11.スプリング・ヒールド・ジャック-『運命の日2』‐
徒弟の一人がホイットマンディーの屋敷の居間で同じ場所を行ったり来たりあたふたしながら心配そうに靴音をたてていました。ホイットマンディーの妻ステファーニが産気づき産婆を慌てて連れてきたものの、ステファーニのうめき声を聞いた徒弟は心配で居ても立っても居られないのでした。
こんな時にわたし一人とは…。徒弟が順番に泊まり込みステファーニについていたのですが、まさか自分の当番の日に産気づくとは思ってもいませんでした。心細さからかホイットマンディーのことを考えました。ここ最近は作業場にこもりっきり、呼びに行こうものなら、いえ、扉をノックしようものなら恐ろしい声で罵声を浴びせられるのです。
自分の子供が生まれるというのに…親方はいったいどうしてしまったんだろう…。
そんなことを考えながら両手を組み合わせたり頭を掻いたり、後は産婆に任せ、神に祈るのみでした。
「ギャアァァァァァァァ……!!」
徒弟は驚いて顔を階段の方に向けました。とても恐ろしい叫び声…。徒弟の肩は飛び上がり背筋がまるで凍りついたように冷たくなりました。
しかし、まるで空耳だったかと思えるほどにあたりは一瞬にして静寂を取り戻しました。
居間を出てよくよく階上を見てみます。階上はうす暗くとても静かでした。
手すりを握り耳をそばだてながら階段を上がります。
子供の泣き声だろうか…?生まれたのかな…?でも、でもあれは女のかすれたような叫び声だった。老婆の…産婆の叫び声だ…。
徒弟はとても恐ろしくなりました。それでも階段を上がると産婆が入っていた寝室へと向かいました。廊下を進み、寝室のドアに耳をあてると中の様子を伺います。しかし、物音ひとつ、赤ん坊の泣き声も聞こえませんでした。ステファーニにの苦しむ姿を思い出しました。
あ、あんなに苦しそうだったのに…。徒弟は思いました。
ドアノブに手をあてると中の様子をうかがいながら静かにドアを開いていきます。
「フフフ……」微かにステファーニの笑い声が聞こえました。
ドアを開き、部屋を覗き込むとベットで血の付いた布を抱き幸せそうに笑みを見せるステファーニの姿が見えました。
徒弟は、思わず胸を撫で下ろしました。
ああ、さっきの叫び声は私の空耳だったか…。もしかしたら、赤ん坊の泣き声と聞き間違えたのかも…。
一瞬胸を撫で下ろしたものの赤ん坊が泣き声を上げていないことに気づきました。生まれた赤ん坊はケツを叩いてでも呼吸させなければいけないと、誰かに聞いたことがありました。
徒弟は慌ててドアを開きステファーニに駆け寄ろうとします。その時足元にあった何かにつまづきました。見下ろすとそこに産婆が倒れています。口から泡を吹いていました。
こんなときに!泡を吹いて倒れるなんて…。徒弟は思いましたが、いまは産婆どころじゃない赤ん坊が産声を上げていないのです。
徒弟は産婆から目を離すと急いでステファーニと赤ん坊へ駆け寄りました。
「奥さん、大丈夫ですか!?赤ん坊は、赤ん坊…、うあああああ…!!」
徒弟は思わず、唸り声をあげてベットから飛びのきました。足の力が抜け、腰を落としてしまいました。足を蹴りなんとかベットから離れていきます。後ずさりながら産婆を見ました。あの赤ん坊を取り上げたのか…。それで、それで…。さっきの叫び声はやはり産婆だった!!
