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13.夕暮れのとき

 太陽が西の空に傾くころ、キッチョムの夢は終わりを告げようとしていた。

 森の木々が静かにやさしく鳥たちを枝葉の内側に招き入れ、小鳥たちは寝支度をするようにして枝葉の影で夜を待っていた。虫たちがところどころでささやき始めるとどこからともなく一匹の蝙蝠が縦横無尽に夕闇の中くるくると空を舞っていた。

 墓守の小屋は薄暗く冷たい空気が床を這って流れ始めていた。


 レイジーの背に揺られていたのはいつのことだったろうか……。夢の中でキッチョムはいつのまにかとぼとぼと薄暗い灰色の世界を歩いていた。息苦しさを感じ振り向くとぼんやりと世界がゆれていた。まるで水の中で目を開いたようにゆらゆら揺れる世界では、目を凝らしても先を見通すことができなかった。揺れながら雲のように行き過ぎる物体を追って、空を仰ぎ見る。

 そのときキッチョムの両手に重い何かがのしかかってきた。手に目をやると、とても大きな青いリンゴを両手に二つ持っていた。あまく微かなにおいがあたりにただよう。キッチョムは思わず一つのリンゴを手から落とした。そして自分の手をみた。とても小さな手をしていた。

『ああ……そうだ、僕は町に来たんだ』

 キッチョムはちいさな男の子になっていた。昔の自分の姿をなんの違和感もなく受け入れていた。転がるリンゴを追いかけて走り出した。大きな黒い影をよけながらリンゴに手を伸ばす。小さな手に力をいれてリンゴを掴んだ。

「あれ、モリスはどこへいったんだろう……」リンゴを胸に抱き、リンゴについた砂を手で払いながらキッチョムはあたりを見わたした。キッチョムはモリスの戒めの言葉を思い出していた。

 エギオンが眠りについているのをいいことに、キッチョムは町へ行く幌馬車に忍び込み身を隠していた。運悪く空の樽が町へ行く途中に幌馬車から転がり落ちた。キッチョムはあっけなくモリスに見つかりこっぴどく叱りつけられたのだ。

 しかし、キッチョムの決意はこの日揺るがなかった。

「僕は町へ行くんだ!!」大粒の涙を流しながら決して譲ろうとはしなかった。

「聞き分けのないことをいうんじゃない、お前は墓守なんだから昼間町にでていっていいわけなかろう?」

「墓守はエギオンだよ!僕は墓守じゃないよ!」そういうときつく握るモリスの腕を振り払い走り出した。そして馬車馬の足元に座り込んだ。「僕はここを動かないからね!!僕を引いていけばいいだろう!!僕はここで死んでしまうんだ!!」そういうとキッチョムは涙を流し歯を食いしばった。モリスがため息交じりに困っているのを見据えると両手を投げ出し倒れ込んだ。

 しばらくするとモリスが馬車に乗る音が聞こえ、手綱を握るのがわかった。

 キッチョムは目をつぶった。馬が鼻を鳴らすのを聞くと体をこわばらせた。

「僕はうごかない!」キッチョムは叫んだ。

「そうか……」馬車に乗ったモリスの諦めたような力ない声が聞こえた「じゃあ、ここで馬車の下敷きになるんだな……町はもう、すぐそこだというのに……」

 キッチョムは弾けるように首をあげた。

「早く乗りなさい…、わたしはこれでも忙しい身分なんだ」

 キッチョムは飛び起き涙を拭うと、急いで馬車に乗りモリスに寄り添った。

「いいか、町に連れて行ってやる。しかしこのことは神父様には内緒だ…。それにエギオンには絶対の、絶対に内緒だ…」

 キッチョムは何度もうなづいた。

 そして彼は怒ったように眉間にしわを寄せこういったのだ。

「それから、町に着いたらわたしから絶対に離れてはいけない、絶対にだ。お前は墓守の子だ、お前がなんといおうと、わたしたちがどう言おうと……お前は墓守なんだから……」モリスはそういうとキッチョムの薄汚れた白い修道服のフードを頭に深くかぶせ、皺だらけの重く大きな手のひらをキッチョムの頭に置いた。キッチョムは顔をあげフードから覗き見るように片目を出してモリスを見つめた。

