第3話:灯紫喜伯爵家
ひとしきり泣いた彬子は、ソファに座り直した。
「すみません私ったら、取り乱しちゃって」
照れ笑いする彬子に、
「そんなこと、気にすんじゃないよ」
「はい。ありがとう美桜さん」
慰めてくれる久多良木に、彬子は微笑んだ。そして真顔になると、正面の日本松を見る。
「社長、私とこの子について…、皆さんに聞いてもらおうと思うのですが」
「そうだな、良い機会だ。思う存分吐き出しちまいな」
「はい」
長く黒いまつ毛に縁どられた目を、彬子はふわりと和ませる。そして隣に座る少年――直秀の背中に、そっと手を添えた。
「私がサキガケ堂に来ることになったこと、そして、この子のこと。少し長くなりますが、聞いてくださいまし」
*** 彬子・回想 ***
金に縁どられた西洋の家具が置かれ、日本の伝統工芸品が飾られた応接室。
普段接客用に使われる洋間には、灯紫喜伯爵家当主克重と、孫娘の彬子が向かい合って座っていた。
「もう16歳になったな」
「はい、おじい様」
桃色のワンピースに身を包んだ彬子は、晴れやかな顔でそっと微笑む。目が大きく、顔立ちがはっきりしていた。
孫娘の笑顔を眩しく見やり、克重は石突を床に押し付けた。
「お前は女児だから、この灯紫喜の家督を継ぐことは出来ぬ。だが、お前の父母は鬼籍に入り、他に兄弟は居ない」
杖の柄を握る克重の手が、微かに震えた。
「婿を取り、跡継ぎを産むのだ」
彬子はジッと祖父の顔を見ていたが、やがて小さく頭を下げた。
「判りました、おじい様」
* *
「ついに結婚という重責が突き付けられたわ!」
両手を腰に当て、彬子は挑戦的に言う。
「結婚するのはかまわないけど、一体どこの殿方を押し付けられるのかしら」
「まあまあ、そんな言い方をなさるものではありませんよ、お嬢様」
乳母の文月が、皺の刻まれた顔に困惑を浮かべた。
それを見つめ、彬子は肩にかかる髪を払いのける。
「まあ、お相手の殿方も、自分が種馬になるという自覚はあるのでしょうけど」
「お嬢様!」
一喝されて、彬子は軽く首をすくめた。
「だって、私のお相手になる方は当主になれないんですもの。それが判っていながら婿入りして下さるなんて、不憫でならないわ…」
心が触れたように、まつ毛が小さく震える。
「だから私は、お相手の方を絶対見下したりはしません。温かい夫婦になります」
父母が不慮の事故で他界したときから、婿を取ることになるだろう。それが判っていた彬子は、心の準備は努めていた。
「どんな方かしら。楽しみね」
* *
顔合わせは東京郊外にある、灯紫喜家の別邸で行われた。
「ねえ文月、どうして本宅で行わないのかしら?」
「……相手の方は、成金家の次男坊だそうですよ」
酷く嫌そうに乳母は言った。
「まさかそれで別邸で? 失礼にあたるのではなくって?」
「いいえ。身分違いもいいところです。御当主様の、最大の配慮でございますよ」
「そうかしら……」
彬子はそれを差別的に感じて唇を尖らせた。
「布留川 林太郎と申します」
感情を削ぎ落したような声は低く、しかし耳を優しく包み込むようで心地よい。
仕立ての良いスーツをまとった林太郎は、様になり美男子だ。
(ちょっと恰好良い方ね)
面に出さないように、彬子は心で満点を押す。
(でも、仕事人間って感じがするわ。伯父様がそんな感じだもの)
行動が時間を刻みそうな雰囲気を感じた。
「灯紫喜家の姫君をお嫁様にいただけるとは、いやはや、なんと喜ばしい」
義父になる布留川 俊作が、汗を拭きつつ大声で持ち上げる。
上座に坐す克重の反応は冷たかった。
向かいに座る2人に、彬子は親し気な笑顔を向けた。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げた。
顔をあげると、林太郎の目が彼女の肩越しに抜けていった。
その一瞬だけ、胸のどこかが軋んだ。
* *
林太郎との夫婦生活は、想像の斜め上をいった。彬子が憤慨するほど、周囲の林太郎への扱いが酷かったのだ。
華族同士の付き合いやパーティーには絶対呼ばれない。
屋敷では居ない者のように振舞われた。
挙句「跡継ぎはまだか」と、毎日念仏のように言われるのだ。
