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11.スプリング・ヒールド・ジャック-『睡魔』‐

 その日からホイットマンディーはまるで人が変わったように鉄のハンマーを振るい、ヴァルハラの鉱石を鍛え続けました。高炉の前でまるで炎を纏ったかのように赤く照らし出されるホイットマンディーの姿は徒弟、そして妻ステファーニでさえも声をかけることがはばかれるほど恐ろしい姿に見えました。

 ホイットマンディーのそばにはあの書物が投げ出されていました。彼はその書物に書かれている通りに行動しました。ページが進むと自らの体を傷つけ、血を書物にささげるのです。彼の体のいたるところに傷ができていきます。彼の体のどこを傷つけ、どこの血がほしいのかすべては書物に指定されていました。

 彼の心の中には功名心と自尊心が渦巻きます。ヴァルハラの鉱石の輝きの先にはあたかも神が存在しそれが自分と重なって思えるのです。神なる存在、そう考えたとき自らの腕がいままさにそれに届かんとしているのを感じ取ることができました。

 そしてもう一つ、彼の感情を支配するものがありました。それは言い知れぬ恐怖です。

 彼は寝る間を惜しんで高炉に向かいましたが、彼も人でした。体の力は時とともに失われ、強い睡魔が瞼を重くします。

 彼は恐ろしい悪魔に追われていました。地獄の鬼でした。睡魔に負ければまるで別のドアが開いたかのように夢の世界へ落ちてしまいます。しかし、それは夢ではありませんでした。彼にはすでに夢も現実もありません。ヴァルハラの鉱石を鍛え続け、地獄の鬼から逃げ続けるのが彼がもつことができる唯一の人生だったからです。


 地獄の鬼は睡魔に負け瞼を落とした時にやってきます。落ちた瞼は一瞬のうちに軽くなります。しかし瞼を開くとそこは針のような岩が地面から突き出している岩と砂だけの世界でした。その岩にかがみ込み急いで身を隠します。

 やがて翼をはためかせる音が遠くから聞こえ始めます。ホイットマンディーは両腕をにぎりしめ、拳を口に加え強くかみしめます。恐怖で声を上げるのをそうやって我慢するためです。痛みで恐怖を打ち消すためでもありました。彼は岩陰でずっと息を殺します。

「ホイットマンディィィィィ…ホイットマンディィィィィィ…」

 ホイットマンディーの肩が恐怖で震えています。

 地獄の鬼の声は翼の音が大きくなると同時にしだいに近づいてくるのです。

「ホイットマンディィィィィ…いるんだろう…、そこに…。今日も来てるんだろう…」

 彼は立ち上がると同時に死に物狂いで走り出します。大きな岩をかわし、小さな岩を飛び越えました。自分の呼吸が荒々しく耳に響きます。ホイットマンディーの心は今にも自分の首が胴体から切り離されるような思いに支配られていました。

「ホイットマンディィィィィ!!」

 突如として、翼の羽ばたきが嵐に揺れる木々のような激しさに変わりました。

 ホイットマンディーの首が飛んだとしてもおそらく胴体だけでも走り続けることができるほどに、彼は必死に走り続けました。

「ぐああああ…!」

 彼の叫び声が岩場に響き渡りました。それは恐怖とはげしい痛みから出た叫び声でした。彼のひざ下に岩がぶち当たったのです。彼は地面に転がり痛む足を抑えました。転がりながら翼を広げ恐ろしい速さで向かってくる地獄の鬼を視野に捕らえました。

 褐色の肌、炎を纏っているような真っ赤な翼がはげしく風を掻いています。足の指が手の指のように長い、きっとその足でホイットマンディーを捕まえるつもりでいるのでしょう。手には鋼のように真っ黒な長く伸びた爪が生えています。それはホイットマンディーを切り刻むため。そして首から徐々に顔に向かって緑色に変色していました。瞳は白目の部分がなく鉄の球をはめ込んだような漆黒の瞳をしています。緑色の恐ろしい顔には二本の歪んだ角が生えていました。

「来るな!!来るなぁぁぁぁぁ…!!」ホイットマンディーはそう叫び、恐ろしさに耐えかねて目を閉じました。


「おいおい…しっかり走れ、世話を焼かせるな…」ホイットマンディーが目を開くとそこにあの黒いローブを纏った男の背中がありました。男はホイットマンディーと地獄の鬼の間に立っています。ちらりとホイットマンディーに横顔を見せるといいました。

「今日はもう少し走れると思ったんだがな…。いいか、睡魔が訪れるまで走り続けろ!!いつもどおり走り続けろ、振り向くんじゃない!!」

 ホイットマンディーは立ち上がりました。手には血がついていました。膝から血が流れ出しています。

男はこの恐ろしいもう一つの現実の世界でかならず彼を助けにあらわれるのでした。彼は無言でなんどもうなづくと走り出しました。ひどく傷む膝を忘れたかのように必死で走りました。恐ろしい鬼の声が聞こえます。

「またここで待っているぞ…!!ホイットマンディィィィィ!ホイットマンディィィィィ!!」

 彼は恐怖からでしょうか、好奇心からでしょうか、あるいは男の身を案じてでしょうか、いつも彼を助けに現れるあの男のことが気になり、ほんの一瞬後ろを振り向きました。

 ローブの男が鬼の首を掴んで持ち上げていました。鬼は首を絞める腕を両腕で握り返し、羽をばたつかせ、足の指で男を引きはがそうともがいています。

「ぐう…、離せ、離せ、お前ごときが俺様の邪魔をするんじゃない…。たかが死神の分際で……」

 ホイットマンディーにはそう聞こえました。いや、二人の姿を見ただけで何も聞こえなかった。彼は必死にそう思おうと努めました。ただひたすらに張り続けることだけを考えました。彼を救うことができるのはたった一つ―――。睡魔だけ、だからです。


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