30.≪-HELLS FIRE-≫
タムズの肉屋は今や町とともに濃い霧に包まれていた。さきほどから急激に冷え込んだかと思うと、アルトの二階の窓の辺りまで霧が立ち込めている。ここ数日の霧の中で一番濃いものだった。
アルトはタムズとともに店に残っていた。数人が心細いだろうと、彼らを避難先となる家に誘いに来たが二人はマルゴーのことを思い家に残っていたのである。アルトは不安と恐怖と戦いながらじっと外を眺めていた。
さきほどまでタムズが部屋にいたのだが、すぐに戻るといって出て行ってからというものアルトは窓際で、まるで見張りに立っているかのような気分で外を眺めていた。
そのアルトが驚いたように肩を震わせたのはマルゴーの部屋から微かに物音が聞こえたような気がしたからだった。耳をよく澄ましていたものの、それっきり物音を聞くことはできなかった。
気のせいかと思いながら自室の扉を開け、廊下を見やる。微かに開いたマルゴーの部屋の扉をみるといぶかしげに歩を進め、マルゴーの部屋の扉を開いた。
「姉さん……?」
扉を開く覗き込むとベットの上にマルゴーの姿はなかった。
慌てたアルトは階段の手すりに駆け寄り階下を覗き込んだ。階下はどこからか霧が入り込み、風が吹いているのか微かに揺れていた。
「姉さん!」
アルトは足早に階下へと降りていく。店内には人がいない。奥の作業場の扉が開かれており、その向こうの裏口のドアが開け放たれている。そこから霧が吹きこんでいるのが見えた。
アルトは駆け出し、店の外へ向かった。外にでると霧の彼方を見やるようにあたりを見渡した。白い霧の中にうすく乱反射するように黒い影が通りを歩いていくのが見えた。
「姉さん!!」
そう叫ぶとアルトはその影を追って駆け出した。
タムズの肉屋がたたずむ町の一角に路地があった。その路地に姿をひそめじっと店を眺めているのは自警団副隊長カールであった、霧が深くなってきたのもあって二階の窓にあった薄い影がますますかすんでいく。その影がかすんで見えなくなると霧の中でカールは目を凝らした。
そこはアルトの部屋でおそらくその影はアルトであろうとカールは目星をつけていた。カールは幾分霧のせいか湿ったパンにかじりつきながら、それをずっと眺めていたのだ。
ふと細い路地からなにやらぼんやりとした影のようなものが通りに出てきた。一瞬目を奪われたが、いそいで窓際に目を戻す。
そのとき、微かに声を聞いた。
「……姉さん!」
声を上げるその声は細い路地から聞こえてくる。やがて影があらわれるとカールは息を飲んだ。その声はアルトの声だった。
「あ、アルトか……」霧の中ぼんやりと揺れる影は足早に歩を進めたかと思うと立ち止まり、辺りを見わたす「あれはアルトの影か……」路地から姿を現すとカールはその影を追い始めた「じゃあ、さっきの影はマルゴー……?」自分の見た影のようなものがマルゴーだったのかどうか、カールははっきりとその姿を見たわけではなかったが、アルトが「ねえさん」と声を辺りに投げながら歩いているのを見る限り、そうであろう。
カールは自分の足音に注意を払いながら、歩みゆく影を見失わないように追いかけていく。アルトの影は細い路地に入っていった。足早に路地に近づき背中を壁に押し当て首を伸ばした。路地の奥に目を向けようとした時だ。
アルトのひきっつたような悲鳴が聞こえた。彼は思わず路地に飛び込もうとしていた。体をさらけ出し走り出す寸前だった。しかし、彼はそこから動くことができなかった。
あたりの白い霧にうっすらと赤い霧が混ざっている。
アルトは地面にしりもちをつき両腕で体を支えながらなんとか逃げ出そうとしていた。彼女の前に立ちはだかり、アルトを見下しているようにも見える男。それはどうやら自警団員らしかった。手にランプをもちぼんやりと突っ立っている。しかし、その男はアルトを見下すことなどできなかった。男には首がなかったのだから。
首から噴き出した血があたりに霧となり漂っていた。太い動脈からあふれてくる血が胸元を赤く染め始めている。男の手からランプがはなれ、ガラスが割れるような音を響かせた。男の膝は力なく折れ、アルトの足元に前のめりに倒れ込もうとしている。ランプが炎をあげ燃え上がっているため、辺りが幾分明るかった。
彼はアルトの肩を取り、立ち上がらせるため、慌てて駆けだそうとした。しかしその足が引き留められる。ランプの光を掻き消すような閃光が路地を駆け抜けた。辺りは昼間の明るさを取り戻したかのように見えた。その一瞬ののちに、彼の背中を爆音が襲った。カールははじかれるように振り向く、熱を持った暴風が彼を襲ったかと思うと辺りに立ち込めていた霧が一瞬にして吹き飛んだ。
見開かれた瞳は赤く染まり恐怖の光景がカールの瞳に写り込んでいた。