「灯紫喜家に金を運んでくる種馬」
そう揶揄する使用人まで出るしまつ。
その発言を耳にしたときは、問答無用で解雇し叩き出していた。
「怒ることじゃないさ。初めから判っていたことだ」
平然とした口調で林太郎は言うが、彬子は納得できなかった。
「でも林太郎さん、最近あまり屋敷に帰ってこないじゃないですか」
拗ねるように言う彬子に、林太郎は笑ってみせた。
「新しい事業が忙しくてね。大丈夫、務めはしっかり果たすから」
* *
林太郎と結婚して3年経ち、彬子は待望の男児を出産した。
「でかしたぞ、彬子」
はしゃぐように克重は大喜びした。
その様子に微笑みながら、ふと彬子は室内に視線を走らせた。
「おじい様、林太郎さんは?」
「仕事が忙しいんだそうだ。いずれ顔を見せるだろう」
「そう…」
仕事人間なのは、この3年間で学んでいる。でも、特別なこの時間は、息子誕生の喜びを共に味わってほしいと思う。
「こんな時くらい、傍にいてほしかったわ…」
* *
産後ひと月もすると、身体は調子を取り戻していた。
「文月と使用人たちが助けてくれるとはいえ、赤ちゃんのお世話って本当に大変なのね」
おむつを替えて、赤ん坊――直秀を寝かせ直したばかりである。
すやすやと眠る直秀を見つめ、彬子の顔には自然と笑みがこぼれた。
「毎日見ていて飽きないわ。なんて可愛いのかしら」
時折、手足を動かす仕草が愛おしくてたまらない。言葉にならない声を発すると、何を伝えてくれようとしているのか必死に聞く。
直秀を産んだ今、彬子は幸せだった。
傍にある椅子に座り、縫物を再開しようとした。その時、部屋の扉が荒々しくバンッと開けられた。
あまりにも大きな音に驚いて、直秀が泣き出してしまった。
「林太郎さん!」
腰を浮かせた彬子の前に、林太郎はビシッと一枚の紙を突き付けた。
「私が仕事に忙殺されている間、不貞を働いていたとはどういうことだ!」
「…え?」
紙には『調査報告』とあり、彬子が間男と不貞を働いているという内容が綴られていた。
唐突過ぎて身体が強張る。
「な、なんですかこれは!? 不貞って…、私は妊婦だったんですよ?」
「節操のない、好き者だったってことだろう」
「何を言っているんです……」
これまで見たことがない林太郎の冷酷な表情。あまりの迫力に息を呑む。
「君は所詮、見せかけだけの淑女だな。庶民の婦女ですら、貞操観念はしっかりしているというのに」
バチンッ!
言葉よりも先に手が出た。
林太郎の頬を、思い切り平手打ちしていた。
「身に覚えのないことです! そんな侮辱を黙って受け入れるとお思い!」
「なんとでも言え」
口の端を切ったのか、林太郎は咥内の血を吐き捨てた。
「この子も、本当に私の子供なのか怪しいな」
「ひっ、酷い!」
「伯爵令嬢とはいえ、不貞を働く女をこれ以上ここには置いておけない」
「何を――」
林太郎はジャケットの内ポケットから、細い葉巻を取り出した。
「今すぐ出て行ってもらおう。そして、二度と灯紫喜家の敷居をまたぐことは許されない」
「そんな」
「灯紫喜家当主の御命令だ」
シュッとマッチを擦って、葉巻に火をつけた。
その様子を絶望の眼差しで見ていた彬子を、やがて屈強な使用人たちが部屋の外へ連れ出した。
「待って、林太郎さん!」
「放り出せ」
顎をしゃくり、林太郎は彬子に背を向けた。
「そんな、林太郎さん! 直秀!」
乱暴に腕を引っ張られ、屋敷から放り出されてしまった。
「ワケが…判らないわ……」
痛む肩を抑え、閉ざされた欅造りの門を見上げた。
あまりにも突然すぎた出来事。時間にして30分も経っていない。
どうして林太郎は、あんなことを言い出したのか。
「不貞なんて。話すら、聞いてもらえなかった」
悔しさの為か、肩の痛みの為か。涙がどんどん溢れてきて止まらない。
乳房が張るのを感じ、そろそろ授乳の時間だと気づく。
「直秀…」
我が子の名を呟くだけで、日々の様々な出来事が心を過っていく。
「もう、お乳をあげることもできないの?」
冷やりとした絶望感が、全身に圧し掛かる。
「わああっ!!」
吠えるように叫び、彬子はその場に泣き崩れた。
*** 回想終わり ***




