Giặc không Hàn Quốc 韓国空賊
世界が混迷を迎える中で大韓民国は閉鎖的になっていった。
少子化により、もはや生活やインフラの維持に必要な体制が維持できず、あらゆる所で人口や世帯を把握できなくなり、社会が融解しつつあった。
一方で、朝鮮民主主義人民共和国の南下が始まっていた。かつて厳重な警備体制が敷かれていた国境線も、もはや意味をなさず、密入国者を阻むことはできなかった。
それは必ずしも国家の主導によって引き起こされたものではなく、時として個人や家族による私的な動機による場合もあったが、住民の移動が数十年にかけて少しずつ規模を大きくして半島全土に及んでいった。
過疎化が進んでいた韓国の土地に彼らは静かに、しかし着実に定住していった。彼らは放棄された土地の開拓などを行い、土地を作り替えていった。
政府はやがて南部への開発事業としてこれらの運動を国家による計画として組み込むに至る。かつてはあきらめかけていた統一が現実味を帯びてきたのである。
58年、ソウルはついに朝鮮の手に落ちた。しかし、正式に政府を継承する組織は存在せず、旧韓国の政府を自称する勢力が次々と現れ、抵抗は次第にまばらになっていった。
そしてそれはもとから韓国に住んでいた人々の離散を引き起こし、海外へ逃亡する大量の難民を生むことになった。そしてそれは暴力行為にも発展した。特にその中でも大規模なものが55年から翌年にかけて続いた空賊の乱。
この外冦の首魁は趙泰慎(조태신)という者である。
この男の出自に関しては謎が多い。彼の側近から聞き取った記録では「白翎島の出身」だとしている。しかし別の資料では彼を朝鮮人だとしている。彼ら自身が残した記録は少なく、そのほとんどは全く別の立場から接した人々の記述によらねばならないので、どうしても媒体ごとの食い違いが多い。
この中では、むしろ出自の不明な者の方が多数派であった。
グライダーとドローンを組み合わせた飛行兵器が大陸では開発されていたが、泰慎は永宗島にあったそれらを兵器庫から鹵獲し、蜂起した。そして四千人以上に膨れ上がった軍団をさらに南に向けて飛ばし続けた。彼はその最中、巧みな話術により人々を説き伏せ、さらに郎党を増やした。こうしてできあがった集団は、まさに蝗のように広がっていった。
七月五日、佐世保に上陸したのを皮切りに東へ進み続け、下関への上陸を許すこととなった。破竹の勢いで十月二日には当時東日本軍が占領していた松江にまで到達する。
博多での戦いで防衛にあたった阮仁勝(Nguyễn Nhân Thắng)は、手傷を負いながらも生還し、『鉄人(Người Sắt)』と称されるに至る。彼はのち日本海戦争において大和の逆転につながる巨済島砲撃を指揮し、半島への復讐をなしとげたとされた。
東日本軍はその際、彼らを単なる暴徒の類など見なし、大した脅威だと思っていなかった。しかしそれは誤りであった。彼らはすでに祖国を捨て、あてもなく進み続ける嵐のような集団であった。彼らにとっては西日本と東日本の違いなどつかなかった。生き延びるため、目前の敵を排除することだけが唯一の存在理由になっていたのだ。
泰慎に仕え、片腕のように活躍したのは崔潤徹(최윤철)という男だった。彼はゲリラ攻撃に巧みであり、一分間、時速数百キロメートルまで加速して敵軍の中を駆け抜け蹂躙する戦術を好んだ。
ところで西日本にはこの頃、元韓国軍人朴祖炫(박조현 Phác Tổ Huyễn)が軍事顧問として仕えていたが、無論祖国の同胞がこのような蛮行を働いていることに心穏やかではいられなかった。祖炫は敵に内通しているという疑いをかけられぬように前線で戦うことを志望した。
世の中に絶望した日本人の中には、泰慎の勢力に自ら加わる者もいた。この時代には民族や人種の境界線はかつてほど堅牢なものではなく、人間の所属意識はいつでも流動的になっていたのだ。西日本で起きていた社会の根本的な変革と、これは様相を一にしている。