赤ん坊の顔は血色の悪い緑色、額に二つの小さな突起がついていたました。目元は目玉がなく二つの穴がぽっかりと開いているだけ、鼻はなく唇はなくへの字に曲がった黒い穴があるのみでした。
徒弟はステファーニが抱いている布きれから褐色の小さな足がはみ出すのを見ました。不自然に長い指が力なく垂れています。
「ああ…ああ…」
徒弟はそれを見ると恐ろしさで振るえあがり、なんとかドアのもとへ行こうと必死に床を蹴りつづけました。
しかし、徒弟の背中はドアには届きませんでした。なにものかの膝にぶつかったのです。徒弟は背中の何者かに目を向けました。
その何者かに見覚えがありました。ですが、それがホイットマンディーだと気付くのにとても長い時間を必要としました。それほどホイットマンディーはやせ衰え、まるで地獄の亡者のごとく姿を変えていたのです。手には短い作りかけのような剣を力なくぶらりとぶら下げていました。ぶらぶらと揺れる剣は芯の部分が美しく銀色にぼんやりと輝き、刃の部分が黒く重たい光を放っています。
「生まれたのか…。生まれたんだな…」ホイットマンディーは力ない足を踏み出しました。ゆっくりとベットのステファーニと赤ん坊のもとへ歩み寄ります。
「ああ、あ…、親方それが、それが…」徒弟は何とか足を引き寄せ四つん這いになると歩を進めるホイットマンディーの足に手を伸ばそうとします。しかし震える腕はホイットマンディーには届きませんでした。
ホイットマンディーのだらりと下げた腕の筋肉が引き締まるのが徒弟の目に写りました。ホイットマンディーにきつく握りしめられた剣が持ち上がっていくのです。
「俺の子が生まれたんだな…」
ステファーニは目をあげました。
「ええ…あなたと私の子供…」そういうとステファーニは抱きしめていた手を緩め赤ん坊を彼に差し出しました。
ホイットマンディーの目が恐ろしいほどに見開かれました。今にも目玉がこぼれ落ちるかというほど顔をこわばらせ、唸り声をあげました。まるで鬼だ…。地獄の鬼だ…。私を追ってきたのか…。私の子供に成り代わったのか…。
ホイットマンディーの剣を持つ手が恐ろしく怒りに、悲しみに震えました。
あいつはこの時を待っていたのか…。はじめからこうなることを知っていたんだ…。わたしが…、この手でわが子の命を『安息の剣』に差し出すことを願って…。
彼は表情を持たない緑色の顔を、褐色の肌を睨み付けました。
いまさら未練などあろうか…。鬼だ…鬼が私を追ってきたのだ…。この鬼がわたしの子であるはずがない!!
ホイットマンディーは剣を高々と持ち上げました。いまにもホイットマンディーが剣を振り下ろそうとするときでした。
「なにをするんですか!!」
徒弟はホイットマンディーの背後から腕をつかみ、剣を握るホイットマンディーの手に手を重ねました。
「…離せ!!離せぇ!!」ホイットマンディーはそのやせ衰えた腕からは想像もできない力で徒弟の腕を振りほどきました。そして、床に転がろうとする徒弟に剣を振るいました。徒弟の顔から血がほとばしります。顔を手で覆い、叫びながら床の上を転がりました。
「おまえにこの剣の偉大さがわかってたまるものか!お前のような徒弟にできぬ仕事だ!おまえのように人の技術を盗むことばかり考えてるやからがこの剣に触れるなど百年はやいわ!これは俺の名誉だ!俺の栄光だ!触れさせるものか…。出ていけ、出ていくんだ!お前の薄汚い血で、命で…、そんなもので私の剣をけがすんじゃない!!」
徒弟は切られた顔を右手で抑えています。指の間からおびただしい血が流れ落ちていました。唸り声をあげながら床に這いつくばるとドアに向かってずるずると床を這い進みました。
ホイットマンディーは目をステファーニに向けました。彼女は赤ん坊を抱きしめ、ホイットマンディーに背を向けています。その背中は震えていました。
「出せ…、出すんだ…」
ステファーニは必死で首を振りました。
「…出すんだ!!」
ホイットマンディーはステファーニの肩を掴むと強引に体を引き、赤ん坊を奪おうとします。
「いやです!どうして…どうして…!?」
「鬼だ…!この剣にその鬼の魂を差し出すんだ!!」
「違います、この子はわたしの…わたしとあなたの子供です!どうして…こんなに、こんなに愛らしいのに!!」
ステファーニはホイットマンディーの腕を振り払いました。ホイットマンディーが掴んでいた肩にはうっすら血がにじんでいます。
「愛らしい……?この子が愛らしいというのか…?愛しているというのか…!?」
ホイットマンディーの瞳が涙でうっすら濡れ、剣を持つ手が震えました。
「ええ!どうして愛さずにいられるのですか…?!こんなに愛らしいのに……」ステファーニの長く美しい指先が赤ん坊のへの字に曲がった口元に触れました。赤ん坊の口は柔らかく動き指先を探して動いています。そのときかすかに「アァ…」という小さな声を発しました。
「男の子が生まれたら、名前は「カスパー」…、そうでしたわね…。カスパー・ハウザーそれがこの子の…、わたしとあなたのたった一つの宝物……」ステファーニは大粒の涙をとめどなく流し、赤ん坊を強く抱きしめました…。
「おまえは愛しているのか…。愛し続けることができるのか……。わたしは…、わたしはなんてことを……!!」
剣がホイットマンディーの腕から離れ床に音をたてました。彼はベットにかけていた足を床におろし、崩れ落ちました。涙はとめどなく流れ、床にいくつも黒いしみをつくるのでした。