29勇敢なる者たち-4-
グレスデンの町を縦横に流れる運河の水中に、紅く微かに光るボウフラのような虫がどこからともなく大量に現れ、蠢いていた。その水底に虫のことなど気にもかけず、巨大な斧を引きずり、甲冑に身を包む屍が歩を進めていた。
虫の赤い微かな光で水底に鎧男の影が赤く浮かび上がる。藻のように揺れる髭、肉のない頭蓋骨に兜をのせていた。
やがて船着き場の水面に黒い影が浮かび上がり、石段を上がってその姿が空気に触れ始めた。水中から上半身を出した鎧男の顔の周りに一匹の虫が羽音をたてて飛び交うと、鎧男はさも目障りだというように睨み付けながら、兜を脱いだ。
その虫は顔の周りを右へ左と飛び交い、頭蓋骨に穴を見つけるとその穴のそばに降り立った。そこはおそらくは耳があったであろう場所で、今では小さな穴があいているだけ。虫は触覚であたりに触れ、不思議に思いながらも歩を進めて穴の中に入っていく。
「忌々しい……。わたしの忍耐はもう我慢の限界だ……」
鎧男は低く唸るような声を出した。
その頭の中で虫の羽音が響き始めた。その不快な羽音はやがて声になり始める。
『……リッジ……コールリッジ……、もどり……、リッジ……もどりなさい。聞こえているんでしょう』
「聞こえている!だが、もどるつもりはないぞ。わたしは我慢の限界だ」
『主は必ず現れる……。わたしのいうことを信じなさい』
「そのものいいが気に障るのだ……上から目線でものをいいおって。この数日、化け物が現れこそすれ、主は一向に姿を現さん。どんなにあのボウフラどものが水底で暴れ、霧を発生させようと主の気配すら感じん!それどころかソルマントの死人までが姿をあらわしたんだぞ!」
『わたくしのものいいが気に喰わないというなら心から謝罪いたしましょう。ですが、主を見つけぬことにはグレスフォード城を守ることなどできないんです。あの化け物はこの世のものではない、それぐらいあなたにもわかるでしょう』
「それがどうした、異界のものにビクビクしているお前と一緒にするな!鉄クズ野郎など目ではないわ、わしの敵はソルマントの死人どもだ!」
『わからないのですか?それだけではありません、不穏な空気を感じるのです……このままだといずれグレスフォード城は……』
「……歳をとったな、クィーン。それは老婆心というのものだ。なにをそんなに恐れているんだ?おまえはまた安住の地を奪われることを恐れているのだ。なにか証拠でもあるのか?その、不穏な空気とやらに……」
『……それは……』
「だったら、さっさと鉄クズ野郎を叩き潰し、ソルマントの死人をばらばらに叩ききって、ハカモリにきついお灸をすえてやることだ」
『なんのために?それは、誰のため?よおくお考えなさい、コールリッジ』
「何のためだと!?き、きまっているだろう……こ、この町のためだ……」
『あなたは高潔な騎士だったはず、自分を欺くことが許されると思って?』
「み、見過ごせというのか……」
『そうではありません、主は必ず現れる、そういっているのです。今のあなたには大義名分などない。あなたが生きていた時代とは違うのですよ。あなたは主の影、その存在は主なしでは成り立たない。そうでなくて?』
「……クッ……口が達者なのは歳をとってもかわらないな…… 」
『わかっていただけたかしら……?コールリッジ……、私の命も今や風前の灯火……』
「な、なにをいいだすんだ唐突に……、なにをそこまで弱気になる必要がある!」
『わたしの命が大事でいってるのではないのです。私たちダークインセクトは……』
「わかっている!」
『……わたしたちにとって、グレスフォード城こそが最後の安住の地なのです……』
「……わかっているとも……すまなかった。わたしが言い過ぎた……」
『なにをいっているのですか、わたしはただあなたに感謝していると……』
「礼など必要ない、グレスフォードを守る代わりに、城に住まうことを許したのは先の王とお前たちが交わした契約ではないか……、お前たちの住処を誰にも奪わせはしない。それについてはわたしに大義名分がある」
そういうと鎧男は腕で頭蓋骨を叩き耳の穴から虫を追い出した。
「これだから……歳は取りたくないのだ……」
ゆったりとした水音があたりに響き、鎧男の姿はゆっくりと水底へと姿を消していく。水面に揺れる影を最後にあたりに濃い霧が漂い、静寂が辺りを包んだ。