみを風で揺らした。馬車は激しく軋む音をたてながらスピードを上げていく。
「おい、おいこら!キキキキキ、キッチョム!!」座席にお尻を激しくたたき上げられながらモリスは叫び声を上げた。
馬車は道を逸れると、激しく音をたて飛び跳ねた。土煙を高々と上げて教会への緩やかな坂道を登っていく。
「キキキキ、キッチョム!!いいっ、いい加減にしないかぁぁぁぁぁ!!」
夕日が沈み、暗い影にあたりは満たされようとしていた。夜はすぐそこまで来ていた。そんな夕暮れの終わりにモリスの叫び声がソルマントの墓場に響き渡っていた……。