9.夜明け-1-
夜の静けさはやがて遠ざかろうとしていた。遠くの空がかすかに白く色を失うと同時に山の黒い影を日の光がぬぐい去ろうとしいていた。キッチョムは広げた地図をたたみ、分厚い書物の間に挟んだ。革紐で書物をくくり、本棚に置いた。また、知らず知らずのうちにため息をついていた。
僕は墓守をやめるのか…。何度も繰り返しみずからに問いかけていた。ここ数日というもの頭の中はそのことでいっぱいだ。しかし、墓守をやめるということがどういうことなのかキッチョムにとってはさっぱりわからないのだ。ただ突如として牢獄のようなこの小屋を飛び出して、広く青い空の下、草のにおいを運んでくる風の中で、誰かと笑顔であいさつを交わしてみたかった。陽だまりの中で誰かと語り合ってみたかったのだ。
明日、もう一度クレスフォードの屋敷に行こう…。もっともっと彼女の話を聞きたいと思った。そうだ、もう一度彼女の話を聞いてみよう。じつのところこの考えがキッチョムの脳裏によぎったのは一度や、二度のことではない。けっきょくのところここまで考えが進むと振り出しにもどるのである。そんなことしてどうなるのだろう…?僕は墓守なのに…。
ふと、キッチョムは顔をあげた。腫れぼったい目元に一瞬力がこもった。
「そうだ、グレスフォードの婦人にお願いするんだ…」キッチョムはこの考えがしごくまともなように思えた「デブィはおいしいものを食べたがっていた。おいしいワインを…。デスブーツのみんなもきっと同じに違いない。クレスフォードの婦人に頼んでみよう…!あの人はきっととても優しい人なんだ。だから僕を憐れんで墓守をやめていいといっているに違いない。僕に学問もやらせてくれるんだから…、ほかにも何かいってた、なんだったっけ?そう、支援だ、僕のことを支援してくれるっていってた。だったら、食べ物やワインくらい…。きっと、きっと…」
キッチョムは靴音を響かせながら部屋の中を取り留めもなく歩き回った。ふいに足を止めると固い木を組み合わせただけのベッドにその身を投げ出した。大きく息を吸い込み胸が膨らむのを感じ取る。ひさしぶりに胸が躍るのを感じていた。ふと天井に残る傷跡、血のシミ跡が視野に入ったがキッチョムの目はそれに向けられことはなかった。無意識に寝返りをうち胸に枕を抱きしめた。そして目を閉じた、早鐘のように鼓動が耳に響いていた。口元には笑みが浮かぶ…どれくらいの時間そうしていたろうか…、やがてキッチョムは眠りに落ちていった…。
キッチョムが眠りについた小屋の周りに暖かい光が充ち始めた。モリスがあわただしく場所の準備をし、神父を乗せて出かけていく。微かにレイジーやロシュフォールの立てる蹄の音が優しく朝の静けさの中に響いていた。
小屋に忍び込んだ朝の光がキッチョムの瞼をかすめる。瞼が微かに振動する…。
キッチョムは夢を見ていた。
大地に降り注ぐ日差しの中、とても暖かい風がキッチョムの頬を撫でている。レイジーの背にまたがりのんびりとキッチョムは小高い丘へ向かっていた。
マントを脱ぎレイジーの首にかけ、手綱を緩めて空を見上げた。澄み渡る空にちぎれた雲が白く宝石のように輝き流れている。森は遠く緑をひろげ、太陽に照らし出される草花は風にやさしく揺れている。鳥たちのさえずりはキッチョムがやってきたことを歓迎するかのように声をあげていた。
ふと道の先に目を向けると小さなロバをつれた農夫がこちらに向かってくる。キッチョムは胸の高鳴りを感じながら農夫を見ついていた。ロバはレイジーを見ると小さく鼻を鳴らした。そして農夫はすれ違いざま笑っていった。
「よいお天気ですな…」
キッチョムは満面の笑みで答えた。
「…ええ!とても!!」
キッチョムはいつまでも農夫の後姿を馬上から見つめていた。農夫の少し曲がった背中がとても愛おしかった。
レイジーが足をとめた。前を向くと小高い丘の上にたどりついていた。眼下には青くどこまでも広がる湖がひろがっていた。
「ああ…、レイジーあれが湖だ…」まるで鏡のようだった「ほら、空が落ちてきたようだ…。それに…雲が泳いでる…」キッチョムは笑った。
やがて湖が日の光を反射させてぼんやりと輝き始める、キッチョムはまぶしさで何度となく瞬きを繰り返した。光の反射は湖面いっぱいに広がる…すると、そこに黄金の宮殿が現れた。
「…ああ、宮殿だ…。見て!レイジー、あの小さな黒い影はみんな人や馬なんだ…。宮殿は王様が住んでいて、この世界を動かしてるんだ…」
宮殿が波を打つ…。小さな滴を一滴落としたような波紋が宮殿の中心からキッチョムの足元までやってくる。湖の枠組みを超え、地に伝わり、丘に連なる崖を波紋が登ってくる。キッチョムには、宮殿が湖と重なってみえた。その瞬間、湖の中心が天高く巨大な水しぶきを上げると角を持った白馬が現れた、その馬が一瞬、空中で停止する。
レイジーは地団駄を踏んで嘶いた。
水しぶきの中から巨大な船首が現れたのだ。大理石のように艶を放つ白馬を先頭に立てその帆船は水中から飛び出しキッチョムの前にその巨大な船体を表した。船は船体を湖に叩きつけた。水面が怒号をたて、天に届くかのように舞い上がった。
「船だ!!急がないと!!」キッチョムは叫ぶと同時に手綱を引き、あぶみでレイジーの横っ腹を蹴りつけた「僕は、あの帆船にのるんだから!!」
丘の上から崖のように続く坂道を砂煙を立ち上げ全速力でレイジーは駆け降りていく。帆船は、雲のように真っ白なたくさんの帆に風を受け、水面を滑るように速度を上げ水しぶきをあげている。
キッチョムはあわてて懐を、ポケットを必死にまさぐった。指に小さな紙切れの感触があった。それを取り出して天高く掲げた。
もう船の半券ではなかった。一枚のチケットが吹き付ける風の中、太陽を背にしてはためいていた。白く輝くチケットを頭の上で振りながらキッチョムは叫んだ。
「おーい!!僕はその船に乗るんだ!!」キッチョムの胸が壊れてしまうかと思うくらい高鳴っていた「レイジー、レイジー、近くに港があるはずだ!!」そういうとあぶみに力を入れた。
レイジーは帆船に負けないくらい早かった。キッチョムとレイジーは帆船を見ながらどこまでも走りつづけた。そして叫び続けた…。
「おーい!!僕はその帆船にのるんだぁ!!――――――」