8.グレスフォードの老婦人-4-
グレスフォードの大きな扉が人ひとり通れるほど開かれていた。キッチョムが覗き込むと中は意外にも真っ暗だった。ランプの光に照らされてぼんやりと闇の中に男が浮いている。先に行く男はすでに階段に足をかけキッチョムを待っていた。
キッチョムが中に足を踏み入れると階段の中段まで上がっていき手招きをした。
歩きながらあたりを見わたすとキッチョムの目は驚くほど早く暗闇に慣れていく、瞳孔が光をかき集めるように開く。キッチョムの目は不思議なレンズのようだった。
キッチョムの目はうっすらと二階の廊下、扉などをうっすら見て取れることができるようになった。
玄関はひろく綺麗に磨かれた石で格子状に覆われている。ランプの光を受けて光っていた。赤い絨毯が引かれている。しかしところどころ擦り切れている。正面の大きな階段は途中で二手に分かれており、ちょうど踊り場のようになっている。そこには二枚の大きな肖像画がかけられていた。男は左側に上がっていく階段に足をかけて踊り場でキッチョムを待っていた。
キッチョムは踊り場まであがると肖像画を見上げた。ふたつの絵に描かれた人物は同一人物だ。ブラウンの髪と口髭。やさしい目がとても印象的な男だ。ゆったりとした服を着て椅子に腰かけ微かに笑みを浮かべている。キッチョムは自分の中の好奇心がゆっくりと頭をもたげ始めるのを感じていた。まるでさっきまでの不安を覆い隠すようにそれは心を支配していく、まるでスタンがくれた本を読んでる時と同じような鼓動の高鳴りを感じた。
もう一方の絵のその男は鎧を身にまとって立ちあがっていた。遠くをにらみつけるような目をしている。室内の椅子に腰かけている優しい目とは対照的に勇ましい印象をうける。なんだか背筋を思いっきりひっぱたかれたような、居住まいを正さずにはいられない圧迫感があった。
「ゴホンッ…!!」突然闇に響いた咳払いにキッチョムは目を上げた。ランプが目の前に近づけられていた。一瞬目の前が白一色になる。瞳孔が激しく収縮する。キッチョムは目を閉じずにいられなかった。
男はキッチョムが頭を激しく振るのを歯牙にもかけず階段を音もなく上がっていった。激しく瞬きするとキッチョムは慌てて男の後に続いていく、階段をあがると暗い廊下の先に男のランプが揺れていた。廊下の四方を照らし出しながら男の背中を浮かび上がらせている。不意に足をとめドアに耳を近づけ軽くノックを繰り返した。
大きな屋敷だったが意外と早く目的の部屋についたらしい。キッチョムは少し残念に思わずにいられなかった。
男は小さなノックを何度か繰り返した。するとすぐに扉の向こうから返事が聞こえた。
「はいりなさい…」
男は扉を開いた。
「彼を連れてまいりました。すぐここへ…」そういいながら暗い廊下に目を向けようとした。「なっ…!!」
キッチョムはいつの間にか男のすぐ後ろに立っていた。腰をすこしかがめ中を覗き込んでいるのである。わきの下のキッチョムの見開かれた目と男の視線が合わさった。
男はキッチョムをにらみつけた。キッチョムはキョトンとした目をしていたが、なにかを察知したのか背筋を伸ばすと一歩下がった。
「なにをしているのです?はやく入りなさい」
グレスフォードの老婦人は年老いていたがも声には力がこもっており、背筋を伸ばして立つ姿は年を感じさせないものがあった。本を読んでいたのであろう分厚い本に手をおいていた。
男が身を引いたので言われるがままキッチョムは部屋の中に入った。
「コールリッジ…」
男は名を呼ばれると黙ってうなずきドアを閉めた。
とり残されたキッチョムは部屋の中をぼんやりと見わたした。なんだか夢の中にいる気分だった。壁に掛けられた燭台には真新しい蝋燭がたてられ、ランプが暖かい光をあたりに向けていた。とても明るい部屋だった。しかしそこは客間とは程遠い部屋だ。老婦人が座っていただろうソファと椅子、書物の置かれているテーブル以外の家具は白い布をほこりよけに被っていた。どうやらキッチョムは歓迎されているわけではなかった。
「オーハン・キッチョム…」キッチョムは不意に名前を呼ばれて老婦人をみた。
ブロンドの髪は頭の上に束ねられ、注意深く見るとところどころ白くなっているのがわかった。大きなエメラルドグリーンの瞳の周りには深くしわが刻まれ、皮膚が乾いているような印象を与える。口元に刻まれたしわは浅かったが首筋にまで伸びいていた。
背筋を伸ばしていると大柄な体がさらに大きく見える。肖像画の鎧を着ていた男を思い出さずにはいられなかった。
老婦人はキッチョムに背を向けると窓に向かって歩き始めた。
「エギオン…」キッチョムは自分の名前につけたすようにこう言った。「僕はオーハン・キッチョム・エギオン」
「その名前を使うのはやめになさい…」老婦人は一瞬足を止めるとつぶやくように言った。窓のそばに歩み寄るとガラスに映るキッチョムをみた。
キッチョムはアレーネの後姿を見つめた。とても居心地が悪かった。さっきまで頭をもたげていた好奇心はとっくに消し飛んでいた。ガラスに映る老婦人とキッチョムの視線がぶつかった。
「わたしは、アレーネ・グレスフォード。私のことはこれ以上話すつもりはありません…、それにあなたにとってはどうでもいいことです」
キッチョムは視線を落とした。自分がなぜここにいるかまったく見当がつかなかったからだ。まるで叱られているような気分だった。そんなキッチョムには無関心にアレーネは続けた。
「時間がありません。単刀直入にもうしましょう。墓守をおやめなさい…」
キッチョムは顔を上げた。よくわからなかったのだ。やめる…?墓守を…?
アレーネはキッチョムに体を向けると反応を見るようにその眼を見つめた。だが、その眼からは得るものがなかったのだろう。
「いいですか?わたしは、墓守をやめなさい、そういったのです」
キッチョムは目線を落とし床を見つめた。キッチョムから考える能力が失われていた。足元に答えを探す。あらぬ方向に目を向け目に映るものの中に何かしらの答えを探そうとしている。
しかしアレーネは構わずつづけた。
「あなたは墓守には向いていない。代わりの者は簡単に見つかるでしょう。神父が用意できないなら、私が枢機卿に手をまわしましょう。あなたより墓守にふさわしい犯罪者が世の中にはたくさんいるのですから…」
キッチョムの頭の中に遠くで鳴る鐘のようにぼんやりとアレーネの言葉が響き渡っている。声が響いてくる先に耳を傾け、それを探そうとする。
「あなたは町で普通の生活を送ればよいのです…、太陽とともに目覚め、月が昇れば眠ればいい。この町にとどまりたくなければそれもいいでしょう…。どこか別の国へ行き、あなたは学問をなさい…。あなたが世の中を理解できるまで、わたしが支援しましょう」
まるで体が宙に浮き始めたようだった。ぼんやりと体が揺れはじめ、目の前にスタンがくれた本のページがまるで手で触れることができるかのように再現された。それは光とともに現れては消えていく。キッチョムはその世界に吸い込まれるような気分だった。
ただ、一つの言葉がまるで死人に杭を打ち込むようにキッチョムの胸に強く突き刺さった。
「―――条件は、たったひとつ、あなたが墓守をやめることです…――――」