8.グレスフォードの老婦人-3-
レイジーは悔しさで足を踏み鳴らした。首を振り地団駄を踏んでいる「どうして…こんなことに…」レイジーは悔しくてたまらなかった。最高の仕事をした矢先、広い通りを曲がったところでキッチョムは綱を強く引き、レイジーの前足を振り上げさせ首をあらぬ方向へ向けさせたのだ。レイジーはわけがわからず暴れる以外しようがなかった。
「落ち着いてレイジー!落ち着くんだ!」馬上でキッチョムが叫んでいる。手綱を右に左りに引きながらレイジーが暴れるのを制止させようとする。
「あれを、あれを見て…」
ようやくレイジーは落ち着きを取り戻した。暗い道の先に明るい光がぼんやりと揺れている。右へ…左へ…右へ…黒い影がランプを持ってなにか合図を自分たちに送っているらしかった。
レイジーがおとなしくなると、闇にぼんやり浮かぶランプの光はぴたりと止まった。自分の存在を知らせるためにランプを振っていたのは明らかだった。キッチョムは馬上でしばらくランプを見つめていたが意を決したようにあぶみから足を離してレイジーの背中から飛び降りた。
レイジーは首を振り鼻を鳴らした。寄進品集めで足を止めてしまったうえに、墓守が背中から降りてしまうなんて…あってはならないことだ。
キッチョムはレイジーに目を向けると彼の鼻筋を撫でた「怖がらなくていいさ…、大丈夫…」そういうとキッチョムはランプの光に目を向けた。手綱を引き歩き始める。
これ以上ひどいことは起こりそうになかった、レイジーにとって最悪の出来事はとっくに起きてしまったんだから。力なく首を落とすと手綱にひかれるままレイジーは歩を進めた。さっきまでの最高の気分が嘘のように消し飛んでいた。
キッチョムは光に近づく道すがら腰を落として白い袋をひとつ拾い上げ鞍のフックにひっかけた。歩みを進めていくとランプの光が大きなコートの男を闇に浮かび上がらせた。大きな男だ、でもマッチ棒のように痩せていた。初老の男ですでに背筋が幾分まがっている。まるで首が転げ落ちてきそうだった。
キッチョムがレイジーを引き連れ近づくと後ずさりをして大きな門の影に隠れようとする。おびえているように見えた。それを見てキッチョムが足を止めると、今度は激しく手招きをする。キッチョムが男のそばまで来るころには門を馬一頭通れるほど開いて体を隠し顔とランプだけをのぞかせていた。キッチョムが少し見上げなければならないくらいのその大男は声を押し殺していった。
「な、なにをしているんですか!?はやく、はやく中へお入りください!!」男は声を落としていたが丁寧な物言いとは裏腹に焦りといら立ちが感じられる強い言い方をした。
しかし、キッチョムは大きな門を見わたし、闇の道に沿ってどこまでも続くような塀に目を奪われた。ここはたしか、グレスフォードの屋敷だ。キッチョムでもそれぐらいのことは知っていた。モリスや神父の話にときどき出てくる名前だったからだ。
「町の者にみられるわけには行かないんです!早くお入りください!」そういうと男は門の中に逃げるように入っていく。首を振りとどまろうとするレイジーを引っ張りながらキッチョムは門の中に入る。レイジーは敷地内に足を踏み込むと諦めたように歩き始めた。
敷地の中に入るとあたりを見わたす。広い庭の真ん中にとても巨大な岩があった。石というより崩れた壁だ。城壁の一部だろうか…。もしかしたら以前は目の前の大きな屋敷よりももっと大きい、空を覆い隠すような大きな城が目の前にそびえたっていたのかもしれない。キッチョムはそんなことを考えた。巨石の周りは手入れの行き届いた芝生が円形の島を作っており周りを石畳の道が取り囲んでいた。
大きな観音開きの扉が前方に見える。数段の石の階段の上に立つその扉は教会の扉ほどの大きさがあるが、もっと厚く重そうに見えた。その扉の石段のそばに一人の少年の影があった。どうやら大きなハンチング帽をかぶっているらしく体に不釣り合いな大きな頭をしている。
大きな男はキッチョムとレイジーを残し足早に進み、少年の前に立ち何やら話をしていた。大きなマッチ棒のような男と体に不釣り合いなハンチング帽をかぶる少年の影がああだこうだと体を動かしている。まるで影絵芝居の人形のようでとても滑稽だった。
男はキッチョムに体を向けるとはげしく手招きをした。
キッチョムは足を少し早めて男のもとに近づいていく。しかし男は自ら少年を引き連れやってくると「お急ぎください…手綱を…」そういうとレイジーの手綱をキッチョムの手から半ば強引に奪い少年に引き渡した。「彼は馬の世話係です…、さ、はやく奥様がお待ちです…」
奥様…?グレースフォードの婦人だ…「彼女がいったい、僕に…?」そう聞きたがったが目の前でレイジーが鼻を鳴らしていまにも声をあげそうになっている。少年が腰を引いてレイジーをひっぱり始めていた。あわてて鼻筋を撫で「大丈夫…すぐもどるよ」とキッチョムがいうといやいやながらもレイジーは観念したようだった。
男はすでに歩き出しており、足早にまっすぐ扉に向かっていた。キッチョムもレイジーの手綱を離すと男の足に合わせて足早についていくしかなかった。