8.グレスフォードの老婦人-5-
レイジーは最悪の気分だった…。頭を前後に振ってなんとか前足を踏み出す…まさに疲れたような足取りで歩を進めた。クレスフォードの屋敷を後にしてから、いや、クレスフォードの屋敷の扉を出た時には、すでにキッチョムの様子はおかしかった。まるで夢遊病者のような足取りで戻ってきたかと思うと、だまって鞍にまたがりフードですっぽりと顔を隠したきりあぶみを操ることも忘れていた。レイジーは仕方なく自分で歩を進め、クレスフォードの屋敷をあとにしたのだった。
そしてキッチョムはあろうことか白い袋を見逃したのだ。レイジーがのんびり白い袋の横を通り過ぎようとしたとき、キッチョムはピクリとも反応しなかった。走ってるのではない、レイジーはただ歩いていたのだ。レイジーは慌てて鼻をならした。キッチョムは馬上から降り袋を拾い上げて、フックにひっかけた。馬上からでも簡単に取り上げられたはずだった。
とんでもないことになったぞ…レイジーは思った。きっとあの大きな屋敷には魔法を使う悪魔が住んでいたに違いない。キッチョムの魂を抜き取ってしまったのだ。それともキッチョムの体の中に別の何かが…。
「レイジー…」馬上に上がったキッチョムからうつろな声が聞こえた。
レイジーの首筋に悪寒が走る。冷たい汗が吹き出し、首を持ち上げ石造のように固まった。両耳をゆっくりと後ろに向ける。
「走ろう…」
え…?レイジーは胸を撫でおろした。キッチョムはキッチョムだった…そう思った。しかし、突然キッチョムは声を荒げた。
「レイジー!走るんだ!全速力だ!」
キッチョムが足にはめたあぶみに恐ろしく力が加わり、レイジーの横っ腹をはげしく蹴り上げた。手綱を鞭のようにふるい叫んでいる。
前足を大きく振り上げ、いななきを響かせながらレイジーは全速力で走りだした。まるで体を炎で焼かれている気分だった。
今度はキッチョムは袋を一つとして逃す気配はなかった。それ以上にいつもより激しく体を動かしている。キッチョムの目が袋をとらえるたびにレイジーの体が右へ左へぶれるのだ。森の暗い木々が迫ってきていた。町の出口だ。
しかしキッチョムはレイジーの足が緩むことを許さなかった。
「レイジー森をつっきるんだ!止まらないで!どこまでも…どこまでも…!」
無茶だった。森を突っ切るってことは教会を通り過ぎるってことだ。悪魔だ…!きっとキッチョムの魂は魔法使いに奪われて、かわりに悪魔がキッチョムの体を乗っ取ったんだ!!
しかしレイジーがもっとも恐れるのは悪魔ではない。あの馬小屋の主、ロシュフォール・レックスだった…。
レイジーは教会への入り口で思いっきり足を上げ走るのを拒否した。地団駄を踏み暴れたのだ。キッチョムはあぶみに力を入れ、手綱を引いた。
「レイジー!レイジー!わかってるさ、教会だろ!?ついたんだ!!」
レイジーはふと足を地上にとどめた…。息荒く鼻をならした。馬上から飛び降りたキッチョムの顔に目を向けた。とても優しい笑顔をレイジーに向けていた。「さあ、帰ろう…。今日はたくさん走った…。疲れたろ…?」鼻筋を優しく撫でてくれるキッチョムは…、キッチョムだった。
ただキッチョムは今まで見たことのないさみしい笑顔をレイジーに向けるようになっていた…。