29勇敢なる者たち-7-
リディアは身近で見るブルーブラッド・キャンディエットを呆けたように見上げていた。厩のどの馬より大きく美しい毛並みをしている。手を伸ばしそのたてがみに触れると白馬は大きな瞳をリディアに向けた。
「キャンディ……」瞳を潤ませながらリディアは笑みを見せる。
「ブルーブラッドだよ……。歴史と名誉のある名前だよ『名門の』って意味。キャンディって女の子みたい……、ブルーブラッドのほうがかっこいいだろ」
「あら、男の子なの……?」
「あ……メスだけど……。キャンディエットっていうのは……高潔と強い意志を表すんだってさ。なんだっけな……?白い長衣をまとった選ばれし者……」そういうとルッベ少年は白馬の背中に鞍をのせた。ベルトをきつく伸ばすと、反対側に回りベルトを掴んで引っ張った「君のために選ばれたんだ……」
「え……?どういうこと?」
「誕生日だろ?もうすぐ……」そういうとルッベ少年は革紐をベルト通しに入れ、きつく締め始めた「でも、この前の一件で大奥様はかんかんに怒って馬はわたさないって言ってるらしいし、コールリッジも君には内緒にしてろっていったんだ。だから、この前みたいに鞍なしで馬に乗ったり、危ないことは……」革紐を結び終えたルッベ少年がそこで顔をあげ立ち上がるとリディアは白馬の首に腕を回し抱きついている。
「キャンディ……」
「ねえ、聞いてる?!」
「え、なに?」
「もういい!!」ルッベ少年はふくれっ面で厩に入ると、馬に咥えさせるハミと手綱を持って出てきた。
「ねえ、なによ。なにをそんなに怒ってるのよ」
「リディアはみんなが君のことどんなに大事に思ってるか考えたことなんてないだろ!いつも後先考えずに自分のやりたいようにやって、心配ばかりさせて……」ルッベ少年はハミをキャンディエットに加えさせると、革紐を放り投げ器用に巻き上げていく。手慣れた仕事で手早くやってるように見えたが、視野は涙で揺れ、鼻孔に鼻水が流れていくのを必死にすすっていた。
ルッベ少年の首元にキャンディエットの鼻先が優しく触れた。濡れた大きな瞳が心配そうに彼を見つめていた。
「……なんだい、いまさら、君だって僕のいうことぜんぜん聞かないじゃないか……」
「ルッベ、わたし……わたしだってわかってるのよ。みんながわたしのこと大切に思ってくれてることくらい。わたしだって、あなたや屋敷の人たちのことを大切に思っているもの……守りたいのよ、あなたたちみんなを……」
ルッベ少年はキャンディエットの鼻先に触れ、その顔を抱きしめた。瞳にたまった涙が頬に流れ落ちた。
「……ブルーブラッド・キャンディエット。君は最高の名馬だろ……、だからお願い………リディアを、リディアを守って……」
「ルッベ……」キャンディエットにしがみつき泣き始めたルッベをリディアは見つめていた。ルッベのいうとおりだった。自分がいままでどれほどの人に大切にされていたかなんて考えたことなどなかったかもしれない。自分は間違っていない。自分に嘘をつかず、ただひたすらに自分を信じてやってきた。そして、そんな自分を人は理解できないのだとさえ思っていた。
リディアは庭を、屋敷を眺めた。自分が生まれ育った場所だ。そこにはたくさんの思い出があった。ひとりで笑うなんてことできるだろうか、笑い、怒り、泣いて……叱られるなんてこと、どの思い出も自分一人では記憶に残すことができないものばかりだ。そのどれもが愛おしかった。そしてみんなが愛おしかった。
リディアの頬を涙がとめどなく流れ落ちていた。
「ルッベ……」リディアは腰を屈め、ルッベを引き寄せると強く抱きしめた「守りたいのよ……愛おしいものすべてを。あなたが、みんなのことが大好きなの。だから、わたしはあなたたちが悲しむことは絶対にしない。約束するわ……」
ルッベの嗚咽が激しくなり、心臓の鼓動がリディアに伝わっていた。リディアは暖かい温もりを感じると瞳を閉じた。瞳にたまっていた涙が大きな滴となり頬をつたう。
「あなたが選んだ馬よ……、どんな馬よりも速く走る、どんな怪物も追いつけやしない……」
ルッベはリディアの肩に顔をうずめながら頷いた。
リディアの瞳が開かれた。庭には深く濃い霧が立ち込めていた。彼女はルッベの肩を掴み引き離し、その泣きぬれた顔を覗き込んだ。
「約束する……危ないことはしないわ」
ルッベはリディアの力強いまなざしを見つめると頷き涙を拭った。
リディアは立ち上がり。アブミに足をかけると勢い良くキャンディエットの背に飛び乗った。そしてルッベに手を差し伸べる。
「ルッベ、お願い」リディアの瞳が地面に置かれた槍に向けられた。ルッベはそれを取り上げると、彼女の手のひらに置いた。
リディアは笑みを見せ「ありがとう」というと、真剣な眼差しをルッベに向ける「いい、あなたも約束してちょうだい。屋敷に戻ってみんなと一緒にいて。もしそれができないならせめて厩の中でじっとしていてちょうだい。そしてなにがあっても外に出てきちゃだめ、約束できる?」
「わかった……」
リディアはルッベが頷いたのを確かめると、手綱を引き、アブミを蹴った。キャンディエットは前足を高々と上げると、霧を吹き飛ばすように首を振るった。彼女の力強い声と同時にキャンディエットは走り出していた。霧を吹き飛ばし、土を抉る。力強い蹄の音が闇に響き渡る。
グレスフォードの門が開いているのが見えた。リディアは警戒し辺りをちらりと見渡し人影を探す。その一瞬のうちに門は眼前に迫っていた。門を通り抜ける瞬間風音が耳をかすめた。リディアは振り返り通り抜ける門を見やった。グレスフォードの門がみるみる遠くなっていく。蹄の音を耳に聞きながら流れゆく景色に見とれた。
「はやい……ルッベ、あなたにこの景色を見せてあげたい!」リディアは前方を睨みつけ、手綱を強く握られずにいられなかった。このスピードに慣れなければならなかった。瞬きをすれば一瞬にして自分の位置さえも見失い兼ねない。それほどにブルーブラッド・キャンディエットは速かった。リディアは声をあげキャンディエットを煽ると、キャンディエットはさらにスピードを上げていった。
石畳を蹴る蹄の音は空気を揺らし、駆け抜ける白い馬体は霧を破り、渦を巻きあげていく。しかし、その霧はすでに深く濃くなり始め、グレスデンの町全体を包み込んでいた。