7.-デスダスト-3
キッチョムはマントから手を離すと書棚の前に歩み寄る。壁いっぱいに書棚が並べられ、乱雑に書物やひもで縛った書類が放り込まれている。キッチョムは何冊かの本に目を通していた。しかしどれもエギオンがキッチョムに話してくれた内容だった。だからほとんどの本に目を通していない。残りの本や書類も結局すべてエギオンがキッチョムに教えたことばかりだろうから…。エギオンは朝日が昇る時間になっても書物を開いていた。夕暮れ近くキッチョムが目を覚ますと書物を開いたまま居眠りをしている。そんなことが日常茶飯事だった。
キッチョムは書棚に歩み寄ると本と壁の間に手を差し入れた。右手で落ちそうになる本を支えながら分厚い一冊の本を取り出した。ページとページの間にメモや何かがたくさん挟まっており、それらがあちこちから飛び出していた。それらが落ちてしまわないように革ひもできつく結ばれている。
それを机の上に置くと革ひもをほどいた。その本はバサリと音をたてて開き、メモや紙切れがページから吐き出された。キッチョムは折りたたまれた分厚い紙をとりだすと本を傍らに引き寄せ机の上に広げた。
地図だった。スタンが言うには世界の何百分、何万分の一の地図…。この地図は世界の実際の大きさよりもっと小さいかもしれなかった。そして海は描かれている陸地よりもっと大きい。世界のほとんどが水でできているらしいのだ。キッチョムはスタンがまた冗談をいってるのかと思った。地図の上では海はまるで川のようだったからだ。だが、この陸地の端から川を挟んだ向こう岸は天気がよく晴れ渡っていても、どんなに目を凝らしても見えないほど距離があるのだとスタンはいっていた。
そしてソルマントは小さな点、いや点よりも小さい。この辺りだ…。キッチョムは地図に顔を近づけ覗き込むが見えるはずがなかった。スタンはキッチョムが地図を覗き込むのをみると腹を抱えて笑うのだった。世界のどこをさがしても地図を覗き込むのはキッチョムだけだという…。たしかに…おかしかった。
地図から目を離し、本のページをめくるとそこには大きな黄金の町が描かれている。たくさんの人や馬がとても小さく、豆粒のようだ。スタンは笑って教えてくれた。これは宮殿で国を治める王が住んでいるのだと。それが町ではなく宮殿であることに驚いた。いったい王様はどんな生活をしているのだろう…。宮殿の周りにうっすら影の部分があった。そこに町の人が住んでいるのだという。影の部分は遠くうっすらとどこまでも続いている。とても大きな都市だ…。スタンがいうには東へ行けば氷で宮殿を作った女王がいるとのことだった。氷の宮殿…。一度でいいキッチョムはその宮殿を、世界中の宮殿を見てみたいと思った。
たった一冊の本を見ているだけで、キッチョムはまるで夢の世界を覗き見ている気分だった。墓守の残した書物やデスダストがとてもちっぽけに思える。
ページをめくると一枚の紙切れが机の上に落ちた。その紙切れを手に取った。それはスタンがキッチョムにくれた船の半券だった。キッチョムがどうしても欲しいとスタンにせがんだものだった。
本のページを見ると大きな帆船の絵があった。三角形の帆と四角形の帆を幾重も重ねたその船は地平線をバックに白い水しぶきを高々と上げていた。帆は膨らみ風をしっかりと捕まえている。帆船は風を受け馬よりも早く走るらしい、とてつもなく大きいのに海の上を浮かんで進むのだ。
スタンはこれに乗って海の向こうグレートブリテンというところに行った。紙切れはその時の半券だった。残念ながら残りの半分は船乗りが持って行ったということだった。それが船に乗る時の決まりらしい。
半券をスタンがゴミだといって捨てようとしたのを見て慌ててキッチョムはいらないなら欲しいといった。スタンは怪訝な顔でキッチョムに半券を差し出したが、なんども「もう乗れないからな」といった。キッチョムは半券を掲げて眺めながら何度もうなずいた。スタンの言うことなど耳に届いていなかった。うれしくてしかたなかった。これを持っていればいつか自分もあの船に乗れるような気がした…。
そしてこの本をスタンがキッチョムにくれたのは、彼が死んで、キッチョムの前に初めてソルマントの死人として姿を現した日だ。彼はキッチョムの前に歩み寄ると本を差し出しこういった。
「死人には必要ないからな…」そう言って笑っていた…。
その日から毎日この本を読んだ、メモの細部まで。しつこくスタンに話をせがみいろんな話を聞かせてもらった。キッチョムが不思議に思うことは彼がなんでも説明してくれた。本を開くと胸が高鳴り、まるで知らない土地を渡り歩いている気分になれた…。
しかし、ある日ふと、気付いたのだ。温かいスープを飲んでいた時だったろうか…。それとも布団に潜り込んで寝返りをうった時だったろうか…。キッチョムの胸に、耳に、いまはもう体の感覚だけが記憶してる…。それは突然やってきた…。
「死人に必要のないものは、墓守にも必要ない…」
キッチョムはこの本を革の紐で硬く結び、書棚の奥へ、見えないところへねじ込んだ。悔しくて、情けなくて…いいようのない悲しみが彼を苦しめた。
それでもキッチョムは笑って過ごせた。デスダストを作り、ワインを飲み、死人とダンスを踊ったり…。歌を歌ったり…。ソルマントの墓守をちゃんとやってのけた、ずっと笑って過ごせるはずだった。あの日までは…。グレスフォードの老婦人と言葉を交わすまでは…。