最大の攻撃は当時東日本海軍の戦力が集中していた敦賀に対するもので、この攻撃により東日本軍は揚陸艦「ひらぬま」を損傷し、駆逐艦「いかるが」を失った。「いかるが」は船員の抵抗にもかかわらず空賊の侵入を許し、内側から爆破されたのである。これによって大和にとって後々山陰攻略がやりやすくなった。司令官工藤鉄馬が戦死するほどであった。ほぼ同時に、中南米系移民の移送が存在したので、一時東西日本の戦争は中止されることとなった。
深刻な状況を前に、池真文は西日本との共闘を打診した。
草案には当時、西日本副総理領の国境を回復する旨すら盛り込まれていた。これは当初極秘事項とされていた。
そして、このような状況でも利益を得ようとする者がいた。空賊を西日本政府の敵として歓迎する者は多く、李聖平の反乱当初から越南人主導の西日本に抵抗する国民戦線の広報官寺田治が彼らに共闘を持ち掛けたが、攻撃された。武力で威圧することなしに、空賊に交渉することなどほとんど不可能だった。
盗賊とはいえ最低限の規律を持つ必要があった。そのために、空賊が分布する地域にはある種の国家とも呼ぶべき領域が形成された。
泰慎はただ単に略奪するだけでなく、支配した地域に代官を置いて支配させた。
こうして蔚山から敦賀に至る広大な地域の一瞬ではあるが王として君臨したのである。泰慎自身は松江に居座った。
街に駐在していたある特派員が、市役所に住まう彼の風貌について触れている。彼は海を渡る最中激しい潮風にさらされ、実年齢よりもかなり老けており、ひげもほとんどそっていなかった。眼窩も落ちくぼんでいたが、しかし眼光だけは険しく灯っていた。
次第に泰慎の軍団はあまりに散らばってしまい、統制が取れなくなっていった。上の者が制止しても、勝手に略奪に出かける者が後を絶たなかった。
休戦前に中国戦線で防衛にあたっていた西日本の将官、鈴木策造は「彼らは故郷を失った流民であり、定住させることも送還することもできない」と述べたうえで捕虜を取れない旨を文開に伝えた。
無秩序ではあるが長引く敵の猛攻を前に、鈴木策造は高射砲や地対空ミサイルの使用を提案したほどだった。この際沿岸都市に配備された砲台が、のちに軍艦に搭載され、瀬戸内海における東日本軍との海戦においておおいに役立った。
これ以後、西日本軍は彼らを徹底的に殲滅する方針にかじを切った。東日本でも方針は同様であった。
ほぼ一年がたち、空賊も燃料の補給が滞り、また広い地域に散らばることで各地で敗北することも増え始めた。
その勢いにややほころびが見えてなお、泰慎の軍団はなお強勢を保つかに見えたが、思わぬ不運が襲い掛かった。
日本とは異なり技術の後退が遅かった大陸では、あらゆる兵器が政府の管理する軍事サーバーに統制され、サーバーからの認証がなければいかなる兵器も稼働しないようになっていた。しかし彼らは認証キーやICカードごと強奪することでこれらを稼働させていたのである(時には、正規の操縦者の指を切り落とすことさえあった)。
だが老朽化していたサーバーが突如機能を停止して、兵器に紐づけられた電子データが消失してしまった。これにより彼らが有していた銃の類はただの鉄くずと化し、一瞬で丸腰となった彼らに東西日本軍は猛烈に襲い掛かった。
ただ単に軍だけでなく、庶民も敵であった。市民は武装を無効化された空賊へのリンチを大々的に行った。政府は彼らによる勝手な狼藉を苦々しく思いながらも黙認した。何より金がなければ戦争ができない以上、市民が私物にした兵器を軍が買い上げることすらした。祖炫はこのような施策に苦言を呈したが、策造は「きれいごとで戦争ができるか」と言ってたしなめた。
祖国統一戦争当初から戦闘に志願する市民は多かったが、正規の訓練を受けていない人間による戦闘はしばしば節度を失うもので、見境のない暴力の応酬が相次いだ。軍隊ではなく強盗が相手のこの時にはなおさら深刻なものだった。しかしこの僥倖によって西日本軍は優勢に反撃を進めることができた。
敦賀を奪還され、もはや捕縛されるのも時間の問題となった所で、真文は松江において泰慎との会見に臨んだ。
真文は、泰慎に対して「なぜ祖国とともに戦わないのか?」と説得した。