 少し寂しげな瞳……、それでもキッチョムは笑みをみせ、鼻をすすった。「わかった……」そういうと薄汚れた修道服の袖で涙を拭った。


『逃げるんだ!!』

 キッチョムはリンゴから目を離すと辺りを見わたした。

『…君はここにいちゃいけない!!僕はここにいてはいけないんだっ!!』

 自分自身の声、夢を見ているキッチョム自身の声が夢の世界に響き渡った。

 幼いキッチョムは突然目に涙をため走り出した。

『……そう!走って!!はやく逃げるんだ!!』

 大きなリンゴを胸に抱き、大きな影をよけながら必死で走った。涙は頬をつたい落ち、食いしばる歯の隙間から激しく息が漏れている。

 ぼんやり揺れいていた世界が打ち寄せる波が引くようにはっきりと形を持ち始めた。すれ違う黒い影は大人たちの大きな体になってキッチョムの行く手を阻む、ぶつかった固い膝に顔をゆがめ見上げると、冷たい視線が空から降り注いでくる。

 幼いキッチョムは恐怖でおびえ足を止めた。

『だめだ!!足を止めるな!走れ!!走ってくれぇぇぇぇぇ!!』

「たすけてよぉ……」幼いキッチョムの瞳から涙があふれ出た。


「ハカモリだ!!ハカモリのガキが盗みを働いたぞ!!そいつを捕まえろっ!!」


 あちこちから声が上がりはじめ、大人たちの体が慌ただしく動き出した。すべての視線が足元に向けられた。

 その声を聴くとキッチョムは走り出した。やみくもに大人たちの視線をかいくぐり体の隙間をすり抜けていく。

「こっちだ!!」

 黒い大きな大木のような膝がキッチョムの首筋を激しく蹴り上げた。宙に吹き飛ばされたキッチョムは、はげしく揺れる世界の中でくるくると回り、地面に音をたてて落ちるひとつの青いリンゴを見た。息ができなくなり、痛みが体中を絞めつけている。

青いリンゴは果汁を血のように吹き飛ばしながら大きな皮靴に踏みつぶされた。

 うめき声をあげ転がるキッチョムの顔を町の人間に踏みつけられ身動きが取れなくなった。

「薄汚ねえ、ガキだな…!」

 キッチョムの掴んでいた残りのリンゴは取り上げられた。幼いキッチョムの小さな手が震えながら手を伸ばしている…。その手は容赦なく固い革靴に踏みつけられた。キッチョムが悲鳴をあげると男たちはまるで彼を黙らせるように腹部を容赦なく蹴り上げる。

 キッチョムはうめき声をあげることもなく動かなくなった。口の中にさびれた味が広がり息ができない……。涙はとめどなく流れでるが瞼はピクリとも動かなかった。

『助けてよ!モリスどこにいるの!?だれか助けてよぉ――――――――』


 キッチョムの瞼は固いベットの上で見開かれた。薄暗くなった墓守の部屋に夕日が微かに入り込んでいる

 ベットから逃げ出し扉を開け、外に飛び出した。目は見開かれ鼓膜が自らの鼓動で震えていた。頬は涙でぐっしょりと濡れ、いまにも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。キッチョムは頼りない膝に力を入れて大きな水桶へと駆け出し、乱暴に蓋を放り投げ何度も水をすくい顔を濡らした。息荒く水面を見つめ、揺れる自分の顔を見つめると思い切ったように桶に首を突っ込み水中の音に耳を澄ました。

 どれくらい首を突っ込んでいたのか、キッチョムは水しぶきを上げて桶から顔を出した。激しく息をして、両手で顔を拭った。

 膝から崩れ落ちると桶に額を押し付け目を閉じた。冷たい風が頬を撫でていく、遠くから微かに虫の声が響き始めていた…。

 

『キッチョム!お前は町の人間が怖いんだろ!?ハハハハ……』


 ゲイル・ハン・オスカーの声が響くとキッチョムは両手で耳を塞いだ。

「僕は町の人間なんて恐れていない!!怖くなんてない!!」

 瞳を閉じたキッチョムの脳裏にはアレーネ・グレスフォードの姿が浮かび上がっていた。「僕が、墓守を……やめる……僕だって、やめさえすれば……―――――」


 キッチョムは水桶を背に座り込み、ぼんやりと遠くの虫のさえずりに耳を傾けた。

「今夜……。グレスフォードの屋敷へ行こう……。アレーネ・グレスフォードに頼めば、おいしい料理に、たっぷりのワインをきっと準備してくれる……みんな…みんなきっと大喜びするだろうなあ……」ディヴィの子供のような笑顔がキッチョムの脳裏に浮かんだ。スタンがディヴィをからかいながらワインに舌鼓をうち、キッチョムに微笑みかけている。静かな夕焼けの空にデスブーツの住人の顔がつぎつぎに浮かんでは消えていく。みんな笑っていた。楽しそうな笑い声が響き渡っていた。

 キッチョムはそれを眺めながら微かに微笑んでいる……そして、その頬には一筋の涙が流れ落ちていく……。

「僕は……、僕は墓守を……やめる……」そうつぶやくと膝に顔をうずめ、夕闇の中微かに肩を震わせ続けた。


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