泰慎は「すでに消滅しつつある国のために何ができるというのだ?」と返答した。西日本も韓国も危急存亡の秋にある以上、もはや国家に信を置くことなど不要という諦観が見て取れる。
真文はさらに説得を重ねた。彼は、東西日本にはまだ健在な軍備が存在することを強調し、ここにいることはもはや不可能であることを泰慎に納得させようとした。
こうしてついに56年十二月九日、泰慎は要求に応じ日本を去る。
彼らが残した精密機械は大和の工業の発展に活用されることとなった。これ以後、日本の資料では彼に関する記録は存在しない。
泰慎は、翌年中国にも来寇したが、結局58年、残存勢力を率いて半島に帰還する。一層朝鮮軍は南下しており、もはや韓国側が勢力を盛り返すことはないと誰もがあきらめていた中で、軍の高官の中には泰慎の軍団を敵にぶつけることこそが反撃の手段ではないかとつぶやく者がいた。
泰慎は、自分が英雄扱いをされていることに戸惑ったが、彼は自分の進むべき道を今更変えるわけにはいかなかった。
泰慎は聞慶で朝鮮軍との戦闘のさなか、撃墜され戦死。その功績を称えるための勲章が贈られた。
そして、彼の死後勢力はいくつかに分裂し、衰退していった。彼のようなカリスマを持った指導者がいなかったために、軍団は一瞬で覇気を失い、かつてのような猖獗を極めることもできなかった。
朝鮮は、さらに南へ探査と入植を進め、64年には反抗勢力を全羅と慶尚の二つに分断する。西日本がそれを阻止すべく動いた様子はない。
68年十月には釜山を陥落させ、十月十八日~二十日にかけて絶影島で残存勢力を滅ぼす。翌年には済州島に残った最後の勢力を撃ち滅ぼし、七月に半島の統一を宣言。
しかし、彼らの命脈はいまだ絶えていなかった。77年、空賊は最終的に咸鏡南道でひそかに行動を続けていた。
泰慎には趙学浚(조학준)という息子がいた。学浚は父ほどのカリスマを持った人物ではなかった。だが、父の武勇にあこがれており、朝鮮に対する捲土重来を志していた。
彼らはかつての祖国を取り戻すという大義に目覚めたようであるが、もはや時間がなかった。
政府はまだ半島内に残っていた航空兵器のデータを更新し、部外者による操縦を拒絶させた。
これに対し、空賊残党の中にいた技師はデータの照合をしなくても動かせるよう改造することで対処。そのために政府はさらに彼らへの弾圧を強めた。
朝鮮政府にとっても空賊というのは甚だしい害悪であり、74年には泰慎の残党を殲滅することを宣言。こうして彼らの居場所は次々と摘発された。
77年には学浚が慶尚北道に潜伏していることも明らかとなり、命を狙われるが、崔潤徹は、学浚と協力して敵に立ちふさがり、ともに戦死した。
この戦争は、西日本政府に日本人住民を協力させる大きな原因だった。
国民戦線の指導者中村玲は、寺田治とともに日本人ナショナリズムの観点から越南人に対する抵抗を続けていたが、この戦争以後は共闘路線に進路を変え、越南人との共存と九州人としての自己意識の間の折り合いをつけるため隼人主義という新たな民族思想を発明するに至る。空賊に危機が去った後はまっさきに彼らは東日本軍との戦闘に加わったのだった。
戦いの中で空賊から投降した者は少なくなく、中には出世を遂げた者もいる。
会計を担当していた宋淳(송순)は早いうちに投降したため一命をとりとめ、陸軍において佐官にまで昇進している。
ホームレスから身を起こし、西日本軍に降伏しても殺されることを知っておののいた朴堤吉(박제길)は東日本軍に内通し、同胞の動向を包み隠さず教え、彼らを討伐させた。のち、東日本の勧誘により山形自治領の技術士官に取り立てられている。
後、松江が日本海戦争後租借地となった時、大和人にこの時の記憶を強烈に思い出させたことは想像に難くない。
だが朝鮮そのものも、激しい時代のうねりを乗り越えるには、もはやこの新たな環境に適応できるほどの体制を有してはいなかった。
89年にクーデターを起こした鄭守均(정수균)が皇帝となることで、数百年ぶりに大韓帝国の名称が復活することとなる。




